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アメリカン・ドリームの原像と原罪

  • Satom
  • 6月15日
  • 読了時間: 6分

更新日:6月22日

1970年代後半から80年代前半にかけて、米国内で最高の人気を誇ったレスラーは誰か?

当時リアルタイムで雑誌、テレビなどを見ていた世代であれば、割と迷わずに答えるような気がする。出てくる名前は、やはりダスティ・ローデスだろう。


一世代前の超人気レスラー、ブルーノ・サンマルチノがイタリア系アメリカ人からの絶大な支持を得ていたのに比べると、ローデスの場合は特定のエスニック・グループに限らず、幅広い支援層が

広がっていたように思う。

かつてアメリカのプロレス雑誌にはレーティングス欄が設けられていた。各タイトルへのコンテンダーをはじめ、人気・不人気が一目瞭然となるなかで、ローデスは常に人気部門の上位を占めていた。上は1977年、下は1983年のレーティングスより抜粋
かつてアメリカのプロレス雑誌にはレーティングス欄が設けられていた。各タイトルへのコンテンダーをはじめ、人気・不人気が一目瞭然となるなかで、ローデスは常に人気部門の上位を占めていた。上は1977年、下は1983年のレーティングスより抜粋

1960年代末のデビュー以降数年間は、ディック・マードックとのテキサス・アウトローズに見られるようなヒール役が定番だったローデスだったが転機となったのは1974年5月14日、フロリダ州タンパで行われたタッグマッチだった。


プロモーターのエディ・グラハムと息子マイクの親子チームと対戦したローデスは、試合中パートナーのパク・ソンと仲間割れ。東洋の怪物的な悪党に立ち向かう姿にファンは熱狂、ほぼ一夜にしてベビーフェイスとしての地位を確立する。

"韓国の巨人"パク・ソンとの一連の対決はファンに大受けし、フロリダ半島各地で両者の試合が組まれた。6月末には、渡米した馬場がパクとコンビを結成、ローデスと対戦したほかコリアン・アサシン(ストロング小林)が絡んでの六人タッグ戦も確かマッチマークされている。面白いカードである
"韓国の巨人"パク・ソンとの一連の対決はファンに大受けし、フロリダ半島各地で両者の試合が組まれた。6月末には、渡米した馬場がパクとコンビを結成、ローデスと対戦したほかコリアン・アサシン(ストロング小林)が絡んでの六人タッグ戦も確かマッチマークされている。面白いカードである

ヒールからベビーフェイスに転向して、即人気が沸騰したのは、プロとしての力量の証しだろうがリング上でのアクションや、インタビューでの振舞いなどにはモデルがあったとする説が根強い。

 アメリカのファンの間では割と知られた話しのようだが「アメリカン・ドリーム」の原型として名前が挙がるのは、黒人レスラーのサンダーボルト・パターソンである。

1970年代から80年代にかけてテキサス、フロリダ、ジョージアなど、南部を中心に人気の高かった  パターソン。状況次第でヒール、ベビー双方を使い分け、煽りインタビューも堪能であった。2024年にWWE殿堂入り。今年84歳と高齢ながら、今も健在
1970年代から80年代にかけてテキサス、フロリダ、ジョージアなど、南部を中心に人気の高かった  パターソン。状況次第でヒール、ベビー双方を使い分け、煽りインタビューも堪能であった。2024年にWWE殿堂入り。今年84歳と高齢ながら、今も健在

1941年生まれのパターソンは、ローデスより4歳年長、1960年代末にはテキサス地区で地位を築いており、デビュー間もないローデスとシングル、タッグを含め何度も対戦した。この時期、観衆の期待に合わせて試合を作っていく術を、ローデスはパターソンから吸収したとされる。


善玉転向から5年後となる1979年、ローデスはホームリングのフロリダで大きな栄冠を手にする8月21日タンパのリング上でハーリー・レイスをエルボー・ドロップ連発からのピン・フォールで破り、第53代のNWA世界ヘビー級チャンピオンとなったのである。

ローデスのタイトル奪取を報じる地元紙(1979年8月23日付けBradenton Herald)この王座交代劇は、日本でもゴング誌をはじめ大きく報道された。折しもこの時期の日本は8.26オールスター戦の直前。 当日日本武道館に詰めかけた観衆は、このままローデスがNWA王者として新日本に登場するのではないか、という話しを館内のあちこちで交わしたと思われるが、皮肉にも同日にローデスは王座を転落した
ローデスのタイトル奪取を報じる地元紙(1979年8月23日付けBradenton Herald)この王座交代劇は、日本でもゴング誌をはじめ大きく報道された。折しもこの時期の日本は8.26オールスター戦の直前。 当日日本武道館に詰めかけた観衆は、このままローデスがNWA王者として新日本に登場するのではないか、という話しを館内のあちこちで交わしたと思われるが、皮肉にも同日にローデスは王座を転落した

