☆アントニオ猪木が”環状線の理論”を実証したシリーズ
- Toshiyuki Fujii
- 3月17日
- 読了時間: 7分
更新日:3月18日

アントニオ猪木は「環状線の理論」を提唱していました。
環状線の中のコアなプロレスファンだけでなく、その外側にいる一般市民達を引き込むことがプロレスを盛り上げるのには必要だという集客理論で、古くは1973年11月5日、新日本プロレス参戦中だったタイガー・ジエット・シンが新宿・伊勢丹前で買い物中の猪木夫妻を襲撃した事件、1983年6月2日、猪木の長年の夢であったIWGP決勝戦でハルク・ホーガンがアックス・ボンバーで猪木をKOして優勝。ファンの予想を大きく裏切る結果と昏睡した猪木がそのまま病院に直行したことは一般新聞の社会面をにぎわした。
さらに世界的には1976年6月26日、日本武道館でアントニオ猪木対モハメッド・アリの格闘技世界一決定戦が実現。3分15ラウンド引き分けたが、その試合は全世界に衛星中継され賛否両論が唱えられた。又、1989年猪木は政治家を目指し、参議院選挙に当選し初のプロレスラー国会議員が誕生し、湾岸危機にイラクで平和の祭典を開催し、日本人人質を解放。1995年には猪木が北朝鮮で「平和のための平壌国際スポーツ・文化祭典」を開催するなど世間一般をも巻き込む行動力においてプロレス界躍進に寄与してきた。
それを象徴するかのような戦略が新日本プロレス初期の時代に行われており、NWAを盾とするジャイアント馬場率いる全日本プロレスと真正面から争った時代があったのだ。


テレビ放映も無く外人ルートもなく船出した新日本プロレスにようやく光が当たりだしたのが1973年の坂口征二との合体によるNETのテレビ放映のスタートである。その後タイガー・ジエット・シンの登場、世界最強タッグ戦の実現(猪木。坂口組対ルー・テーズ、カール・ゴッチ)、年末にはジョニー・パワーズからNWF世界王者を奪取して、さあ今から全日本プロレスと対等に戦えると思っていた矢先の新春・シリーズのことである。
ジャイアント馬場は危機感を持ち、NWAに信頼される立場から時のNWA王者であるジャック・ブリスコ、前王者のハーリー・レイス、元王者のドリー・ファンク・ジュニアを全日本マットに勢ぞろいさせると発表。さらに前哨シリーズにはドリーの弟であるテリー・ファンク、ジャック・ブリスコの弟であるジエリー・ブリスコ、プロフェサータナカ、ボブ゙・ガイゲル、さらにはNWA会長のサム・マソニックまで呼ぶという豪華版。連日、大会場にてNWA、PWFのタイトルマッチを開催することが発表された。
当然、大阪の会場を確認すると珍しく東淀川体育館となっていることに驚き!ただそのカードはこのシリーズにおいてピカ一、ダブルメインの様相で「PWF認定世界ヘビー級選手権試合、王者ジャイアント馬場対ハーリー・レイス」と「NWA世界ヘビー級選手間試合 王者ジャック・ブリスコ対ドリー・ファンク・ジュニア」の豪華版。発表と同時に前売りチケットを購入。なぜなら本場セントルイス・キール・オーディトリアムのカードが大阪で見れるのである。そんな中、新日本プロレスの参加外人選手とタイトルマッチのカードを期待して待つ。



昨年からの勢いで相当豪華な外人が来ると期待していた中、発表されたのはマクガイヤー・兄弟{ビリー&ベニー}、マイテイ・カランバ、トニー・チャールス、ピート・ロバーツ、そして特別参加のジョン・トロスとクリス・トロスの兄弟である。

世界一重い双子(総重量合わせて600キロ超え)のマクガイヤー兄弟と怪力世界一を名乗るマイテイ・カランバらのサーカス・レスラー、そして本格技巧派のピート・ロバーツとトニー・チャールスにおいては猪木と戦うには少し荷が重い感じ。さらに猪木はこのシリーズにおいて昨年、奪取したNWF世界王者は名だたる強豪と試合をしてその価値を高めて行きたいのでタイトル・コンデンターの資格あるレスラーはこのシリーズにおいてはい無いのでタイトル戦を行わないとバッサリと表明。かつて猪木とUN王座を争ったジョン・トロスも猪木の眼中にはないのである。(確かに1971年ロスでのUN戦は良い試合だとうは思えなかった)ので納得。しかしこのメンバーで全日本プロレスと戦うのはかなりきついと思った。実際前売りチケットは購入せず、テレビを見て盛り上がってきたら当日券で行こうと決めていた。
ところがこのサーカス・レスラーはテレビに出るや否や人気が爆発するのでる。
確か正月番組の昼のワイドショーにおいて、神宮前で怪力世界一のマイテイ・カランバが口に咥えたロープを引っ張りお客さんが乗ったバスを動かし、登場したマクガイヤー兄弟は50㏄ホンダ・ダックスのバイクに乗る姿が可愛らしく、一気に一般視聴者をプロレス会場に足を向けさせたのである。


