プロレス界における世界タイトルの統一戦と言えば、どんな試合が脳裏に浮かぶだろうか。昭和末期の約10年間のスパンで見ると、1978年の1月に行われたハーリー・レイスとスーパースター・ビリー・グラハムの一戦(NWA-WWWF)を皮切りに、レイスとボブ・バックランドの一連の試合(同)、或いは1979年のニック-バックランド戦(AWA-WWF)などが思い出される。
以上の試合は、いずれも当時のゴング誌などで巻頭ページを割いて報道されたので、記憶に留めておられる方も多いと思うが、更に時代を遡って、例えば1940年代以降、全米規模で丹念に記録を探せば、果たしてどのくらいの「統一戦」が出てくるだろうか。見当もつかないが、地元のファン以外には知られていなかった「世紀の一戦」は、恐らく数十試合を下らないような気がする。
前置きが長くなったが、前回(WWA史外伝)の続きに戻りたい。1964年10月5日、アルバカーキで「チャンピオン」フレッド・ブラッシーを破ったドリー・ファンク・ジュニアの初防衛戦の相手は、NWA王者ルー・テーズ、試合は11月9日に同所のシビック・オーデトリアムで行われると発表された。下に添付したのが、試合結果を報じる地元紙(11月10日付けアルバカーキ・トリビューン)
試合は3,500人強の観衆を集め、一本目はテーズがフライング・ボディシザースで先制(35分33秒)、二本目はファンク・ジュニアが43秒の速攻でスピニング・トーホールドを決めてタイとした後、三本目は時間切れで引き分けた、とある。ジュニアが前月にブラッシーを破って戴冠した際の観客数は約2,000と報じられており、「タイトル統一戦」がそれなりに動員に貢献した様子が窺える。
翌年の年明け早々、1965年1月4日には同所における「決着戦」が時間無制限で組まれるも、残念ながら結果を報じる記事が出てこなかった。恐らく
両者ダブルKOなどで再びドローとなった公算が高い。
カバーに添付した写真入りの記事は、この再戦当日(試合直前)の朝刊からの抜粋だが、余談として、最近のテーズの「ベスト・パフォーマンス」と称しつつ、ヒューストンで行われた大木金太郎戦にも触れている。(この一戦がテーズの「怖い面」を改めて知らしめた有名な試合であった事は言うまでもない。)
ジュニア自身、二年ほど前に出版された自伝の中で、若手時代にリッキー・ロメロから「ルーのダブル・リストロックへの対処の仕方を知らないレスラーは容赦なく潰される」と散々脅かされたと述懐しているが、グリーンボーイ時代のテーズとの対戦がどれほど緊張を強いるものであるかを、如実に物語るエピソードではないか。
作家の村松友視さんは、かつてファンク・ジュニアを称して「全盛期のルー・テーズとの試合が最も似合う若造」と書いたが、レスラーとしてのジュニアの本質を的確に形容した言葉として印象に残っている。
願わくば、全盛期の最末期と言って良いテーズとデビューして二年に満たない「若造」の試合が実際どのように展開したのか、是非会場で観戦したかったところである。ちなみに当日のリングサイドのチケットは4ドル。60年前の1960年代半ば、地元のファンにとっては決して安い金額ではなかったろうが、それにしても…。
ところでジュニアのWWA戴冠期間はどれくらい続いたのか。一つの手掛かりとなるのが、1965年4月19日付けのトリビューン紙。そこには、近くアルバカーキに登場するパット・オコーナーのパートナーとして「最近WWA王座から転落したファンク・ジュニア」が紹介されているが、新チャンピオンについては言及がない。
この顛末について、改めて試合記録を調べるのも野暮な気がして、今日まで手付かずのままである。
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