
アマとプロの垣根
- Satom
- 6月21日
- 読了時間: 5分
更新日:7月1日
"プロのレスラーなら誰しも、マット上で敵と対峙する勇気がある者に対して、大いなる尊敬の念を持ち合わせている。勝敗は関係ない。
一方でリングに上がる者が、プロレスをアマの延長として捉える事は決してない。それらは全く異なるものだ。プロレスラーも、アマレスラーもそして(確信には至らなくても)ファンもその事を承知している。別にプロがアマを見下すようなこともない。ただ競技(competition)とエキジビションの違いを認識して、それぞれを楽しもうとするだけだ"
上記コメントは、以前何度か紹介したジャック・ブリスコの自伝(口述筆記)「BRISCO」からの抜粋である。
ブリスコは同書の中で、アマチュアの頂点を極めることと、プロの世界でトップに立つことは全く異なるものであると再三強調しているが、一プロレスファンたる私の理解もほぼ同様であった。
その意味で、少なからず驚いたことが二つある。私の認識不足で事実関係をわきまえていなかっただけの事だが、目から鱗の思いであった。
一つは、永年テレビ朝日のプロレス中継「ワールド・プロレスリング」を担当されていた往年の名アナウンサー、舟橋慶一さんの証言。(*1)
「1964年の東京五輪の際、アマチュアレスリングと重量挙げの担当だった私は、メダリストの人達とお付き合いがあった。それから五年、アマレスで金メダルを獲った花原勉さん(グレコローマンフライ級)、上武洋次郎さん(フリースタイル、バンタム級)渡辺長武さん(同フェザー級)といった錚々たる面々が異口同音に、"凄い試合だった"と電話をくれたので驚いた」
オリンピックを制覇した世界的アマレスラー達が「凄い試合」と唸ったのは他でもない、昭和44年暮れに行われたアントニオ猪木対ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界王座を賭けた初対決だった。
上述の花原勉さんは、当時日本体育大で助手を務めており、舟橋アナとは定期的に酒を酌み交わす間柄であったが、この猪木の世界挑戦以降、レスリング部の入部希望者が目立って増えたという。
同様の現象が日大レスリング部でも見られたとの
話しが福田富昭氏(*2)からも電話でもたらされた。
レスリング競技の経験を持たない私としては、
上記の現象やコメントから、六十年近く前に
旧大阪府立体育会館で行われた、今や伝説となった試合のインパクトを推し量るしかない。しかしこれら超一流の競技者達の言葉が意味するところを問うならば、答えは自ずと、四年後に舟橋アナご本人が新日本プロレス初実況の席で口にしたフレーズ「新しいプロレスの夜明け」に行き着く。
二つ目の驚きは、舟橋さんのお話しに出てくる上武洋次郎さんについてである。

1964年、68年の東京・メキシコシティ両五輪で 金メダル(フリースタイル、57kg級)を獲得した上武洋次郎氏は、1964〜66年にかけオクラホマ州立大学のレスリング部(カウボーイズ)に所属現地で公式戦57試合を消化し無敗(NCAA選手権三度獲得を含む)の記録を残したレジェンド。1980年には全米レスリング協会、2005年には国際レスリング連盟(FILA)の殿堂入りを果たしている。


いかにパウンド・フォー・パウンド*3)とは言えディック・ハットンよりも上位、ダニー・ホッジと同格にランクされるとは…! プロレスファンからすると、ただ驚きと憧憬の念しかない。
現役引退後の上武氏は、結婚して苗字を小幡姓に変えられたようだが、1972年のミュンヘン・オリンピックでは日本レスリングチームのコーチ、モントリオールでは監督を務められたという。1943年1月生まれと、猪木より一月だけ先輩の氏は今もご健在の様子。奥様のご実家が旅館業をされていた関係で、栃木県の足利市で旅館を営まれていた時期もあったというから、もしかすると高校時代の三沢光晴、川田利明との交流もあったのではないか、などと妄想が膨らんでしまう。
次回は、そもそもなぜ上武洋次郎氏がオクラホマ州立大に籍を置くようになったのか…そして日米レスリング界、更にプロレスとアマチュアの世界を結ぶ「縁」について、複数の資料を基に振り返りたい。
*1)今月7日、新大阪駅近くで開催された舟橋アナ
トークイベント「アントニオ猪木を語り継ぐ
伝承の会」でも一部触れておられたが、詳細
は、以前から東京で定期的に行われている
「伝承の会」で披露されたお話しからの抜粋
*2)1965年フリースタイル・バンタム級世界選手
権者、後の日本レスリング協会超。北京五輪
では日本選手団長を務めた
*3)レスリング、ボクシングなど格闘競技におい
て、異階級の選手を比較・評価するスタイル
又は手法
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