マクガイヤー兄弟はリング登場時には必ずホンダ・ダックスに乗り登場、そのリングに上がる姿も共感を呼ぶ。常に2-3、2-5、2-6(対永源、藤原、藤波、大城、柴田、小沢,栗栖、山本らが対戦)のハンデイキャップマッチがテレビを通じてお茶の間の子供や大人のプロレスを知らない人々の心にも興味を持たし、日本中の話題となり連日新日本プロレスの会場は満員、視聴率も17~18%と高視聴率を上げた。
ついつい、私もこの盛り上がりに便乗し大阪府立体育会館(1月25日)に行き観戦。最終戦も近くアントニオ猪木が柴田勝久をタッグパートナーにマクガイヤー兄弟に挑み、猪木組が反則勝ち(6分58秒)となる。試合は猪木組が頭脳プレーでマクガヤー兄弟をあしらう場面に大いに盛り上がり

を見せ、最後ビリーが猪木を羽交い絞めしたところにベニーが突進してくる一瞬をついて猪木がダブルキックでベニーを倒し、ボデイプレスに行ったところにジョン・トロスが乱入、メインの坂口対ジョン・トロス戦はそのままもつれ、トロスが狂乱ファイトの末、坂口を血の海に叩き込む暴挙に浪速のファンは熱狂した。
その2日後の27日、大阪・東淀川においても満員の観衆が詰めかけ、馬場がレイスに2-1で快勝し通算11度目の防衛。NWA世界戦ジャック・ブリスコ対ドリー・ファンク・ジュニアの試合は1-1時間切れの引き分けに終わる。
観衆はじっくりと二人の技の攻防を見るという感じで、まだ外人同士のタイトルマッチに感情移入できないという時代であったが、素晴らしい試合であった。相対的に見ると単純明快な新日本プロレスの方が観客の湧き方がすごかった。

大阪に限定してみると。観客動員では引き分けの様子であったが、全日本プロレスの視聴率においてはこの大阪が13%、最優戦に日大講堂も(ブリスコ対ジャンボ鶴田のNWA世界戦&ジャイアント馬場対ドリー・ファンク・ジュニアのPWF世界戦)も13.3%と振るわず。シリーズ通じて15%以上をとる新日本プロレスに凱歌があがる。
プロレス内ファンにとって最高のシリー

ズを提供した全日本プロレスはいわばサーカス・プロレスに負けたのだ。これこそアントニオ猪木が提唱する「環状線の理論」の勝利である。
さらに言うなら、この全日本プロレスが開催した新春・NWAチャンピオンシリーズにおいてのNWA世界選手権試合の乱発は徐々に日本でのNWAの品格を落としていったように思えてならない。これまでは東京や大阪のみでの開催という特別感があったNWA世界選手権試合、そして全日本プロレス独占感、ここは新日本、全日本共有の世界トップ王座NWAにしておくべきであった。
この年末、ジャイアント馬場がジャック・ブリスコを破り日本人初の第49代NWA王者になるが、既にファンはNWAとジャイアント馬場の繋がりやリマッチでの不透明さをグレーな感じでとらえており、そう感動は無かったのが事実ではなかろうか。
この年のお正月封切りしたブルース・リーなる格闘家兼映画俳優の「燃えよドラゴン」のヒットも多かれ少なかれプロレス業界に影響を与えつつあった。実際、プロレス観戦に誘ったプロレス友がカンフー映画を優先したこともあった。1974年、その後、新春シリーズを勝利した新日本プロレスはストロング小林戦、坂口征二戦、大木金太郎戦とアントニオ猪木の日本統一に向けた闘いと平行するように快進撃を続け、全日本プロレスを大きく差を引き離してゆく年となるのである。
写真はすべて1974年1月25日(新日本プロレス大阪府立体育会館)、1974年1月27日(全日本プロレス東淀川体育館)の写真を掲載
記事:藤井 敏之
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