"ブロディ前夜のブロディ"について書いてみたい。
時は1975年の秋、キャリア2年目のフランク・グーディッシュは、盟友スタン・ハンセンとのタッグが中心だったルイジアナ地区サーキットを切り上げ、10月からWestern States Sports プロモーション、いわゆるアマリロ・テリトリーに参戦した。
17日にルボックでレイ・キャンディを破り、同地のシングル王座ウエスタン・ステーツヘビー級のベルトを奪取したグーディッシュはシングル初戴冠を果たし、一週間後には同じルボックで、スポット参戦のアンドレ・ザ・ジャイアントと初防衛戦を行っている。
翌11月の試合記録を見ると、27試合(バトルロイヤルを除くと25試合)をこなしているが、その内15試合がファンク兄弟相手のシングルマッチ。(ジュニア12試合、テリー3試合)
カバーの写真は、11/23(日)El Paso Timesの新聞広告だが、翌24(月)同地County Coliseumのカードが載っている。メインはグーディッシュとジュニアのテキサス・デスマッチ。
前週の同所でも同じカードが行われており、ジュニアの反則勝ちに終わっている。決着戦として組まれたテキサス・デスマッチでは、両者リング上でダウンの後、先に立ち上がったジュニアが勝利をおさめた。試合翌日(11/25)付けのEl Paso Timesの記事によると、試合時間は27分45秒とある。
直後にオープン選手権参加のため日本遠征を控えたジュニアのコンディションはベストの筈で、翌76年にWWWFでブルーザー・ブロディに「変身」する直前のグーディッシュとの一戦、それもテキサス・デスマッチの内容がどのようなものであったか、興味は尽きない。
興味深いといえば、同じ日のカードには、ビル・ロビンソンの名前も出ている。セミ・ファイナルの一つ前にスコット・ケイシーとシングルで対戦したロビンソンは、軽く一蹴したかと思いきや、意外にも時間切れで引き分けている。
このロビンソンも、ジュニア同様、翌月には日本遠征を控えている。対戦相手は勿論アントニオ猪木。自身唯一の新日本プロレスへの参戦を前に、来日直前の試運転?を行ったのがアマリロであったところに、何とも言えない歴史のアヤのようなものを感じてしまう。
ロビンソンのアマリロ遠征中に、ジュニアとの対戦は実現しなかったのか? 当然気になるところだが、実は一戦だけ記録が残っている。ネットが普及して久しい現代では、既にご存知の方も多いかと思うが、75年暮れの日本遠征を挟んだ、ロビンソンとファンクスの(困)縁についても、近々触れてみたい。
フランク・グーディッシュの話しが、最後はすっかりロビンソンに替わってしまった。(汗)
*試合の記録は、いずれもwrestlingdata.comから引用
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