アマとプロの垣根---後篇
- Satom
- 7月1日
- 読了時間: 9分
先回は、アマチュアレスリングの強豪選手を輩出している米国・オクラホマ州において、ディック・ハットン、ダニー・ホッジと並び称されるレジェンド・上武洋次郎氏について触れた。オクラホマ州立大(OSU)に1964〜66年の三シーズン在籍、途中東京オリンピックでの金メダル獲得を挟み、フリースタイル・バンタム級において57勝0敗という驚異の戦績を記録した上武氏は、そもそもなぜ同大に籍を置くようになったのか?
2012年に刊行された「日本レスリングの物語」という本の中で、OSUと日本の縁が詳らかにされている。以下、本編で記すことの多くが本書及び、同じく2012年発売のFight&Life誌(Vol.31)からの引用であることを、予めおことわりしておく。

きっかけは1956年に遡る。この年、メルボルンで開催されたオリンピックに米国代表(フリースタイル/フェザー級)として出場したマイロン・ロデリックは、その時点でNCAA(全米大学体育協会)選手権を三度獲得しており、ミドル級のダニー・ホッジ共々、メダル獲得を期待されていたが、日本の笹原正三に敗れ四位に終わった。
表彰台には上がれなかったロデリックだが、大会中に日本レスリング協会のトップだった八田一朗と知己を得たことが、五輪後のキャリアを大きく後押しする。翌年、OSUのヘッドコーチを務めるロデリックのもとに、八田は日本からレスリングチームを派遣、更に五輪の翌々年となる1958年には自らの長男、正明をOSUに留学させる。

戦後の冷戦構造の下、ソ連と米国は政治、経済、宇宙開発、スポーツと様々な分野で競合していたが、ことレスリングに関しては世界選手権、オリンピックなど主要な大会で、米国がソ連の後塵を拝する状況が十年近くも続いていた。
一方で米国は、大国の立場を最大限に活用し、国際大会におけるルール改正や、メダル獲得を期待できないフリースタイルをオリンピック種目から除外すべく、IOCに対して圧力をかける。*1)
特に後者が実現されてしまうと、フリースタイルをお家芸とする日本にとって大打撃となることは明らかであった。
日米レスリング交流の背景には、米国のフリースタイル強化に協力することで、国際競技としての存続を図りたい、という八田一朗の思惑と深慮が見え隠れする。冒頭に述べた上武洋次郎の渡米はそのような状況の下で実現した。
群馬県の館林高校からアマレスを始めた上武は、
インターハイで優勝、早稲田大に進学後も順当に頭角を表し、大学関係者の期待を集めた。それだけにOSU留学の話が持ち上がった時、レスリング部の監督は大反対した*2)が、最後は八田一朗に押し切られる形で渡米が決まったという。
結果的に、米国で無敗記録を打ち立てた上武はレジェンドとなり、東京・メキシコシティの両五輪に日本代表として出場、金メダルを獲得していることから八田の目論見は当たったことになる。受け入れ先のアメリカでは、上武をはじめとする日本のフリースタイル技術の粋に触れたことで 同種目は期待通りに強化され、フリーが五輪競技から外れるという事態も杞憂に終わった。まさに先を見据えた見事な采配という他はない。
さて、上武の留学から話しは数年遡るが、メルボルンの金メダリスト・笹原正三もアメリカ人選手育成に大きく貢献している。AAUの招聘に応じた笹原は1959年2月から全米各地を巡回、技のデモンストレーションと模範試合、実地指導を行った

この時、笹原の技術の核心を最も貪欲に吸収したのがオクラホマのレスラー達であった。メルボルンで笹原に敗れたロデリック(この時点で翌年のローマオリンピック、レスリングチーム監督に内定していた)の周到なお膳立てがあった事は言うまでもない。笹原が教えた三人の選手が、翌年ローマで金メダルを獲得している。*3)

米国レスリング関係者が首を垂れて教えを乞うた
笹原正三とは、一体どんな選手だったのか?
「私には力がなく、身体能力も高くない。だからてこの支点の数センチの違いを研究する」
メルボルン五輪の金メダルに至るまでにも1954年のAAU(全米選手権)、54年世界選手権(東京)56年ワールドカップ(イスタンブール)で軒並み優勝したほか、合間の55年にはソ連に遠征し三戦全勝、と記録面でも抜群の成績を残しているのだが、その真髄は当時のFILA(国際レスリング連盟)会長が評した「世界の技術革新者のトップ」という言葉に集約される。