ローデスのベビーフェイス転向を演出したのは、前述の通りエディ・グラハムであるが、レイスとローデスの一戦をドル箱カードにしたのも同じくグラハムだった。二人のシングル初対戦は1970年1月8日、アマリロで組まれレイスが勝利しているが、本格的な「数え歌」はその5年後、1975年5月5日、フロリダ州オーランドから始まっている。


以降、同年末までに、タンパ、マイアミ、ウエスト・パームビーチなどの主要会場において11回も対戦、試合形式はテキサス・デスマッチ、ブルロープ・マッチ、ランバージャック・マッチ、チェーン・マッチと多岐にわたり、結果は全てローデスの勝利。極端なローデス推しだが、私の認識が正しければ、この時期フロリダでブッカーを務めていたのは他ならぬレイスだったはず。 そうだとすれば「現場担当」のレイスは、前年来の「アメリカン・ドリーム」人気を盤石にすべく自らを「噛ませ犬」にしたことになる。


その年レイスが漸くローデスに勝ったのは年末になってから、それもフロリダではなく海を渡った日本のリング(オープン選手権開幕戦・足立区体育館)であった。

 コーナー最上段から放ったダイビング・ヘッドバット一発でレイスがピンフォール勝ちしたシーンは強烈な印象を残したが、それまでに11連敗もしていたとは…。


77年2月にレイスが二度目のNWA王座奪取を果たしてからも、フロリダを舞台とした二人の対決は連綿と続く。上記のローデス初戴冠に至るまでの約二年半の間(77年2月〜79年の8月)に、両者はタイトルを賭けて実に32回対戦しているが、その内30回までがフロリダで行われている。(残る2回はヒューストンとニューオリンズ各一回ずつ)


結局この時のローデスの在位は僅か5日に終わるが、以降もフロリダを舞台にしたレイスとの対戦は続く。同地における両雄の抗争が一つのピークを迎えたのは、1980年8月3日、タンパ・スタジアムで行われたイベント"The Last Tangle In Tampa"

だった。完全決着を銘打って特別レフェリーに フリッツ・フォン・エリックを起用、1万7千人の大観衆を集めて開催されたこの大会で二人は六十分三本勝負で激突。結果はローデスが一本目を奪ったまま時間切れとなり、試合には勝つも、2フォールを奪っておらず、王座奪取には届いていない。

ビッグ・マッチが揃ったこの日の試合は屋外(タンパの野球場)で行われた。真夏のフロリダで野外、更に60分フルタイムと厳しい条件が揃っていたが、二人はプロとして試合を全う、大観衆を熱狂させた
ビッグ・マッチが揃ったこの日の試合は屋外(タンパの野球場)で行われた。真夏のフロリダで野外、更に60分フルタイムと厳しい条件が揃っていたが、二人はプロとして試合を全う、大観衆を熱狂させた

ちなみにこの当時フロリダのブッカーを務めていたのはローデスだったという。レイスがブッカーだった時の展開とは真逆に「自分を上げた」形になるが、選手、ブッカー、プロモーターなど立場を問わず「プロ」にとっての「善」は大会の収益を最大化することに尽きるのだろう。


ローデスがブッカーを務めたプロモーションでは

連日自分が主役となりヒール役を降す、もしくは

タイトルマッチで試合には勝つが、様々な理由でベルトは移動しない、というパターンが乱発され特に後者は"ダスティ・フィニッシュ"なる名称が付けられるまでになる。元々この不明瞭フィニッシュを発明したのはエディ・グラハムと言われているが、だとすればブッカーとしてのローデスがこの流れを踏襲するのも一つの道理である。


"古き良き"と形容するには語弊があるが、かつてのテリトリー時代、試合の内容・結果が、一部のファンの間でしか共有されなかった時代の副産物ということになるのだろう。これだけをもって

ローデスの「エゴ」を糾弾するのは酷な気もするが、やはり長い目で見るとタイトルの権威、ひいてはプロレスそのものを貶めたことは否めない。


プロとして最善を目指した結果、陥る袋小路…何ともモヤっとする結論ではある。

"Last Tangle In Tampa"当日、スタジアムを埋めた大観衆。入場料総売上は16万ドルを超えたという
"Last Tangle In Tampa"当日、スタジアムを埋めた大観衆。入場料総売上は16万ドルを超えたという





 
 
 

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