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お宝ベルトの行方

  • Satom
  • 3月21日
  • 読了時間: 9分

更新日:4月12日

Youtubeなどの動画サイトを流し見していると、しばしばもの珍しい映像に遭遇する。


添付の画像はAntiques Roadshowという長寿番組からの抜粋(2017年放送)だが、これは一般人が珍しいお品を持参して、専門家が値段を付けるという「お宝鑑定団」の西洋版のような企画である



中央に小さく写っているが、この時に出品された「お宝」は旧いチャンピオンベルトと写真類。

画面左側の男性が出品者だが、この方は「元NWA世界チャンピオン」オービル・ブラウンのお孫さんにあたる。


オービル・ブラウンと言えば、ルー・テーズとの

「NWAタイトル統一戦」(アソシエーション vsアライアンス)の直前(1949年11月)に、不慮の自動車事故で大負傷したレスラーだが、このブラウンが腰に巻いていたのが「ナショナル・レスリング・アライアンス」が認定した初代ベルト。


ナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)といえば、1970年代から80年代にかけて、全日本プロレスのリングにおけるタイトルマッチ宣言で何度となく耳にしたキーワードであり、その名称には馴染みがあるが、なぜ第二次大戦後にブラウンが締めたベルトが「初代」なのか? 


 更にこのベルト、よく見ると途中で「細工」をした様子が見受けられる。


旧い趣きのあるチャンピオン・ベルト。上段の  プレートにナショナル・レスリング・アライアンスと銘打たれているが、よく見ると"パッチワーク"の跡が窺える。上段両端、下段左のプレートにご注目
旧い趣きのあるチャンピオン・ベルト。上段の  プレートにナショナル・レスリング・アライアンスと銘打たれているが、よく見ると"パッチワーク"の跡が窺える。上段両端、下段左のプレートにご注目

番組の中で鑑定者が紹介しているが、このベルトは元々MWA(Midwest Wrestling Association)のチャンピオンが締めていた物で、ブラウン自身歴代王者に何度も名を連ねている。*1)


ブラウンをチャンピオンとして擁していたのは

ピンキー・ジョージ(アイオワ州デモインのプロモーター)を筆頭にした、米中西部、北部を中心とした小グループ。第二次世界大戦を終えて空軍を除隊したサム・マソニックもこのグループに加入する。1948年7月18日、アイオワ州ウォータールーのプレジデント・ホテルに集結したアライアンス発足メンバーは、ジョージを含めて僅か五人だった。*2)


アライアンス結成の主な動機は何であったのか?

 表向きには、各地区に乱立するチャンピオンの統一というテーマがあったが、実質的には互いのテリトリーに所属するレスラーを斡旋し合う事で選手の新陳代謝を図ること、そして何といっても大きかったのは、一致団結して現存する反対勢力(オポジション)に対抗する、いわば自衛手段としての同盟結成という意味合いが大きかったようである。


そして、当時この新グループにとって最大の抵抗勢力といえば「アソシエーション」をおいて他になかった。セントルイスで長年にわたり各種興行をプロモートしていたトム・パックスは、ナショナル・レスリング・アソシエーション名義で世界王座を認定しており、トロント(カナダ)、LA、ヒューストンなど大都市のプロモーターと提携し全米(北米)規模のネットワークを築いていた。


特に1942年からの5年間に、3回にわたって王座に就いたワイルド・ビル・ロンソンの人気は傑出していた*3)が、このロンソンのブッキング権をパックスが独占、自身が敵対視するプロモーターのテリトリーに派遣しなかった事が、アライアンス結成の一つの大きな原因とも言われている*4)


しかしプロレス以外の興行(サーカスとオート・レース事業)で負債を抱えたパックスは、やがてプロモート権を売却する。*5)買い取ったのは、トロントのフランク・タニーとモントリオールのエディ・クイン、更にルー・テーズ、ビル・ロンソンら、カナダのプロモーターとアメリカの現役レスラーの混成グループであった*6)


