ザ・シークというアジール
- Satom
- 4月4日
- 読了時間: 8分
更新日:4月12日
「モノの怪に憑かれたように中空を睨みます、ザ・シーク」
清水アナウンサーの落ち着いた実況がホノルルの名会場HICのリングに向かって響く…1972年9月20日、日本テレビの海外収録試合。全日本プロレス旗揚げを翌月に控えたデモンストレーションとして、リング上で睨み合うG馬場とザ・シーク。
例によってゴングがなるまで時間がかかり、結果は両者反則に終わっているが、リングサイドに詰めかけた日系ファンの熱量が伝わってくる。
新団体旗揚げに向けての煽り試合としては異色のカードだが、馬場の動きも良く、日プロ離脱後初の暴れっぷりを伝えるという意味ではひとまず成功と言える内容であった。
馬場はこの後米本土に渡り、アマリロで全身タイツを覆ったザ・プロフェッショナル(ハーリー・レイス)、ピッツバーグでフランク・ホルツ戦を行っている。この時期、全日プロはNWAに加盟できておらず、日プロにレギュラー参加していたレイスは正体を隠さざるを得なかったが、シークの方は全くお構いなしであった。

そもそも1972年9月といえば、シークが日本プロレスに初来日した時期と重なる。夫人同伴で東京の休日を満喫する姿が、ゴング誌の巻頭を飾っていたのが印象的だったが、試合は僅か2戦にのみ 出場。第1戦(9月6日田園コロシアム)でいきなり坂口征ニを破ってUNヘビー級のベルトを強奪したかと思えば、翌日の大阪で奪回を許し慌しく帰国している。


もしや日プロからの帰国途上にハワイに立ち寄り現地で休養の合間に馬場と対戦したのでは?と 一瞬疑念に駆られたが、さすがにそれはなかった当月のシークは11試合を消化しているが、内容は以下の通りである。
9/2 デトロイト P・フィルポと組み、ブラジル
ロード・レイトン組と対戦(反則勝ち)
9/6 田園コロシアム 坂口征ニに勝ち
9/7 大阪府立体育会館 坂口に敗れる
9/10 トロント トニー・パリシー戦(反則勝ち)
9/12 シンシナティ トニー・マリノ戦(勝ち)
9/13 アマーストバーグ フレッド・カリー戦
9/15 クリーブランド ルイス・マルチネス(勝ち)
9/16 デトロイト トニー・マリノ戦(勝ち)
9/20 ホノルル ジャイアント馬場(両者反則)
9/22 クリーブランド トニー・マリノ戦
9/30 デトロイト ルー・クレイン戦(勝ち)
地元のデトロイト地区と、当時自身がブッカーを務めていたトロントを一応の軸としているもののひと月の間に太平洋を一往復半するという、かなり変則的なサーキットである。*1) 9/15と22のクリーブランドは、前年旗揚げしたばかりの新興団体NWF主催の興行だが、シークにとって五大湖地区を拠点とするNWFは、近隣でレギュラー出場するリングの一つでしかなかったようで、ジョニー・パワーズとも何度も対戦している。*2)
年が明けて1973年、トロント地区で初来日前のタイガー・ジェット・シンと対戦したシークは3月に再びホノルルのリングに登場、テリー・ファンクを血祭りに上げた余勢を駆って、新しくNWAメンバーとなった全日本プロレスに特別参加する。 当時、馬場は一連のPWF王座争奪戦で強豪レスラーとの対戦を終えてベルトを獲得したばかり、迎えた初防衛戦の相手が他ならぬシークであった