神憑り的なスピードと正確さを誇るタックルのみならず、笹原の代名詞的な技として恐れられたのが"ササハラズ・レッグシザース"と呼ばれた股裂きであった。これは関節技であり、ルール上禁止されていたが、フォールの体勢に持ち込むためのホールドとしては認められていた。*4)
54年の世界選手権でトルコ代表のバイラム・シットと対戦した笹原は、相手の股裂き攻撃に大苦戦、あわや敗戦というところまで追い込まれたことをきっかけにこの技を徹底的に研究、改良を加えて自らのものとしたという。
「日本レスリングの物語」86〜87ページにかけてこの技の連続写真が載っているので、ご興味ある方は是非ご覧頂きたい。技に入る時の体勢は相手の左足に自らの左足をフックしており、プロレス技のオクラホマ・ヘイライドやローリング・クレイドルに移行することも可能なように見える。
オクラホマ・ヘイライドは、元々アマレスで使われていた技をプロのリングに応用したもの、と昔の紙媒体に書かれていたように記憶しているが、その起源はどれくらい遡るのだろう。可能性は低いが、実は笹原の股裂きがルーツではないか?などとつい妄想してしまう。
妄想ついでに、プロレスファンの脳内麻薬を刺激する笹原絡みのエピソードを、あといくつか述べたい。
・八田一朗に命じられ、合気道家と特訓した結果
瞬時に相手の手首関節を極められるようになる
・1956年イラン遠征の帰途、パキスタンに立寄り
地元のレスラー(パヘルワーン)と土の上でス
パーリングを行う
・1975年暮れの猪木-ロビンソン戦を会場で観戦
した笹原は"凄い試合だった。二人のスタミナ
と精神力に驚いた。アマの重量級にとって学ぶ
ところは多い"と感嘆
合気道特訓では、当初、合気道家が殆ど力を使わずに笹原の手を振り解いたのをきっかけに"瞬時の極め"を会得するのだが、この合気道の、脱力して相手に技をかけさせない作法は「蛇の穴」師範代ビリー・ジョイスの奥義をイメージさせる。*5)
パキスタンでの"他流試合"からプロレスファンが連想するのは、20年後の「腕折り事件」である ことは言うまでもない。(勿論笹原は相手の腕を折ってはいないが)
そして何と言っても、猪木-ロビンソン戦を観た笹原の感想。出典が東スポなので、多少盛っているところはありそうだが、一切の色眼鏡を通さず、プロの試合を「凄い」と言い切る笹原に底知れぬ深さを感じる。八田一朗が笹原を称して、「宮本武蔵のような男」と称した所以でもあろう。
そして底知れぬと言えば、笹原を感嘆せしめた猪木。前回NET舟橋アナの述懐として記した、ファンク・ジュニア戦後のアマレス界からの反響、そしてこのロビンソン戦後の笹原のコメント。
超一流のアマレスラー達が刮目したニ試合は、いずれもフィジカル面における猪木の全盛期に 披露されたものであるところに説得力がある。
「アマが強ければプロも栄える。プロが繁栄すればアマも強くなる」
日本にレスリング競技を一から興した八田一朗の有名な信条である。八田イズムの射程は、凡百の思いが届かぬほど遠く、広い。それは八田個人を超えて、協会・一門の中で継承されていく。
そして、この言葉を体現した「交流」に垣間見える深い淵。それらは「底が丸見えの底無し沼」に対する幻想を、いやが上にもかきたててくれるものであった。
笹原は2023年3月93歳で逝去。八田一朗をはじめブリスコ、ロビンソン、猪木、笹原と「底無し沼」の神話について語れる生き証人は年々少なくなっていく。上武洋次郎さんの話しは是非今の内に聞いておきたいと、切に願う次第である。
*1)米国の要求は、フォールを判断するフリース
タイルの国際ルールを自国基準(カレッジ=
フォークスタイル)に近づけることと、競技
クラスの半減。後者は当時グレコ、フリー各
八階級、計16だったクラスを半分の8クラス
に減らす事が提案されたが階級数を減らすの
は現実的ではなく、競技種目としてのフリー
スタイルの廃止が、当時検討されるに至った
*2)当時上武の渡米に最も反対したのが、早大で
レスリング部監督を務めていた白石剛達と前
監督の永里高平だったという、後にプロレス
界とも浅からぬ関係を持つようになるお二人
を民放テレビ局に斡旋したのも、八田一朗で
あった
*3)テリー・マッキャン(バンタム級)
シェルビー・ウィルソン(ライト級)
ダグラス・ブルーボウ(ウェルター級)
*4)同じ理屈で、試合の中でダブル・リストロッ
クを使うことも認められていた。
*5)"押さば引き、引かば押すとでもいうのかな。
何がなんだかわからないうちに、倒されて
しまうんだ。しかもその時、身体に力が全く
入っていないんだよ" (ビル・ロビンソンに
よるビリー・ジョイス評)G-Spirits Vol.26
"ビル・ロビンソンが選ぶ「地域別ベスト
レスラーと「我が生涯のベストバウト」より
Comentarios