アライアンスの結成は、パックスがプロレス興行権を売却した時期の直後にあたる。当初はパックス時代の因縁から競合を続けていた二派であったが、アライアンス派の加入メンバーが急速に増える一方、アソシエーションは徐々に失速していく


アソシエーション傘下の看板レスラーだった  バディ・ロジャースがアライアンス派に移籍*7)した事で両派の力関係は逆転、手打ちの会合が 複数回持たれた結果、各々の組織を代表する チャンピオンであるテーズとブラウンが「王座 統一戦」で雌雄を結する事が発表された。時は1949年11月25日、場所はセントルイスの大会場ジ・アリーナ。前売り券は順調な売れ行きを見せていたが、試合まで三週間あまりとなった時点で予想もしなかった悲劇が起こる。


自動車事故の模様を伝える11月3日付けHarrison County Times(ミズーリ州べサニー市で発行)
自動車事故の模様を伝える11月3日付けHarrison County Times(ミズーリ州べサニー市で発行)

1949年11月1日未明、オービル・ブラウンの乗った自動車が、サーキット中に大型トラックと衝突

する大事故に遭ったのである。


長距離トラックがミズーリ州イーグルビル近郊の州道上でジャックナイフ状態(制御を失ったトラックの運転席と荷台=トレーラー部分がくの字に折れ曲がる現象)となったところに、交差するようにブラウンとボビー・ブランズの乗った乗用車が突っ込み、トラックの下に挟まれて大破。

ブランズは背中と肩、ブラウンは頭と胸、腕を強打し数日間意識不明となる重傷を負った。二人は前夜の試合地であるアイオワ州デモインからカンザスシティに向けて移動中だったという。

  

意識を取り戻したブラウンは一命を取り止めたが

数週間は入院して治療に専念せざるを得ず、予定されていた試合はキャンセルとなった。「世紀の一戦」は実現する事なく、テーズが統一世界チャンピオンとして認定されることになる。*8)


アライアンスの由来についてはほぼ以上になるがその昔日本に伝わっていた、ジョージ・ハッケンシュミットとフランク・ゴッチの元祖・統一戦に端を発する、壮大な「NWA歴代王者の系譜」とは

どうしても繋がらない。大河ドラマのような「大NWA」の歴史が、冒頭の「初代ベルト」同様パッチワークの産物だったということを、昔日からのファンが認知したのは、いつ頃だっただろうか?

 全日本のリングにレイスやフレアーが登場するたびに日本テレビの放送において「NWA神話」がリアルに語られてから、二十数年は経過していたように思う。


そしてかつての「系譜」を紐解かれるにつれて、それらが実は複数の系列を繋ぎ合わせた、極めて複雑な構造をしていた事が明らかになる。

 これらの「歴史」を大胆に一本の線に紡いで

壮大なものがたりを創り出した先人の構成力と

センスは凄いと(皮肉を抜きにして)今更ながらに感心せざるを得ない。


ところで、冒頭のベルトには、結局どれくらいの値段がついたのか? 鑑定士(Leila Dunbar、 写真右側の女性)曰く、ベルトと写真、当時の 新聞記事等の載ったスクラップなど一式でオークションに出す場合、3千〜5千ドルからスタート するが、ベルトは間違いなく本人が使用したものであり、1万ドル以上で落札されるだろうとの事であった。


「世紀の一戦」を争う両雄の一方が締めていた ベルトにしては、意外と「お安い」印象である。オークションが実際に行われたのかどうかも調査不足で確認出来ていない。出来ればアライアンスの故郷たるウォータールーの博物館(ダン・ゲーブル・ミュージアム)あたりで陳列されるのが、わ最も理想的なのだろうが…。


