全米プロフットボールの頂点を決するスーパーボウルが先週の日曜日(現地時間2月9日)に行われ、フィラデルフィア・イーグルス(NFCチャンピオン)がカンザスシティ・チーフス(AFCチャンピオン)を破りチーフスの三連覇を阻止した。
日本の国技が相撲なら、米国はアメフト、とよく言われるが、時代を遡れば、かつてはアメフトのスター選手からプロレス界に転向したり、二足の草鞋を履いていた選手が少なからずいた。ブロンコ・ナグルスキーはNWAチャンピオンの系譜(Association系)に名を連ね、以降もテーズの連勝記録を止めたレオ・ノメリーニ、ワフー・マクダニエル、アーニー・ラッドなど、1950年代から60年代にかけては、フィールドの名選手達がプロレス界に身を投じている。当時のマット界には、一流のフットボーラー達を惹きつけるだけの魅力があったのだろう。
プロに限らず、カレッジ・フットボールにまで裾野を広げると、一時はアメプロ界の半数近くを
アメフト出身者が占めていたかもしれない。
中でもウエスト・テキサス州立大学(WTSU、現WTA&MU)のフットボール部・バッファローズは、ファンク兄弟をはじめ、ボビー・ダンカン、ダスティ・ローデス(ヴァージル・ラネルズ)、ブルーザー・ブロディ(フランク・グーディッシュ)、スタン・ハンセン、マニー・フェルナンデス、テッド・デビアス、タリー・ブランチャード、バリー・ウインダム、ティト・サンタナ(マーセド・ソリース)ケリー・キニスキーなど多くの名選手を輩出、一時はプロレスラー養成大学といった趣があった。
昭和全日本のコピーを借りると、これらの「悪くて凄くて強い」タフガイ達を束ねていたのが、フットボール部のヘッドコーチとして長年辣腕を振るった、ジョー・カーベルという人物である。

WTSUにおけるカーベルの任期は1960年から70年までの10年間(11シーズン)で、成績は111戦して68勝42敗1引き分け。
前述のプロレスに転向したWTフットボーラーの内、実際にカーベルの薫陶を受けたのはおそらくハンセンあたりまでと思われる。では、カーベルの人柄やコーチぶりはどんなものだったのか。
Quirk、という英単語は普段あまり目にしないが
人(の性格)を表す時に使われた場合、多くは「癖のある人、変わり者」という意味になる。
そしてカーベルこそ、このquirkの最たるものだったらしい。
テリー・ファンクは、大学フットボール部時代の練習について雑誌などのインタビューで「半端じゃなくキツかった」と述懐していたが、強いチームを作るためのカーベルの流儀は、いわば「テーブルに載った料理皿を思い切り揺らして、
床に落ちて割れた皿やご馳走には構わず、残った皿と料理でコースを組む(チームを編成する)」というやり方だったようで、その独特の喩えからもトレーニングの苛烈さが窺える。

バッファローズがセントルイスに遠征した際、試合後に脱水症状を起こしたボビー・ダンカンは、地元の病院に緊急搬送され、治療を受けていたがやがて病室にやって来たカーベルは点滴中の針を引き抜き(!)他のチームメイト共々、大型バスでテキサスに連れ帰ったという。

今の時代のモラルに照らし合わせると、完全に「アウト」なのだろうが、このような無茶な理不尽さが、選手達の強靭な反骨精神を養ったのも又、紛れもない事実だろう。もう60年近くも前の話しである。

1960年代の半ばの大学において、プロチームのオフェンスのフォーメーションなどを取り入れていたとされるカーベルは、選手の起用に際しても、人種差別に基づく判断は一切しなかったという。
例えば、ユージン・"マーキュリー"・モリスは、後にマイアミ・ドルフィンズのランニング・バックとして活躍し、スーパーボウルにも3回出場を果たすなど一流黒人選手として活躍したが、プロ転向前にカーベルの下で遺憾無くそのキャリアを積み上げた事が、大きく貢献したと思われる。
この辺りは、地元のプロモーターだったドリー・ファンク・シニアとも相通じるものを感じる。
シニアのキャラクターも相当破天荒なものとして知られているが、一方で黒人レスラーのサンダーボルト・パターソンにも白人レスラーと同等のギャラを支払うなど肌の色を度外視するところがあった。評価の基準はあくまでその仕事ぶりであり、人種は無関係…。現代の日本に生きる我々の感覚からすると当たり前に思うかもしれないが
時は1960年代の半ば、公民権運動に対する反発も根強かったアメリカ南部における話しである。
二人は地域社会への貢献という意味でも卓越していた。アマリロの郊外(北西部)にあるボーイズランチ(Boy's Ranch)は、元レスラーで実業家のカール・ファーレーが、身寄りのない少年達の「家」として創立した養護施設である。
テキサスに移住した直後のシニアがここに家族共々住み込んで、少年達にレスリングとフットボールを教えていた事は有名だが、カーベルも
施設に対する有形無形の支援を惜しまなかったという。二人の間に親しい交流があったかどうかは知る由もないが、実は肝胆相照らす仲だったのではないだろうか。
1921年5月生まれのカーベルは、WTのヘッドコーチを辞任した後、同じテキサス州のアーリントンに転居していたが、1973年の3月、心臓麻痺を起こし急死。誕生日を迎える直前で、まだ51歳の若さだった。
同じ年の6月、ドリー・ファンク・シニアもやはり心臓発作が原因で死去している。享年54歳。
シニアの死は、プロレスマスコミが大きく報じたが、カーベルの場合は、日本のプロレスファンの知る由もなかった。
頑固で昔気質な二人の「雷親父」かつ「師匠」を相次いで喪ったジュニアとテリー。半世紀以上を経た今、当時の兄弟の心境を思うと、遺された者たちの試練の重さが、今更ながらに伝わって来るような気がする。
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