「伏魔殿」という言葉から、何をイメージされるだろうか。私が思い出すのは、昔ゴングや東スポなどで目にした記事(リバイバル含む)である。
不思議とテレビやラジオで「ふくまでん」という
表現を聞いた覚えはない。そのため、自分にとっての「伏魔殿」はあくまで活字、それもプロレス関連の記事と直結している。
「実例」として最初に思い浮かぶのが、1962年、LAのオリンピック・オーディトリアムでブラッシーとのWWA王座防衛戦に臨んだ力道山が、噛みつき攻撃で大流血、ドクターストップでベルトが移動してしまう、というハプニングである。
リアルタイムでこの一戦に触れたわけではないが、後年活字と写真で伝えられた試合の印象は強烈であった。
上記の出来事から「伏魔殿」と言えばまず
WWA、そしてブラッシー、会長のジュールス・ストロンボーという名前がセットで出てくるのだが、更なる時を経た現在、インターネット普及により閲覧可能になった過去の試合記録や、内外のプロレス史研究家の皆さんが書かれたたくさんの読みものに触れるにつれ、プロレス界全体が大きな伏魔殿だったなぁという思いを改めて強くする。
何を今更、と鼻白らむ方があるかもしれないが、プロレス(界)というジャンルが持つ深い磁力、魔力そして魅力を表現する言葉として「伏魔殿」という呼び名は相応しいように思われるのだ。
前置きが大変長くなったが、「伏魔殿」繋がりで印象に残った試合やエピソードを、以降少しずつご紹介していきたい。
以下は半分予告編になるが、まず触れたいのがアルバカーキである。カバー写真は1955年12月24付けアルバカーキ・ジャーナル紙に掲載されたもので、二日後の12月26日に開催される試合の広告だが、ベン・シャーマン(写真上の片眼鏡)とプロモーターのマイク・ロンドン(写真下)が対戦している。結果はシャーマンの勝ちだが、この時点でシャーマン47歳、ロンドン46歳。試合内容は
想像するのが難しい。
写真からも窺える通り、両雄とも相当キャラが立っている。シャーマンは写真のイメージとは異なり、名うてのシューターとしてレスラー仲間からの尊敬を集め、プロモーターからも重宝された人物。1930年にはイギリスに渡りCACCスタイルの選手とも手合わせ*している(*「最強の系譜」那嵯涼介氏 新紀社p212)
一方のロンドンも写真を見る限り「如何にも」な風貌だが、これはリング上のキャラではなく地のままだった様子。そもそも当日のカードの目玉である自分自身がプロモーターでもある事を堂々と広告に謳っているところからして、相当型破りではある。
ロンドンにまつわるエピソードは破天荒なものが多いが、当時のアメリカのプロモーターが持っていた気質の一端も、そこから窺い知る事ができるかもしれない。
この時点で、興味のある方がどれほどおられるか分かりかねるが、まずは書き進めていこうと思う。
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