今回はベルトの由来と、アライアンス誕生の話しだけでほぼ尽きてしまった。次回は歴史に埋もれたチャンピオン、オービル・ブラウンの半生記を中心に記してみたい。


*1)Midwest Wrestling Associationという名称の

  下に認定されていたタイトルは、オハイオ版

  カンザス版の二つの系譜があるが、前者は

  かつて日本に紹介されていたNWA世界ヘビー

  級チャンピオンの歴代王者と一部重複する。

   例えばルー・テーズが1937年12月29日に

  セントルイスでエベレット・マーシャルを

  破って初めて世界王座に就いた時のタイトル

  は、オハイオ版のMWAにあたる。


   一方、オービル・ブラウンが度々王座に

  就いた方のMWAはカンザス版。こちらは 

  日本でお馴染みの「NWA王座」の流れとは

  繋がっていない。歴代王者の中にはエド・

  ルイス、スウェディッシュ・エンジェルら、

  本格派とショーマンが混在している。


*2)ピンキー・ジョージ(デモイン)

  マックス・クレイトン(オマハ)

  ウォーリー・カルボ(ミネアポリス)

  サム・マソニック(セントルイス)

  オービル・ブラウン(カンザスシティ)


  ブラウン本人が参加しているのが興味深い。

  これはカンザスシティのブッカーとして

  プロモーター(ジョージ・.シンプソン)の

  代理を務めたと言われている。同じく、

  ミネアポリスのブッカーだったウォーリー・

  カルボは、同地のプロモーター、トニー・

  ステッカーの代理として参加。又会議には

  出席していないが、フレッド・コーラーも

  アライアンス創設メンバーとして名を連ねて

  いる。


  尚、「アライアンス」という名称を初めて

  使ったのはカンザス州ウイチタを拠点と 

  したプロモーター、マックス・ボウマンで

  独自にチャンピオンを認定していた。

  

  数年後「アライアンス」の名称が気に

  入ったピンキー・ジョージは、自分が独自に

  認定したタイトルに同じ名前を付けており、

  これがウォータールー版アライアンスの

  誕生に繋がっていく。


*3)ミズーリ州アスレティック・コミッションに

  提出された記録によると、1941年からの3年

  間、セントルイスのプロレス興行にロンソン

  が出場した58大会の平均入場者数は9,890名


  当該期間の大半が太平洋戦争と重なる事、

  大会の宣伝に欠かせないテレビ中継が  

  なかった時代である事を考慮すると素晴らし

  い数字で、ロンソンの貢献ぶりが窺える。


*4)トム・パックスは1935年に「セントルイス・

  タイムス」紙の記者(スポーツ・ライター)

  だったマソニックを自らの興行会社にヘッド

  ハンティングしたが、数年後に処遇をめぐり

  パックスと衝突したマソニックは退社、独立

  して自らのプロモーションを立ち上げる。

   以降両者は互いに反目し、セントルイスを

  舞台に興行合戦を繰り広げた。

  (G-Spirits Vol.57 ナショナル・レスリング・

アライアンス特集)


*5)G-Spirits Vol.57 (同上)


*6)ルー・テーズは当時現役選手として多忙を

  極めていた事から、セントルイスにおける

  プロモートは実際には父親のマーティンが 

  手掛けていたとされる。


*7)NWA:The Untold Story of Monopoly that

Strangled Pro Wrestling/ Tim Hornbaker


テーズとロジャースが一時的とはいえ、

  プロモーターとレスラーの関係だった事は

  意外な感がある。後年のロジャースに対する

  テーズの悪感情?は、案外このあたりに起因

  するのかもしれない。


*8)テーズは1937年にトム・パックスから寄贈

  されたベルトを保持していたので、冒頭の 

  写真にある「初代アライアンス・ベルト」は

  継承される事なく封印され、ブラウンがその

  まま所有していたものと思われる。


【他関連資料・サイト】

・The Mid-Atlantic Gateway Archives .com





   

   

  

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