シーク全日登場を報じる某紙には「発端はジュニアの来日中止」なる見出しが見られるが、これは、例の牧場での事故(2/28)により長期欠場中だったファンク・ジュニアの穴埋めにシークが来日することを告げるものである。
当初のNWA内における「既定事項」では、ジュニアは3/2ヒューストンにおけるブリスコ戦で王座転落、無冠になるはずであった事から、ファンクシニアとしては翌4月に馬場のPWF王座初防衛戦の相手として「前世界チャンピオン」ジュニアを来日させる腹づもりであった事が窺える。かつて66年の年初にキニスキーに敗れてベルトを失ったばかりのテーズが翌月来日、馬場のインター王座に挑戦しているが、このタイミングで予定通りジュニアが来日していれば、7年ぶりに同様の企画が再演されていたことになる。
ところが事故で全ては白紙になった。療養中のジュニアに替わって代役を立てざるを得なくなったシニアは(前年秋のハワイに続き)シークに 日本での馬場との試合を懇願、これにシークが 応じたという事だろう。
この全日初登場でも、僅か2試合をこなしたのみで
初来日の坂口戦と同じパターンを踏襲している。
馬場と大阪府立体育会館、日大講堂で対決した。シングル二連戦はいずれもPWF(世界)王座の かかった試合であったが、初戦の大阪では試合後明らかに一般人ではないと思われる複数のファンがリングサイドのシークに詰め寄るという不穏なシーンも見られた。
馬場とシークとの試合は、体格差もあり、シークの試合スタイルの特異さもあって噛み合う印象はないが、実は意外と波長があっているのかもしれない。Youtubeの動画も、上述のハワイと全日初登場時の大阪府立の試合の他に、69年9月LAでの初対決、78年12月最強タッグ中のシングルマッチ(これも大阪)とシングルの試合映像が4つ残っている。そういえば、80年に馬場が3千試合連続出場記録を作った時の相手も確かシークだった。

初来日がBI抜きの日プロでありながら、馬場のみならず、猪木とも顔を合わせているというのがシークのシークたる所以である。NWAに非加盟だった時代の新日、1974年の11月・闘魂シリーズに突如参戦したシークは、沖縄・奥武山体育館で猪木と唯一のシングルマッチを行ったかと思えば疾風の如く帰国。まさに魔法の絨毯に乗って飛来したかと思わせるような、神出鬼没ぶりであった
この時シークを新日に仲介したのは誰だったろうか? ジョニー・パワーズか、モントリオールのジャック・ルージョーあたりかと思われるが…。
結局新日への参加はこれ一度きりとなり、次の 来日は77年暮れのオープン・タッグまで空くことになる。*3)
猪木のライバルとしてはタイガー・ジェット・シンが既に台頭しており「狂乱ファイター枠」が既に埋まっていた事から、マッチマークに関する限りシークに拘る必要はなかったのかもしれないがデトロイト地区のプロモーター、トロントのブッカーとしてのシークとビジネスを繋いでおけば、1970年代半ばの新日マットに更なる彩りが加わっただろう事を思うと、残念な気がしないでもない
それにしても、組織に縛られないシークの自由さというのは独特である。NWAの傘下にいながら ノンメンバーとの交流も意に介さず、テリトリーの枠を越えたサーキットを続ける姿は、ある意味レスラーの鑑のようでもあるが、これだけフリーな活動ができたのは、やはりシークが一レスラーではなく、興行の基盤を持っていたからこそであろう。
米国マット界でプロモーターとレスラーを兼ねていた人物は数多いが、シークに限らずそれぞれが
一国一城の主として、存在感を示していた。プロモーターでありながら、自らのテリトリーに拘らず、全米を股にかけたレスラーも何人もいたがシークの場合はその中でも特異さという意味で、やはり群を抜いていたように思う。
個人的な感覚だが、シークの存在からは「アジール」という言葉を連想する。アジールは、一般には中央の支配・権威が及ばない「聖域」「自由領域」「特区」「無縁所」など多様な意味で使われるようだが、ことシークに関しては、レスラーとしてのキャラのみならず、リング外でも、世界と絶縁するアジールを体現していたように思う。
そのおおもとは一体何なのか? 次回はプロレス入りする以前のシークの経歴、及び米国マット界黄金時代を彩る、意外な対決について触れてみたい。
*1)この時期のシークはハワイ(ホノルル)に
定期出場しており、全日のTV撮り用に唐突に
登場した訳ではない。
*2)72年3月17日にはクリーブランドでパワーズ
を破り、北米ヘビー級王座を奪取したという
記録が残っている。(約一週間後の23日に
同所でパワーズが奪回)
後年パワーズが語ったところでは、NWFが
興行不振に陥った際、シークに同プロモー
ションの株の一部を譲渡していたという。
(G-Spirits Vol.51 掲載のインタビューより)
*3)シークが日本のシリーズを通して参加する
ようになるのは、このオープンタッグ以降で
あるが、それまでの3回の来日の通算出場数
は10試合未満。当時の多忙ぶりが伝わる珍記
録である。
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