
パパは喧嘩屋&シューター
- Satom
- 6月6日
- 読了時間: 7分
更新日:6月11日
今年のWWE 殿堂入りメンバーに、ドリー・ファンク・シニアがジャイアント・カマラ、イワン・コロフと共に選出された。ファンク兄弟は揃って2009年に栄誉を受けており、息子達から16年遅れての快挙となる。セレモニーの様子は動画で配信され、会場にはテリーの娘さん二人(ステーシィ、ブランディ)も姿を見せていた。テリーが生きていたらさぞ喜んだことだろう。
亡くなったのが1973年6月3日なので、日本風に言えば3年前が「50回忌」だったことになる。自宅の牧場「フライング・メア・ランチ」でレスラー仲間を招いてのバーベキュー・パーティーのあと
余興のレスリングに興じた事が災いして心臓麻痺を起こし、アマリロの病院に向かう車中で息を引き取ったと言われている。
相手は当時アマリロ地区に参戦中だったゴードン・ネルソンとレス・ソントンだったというが、いずれも本物の強さを持ったレスラー。酒の入った状態で、シニアが顔を真っ赤にして、強豪二人を立て続けにねじ伏せた、というのが最後の武勇伝となってしまった。
当時54歳にしてそのような「無茶」をするくらい
シニア自身、自らの腕には憶えがあったようである。レスラー同士はリング上で組んだ瞬間に相手の力量が分かるというが、かつて伝説のNWA世界チャンピオン、ディック・ハットンが流智美さんのインタビューに答えて、"対戦中に「恐怖」を感じた相手"として、ルー・テーズ、パット・オコーナー、ボブ・ガイゲル、マイク・デビアスと並べてシニアの名を挙げていた*1)ことが思い出される。レスラーによる「表・裏番付」は、証言する個人によっても異なるが、それぞれのレスリング観を窺い識る意味でも興味深い。
身長は公称183センチだが、実際には170センチ台後半と思われる*2)アメリカ人の中ではごく一般的な体格のシニアが、荒くれ者の多い地元テキサスのマットだけでなく「アウェイ」でも強豪達と堂々渡り合っているところは、やはりプロとして又レスラーとして傑出した存在だったということだろう。
1919年インディアナ州ハモンド出身のシニアは、
高校時代アマレスの州チャンピオンとして鳴らし1938年7月4日、19歳の時に地元インディアナ州のホワイティングで行われた独立記念日のプロレス大会に出場。しかしその後数年間はインディアナ大学に進学、及び第二次世界大戦中海軍に入隊し太平洋、大西洋で任務に就いた事もあり、僅か十数試合しか消化していない。プロレスラーとして本格的に活動を始めるのは、戦争が終結した翌年の1946年からである。
当初は地元のインディアナやオハイオ、ウィスコンシン州で試合を行っていたが、1947年あたりからアルバカーキ(ニューメキシコ州)、エルパソ(テキサス州)など西部に活動拠点を拡大、アマリロへの初参戦は1948年初頭であった。1月22日スポーツ・アリーナの前代会場だったミュニンシパル・オーディトリアムで、ジョージ・ロペスと対戦したシニア(当時のリングネームは"ドリー・ファンク"のみ)はローリングしてのショート・アームシザースでフォールを奪い、初陣を飾っている。

当時アマリロ地区を取り仕切っていたプロモーターは元レスラーのドリー・ディットン。後に、やはりプロレスラーだったカール・サーポリスがディットンから興行権を引き継いだ際、シニアは
共同オーナーとなる。ここから、後年日本のファンに「ファンク王国」として認知されるテキサス西部を舞台にした、長い物語が始まった。



地元のアマリロ地区では絶対的なヒーローだったシニアだが、他地区ではその対極となるヒールとして、ファンの憎悪を買った。このあたりのキャラクターの使い分けも息子達に受け継がれている




ドリー・ファンク・ジュニアは、プロレスラーとしてデビューした1963年前半、初戦から数ヶ月に渡り不敗記録を更新、ジン・キニスキーを破り、バーン・ガニアと引き分けるなど破竹の快進撃を繰り広げるが、毎回控室に戻ると、父シニアから
厳しいダメ出しを受けたという。以下はジュニアの述懐である。
「ある日、アルバカーキでネルソン・ロイヤルと試合をしたが、ドレッシング・ルームに戻るや、いつもの通り延々と叱責を受けた。あまりにシニアの語調が厳しいので、後で仲間のレスラー達が同情して"そんなに酷くなかったぜ。お前も大変だな"と言ってくれた。*3)
当時は父の言葉を額面通り受け取っていたが、ずっと後になって他のレスラー達のいるところで敢えて面罵する事で、逆に自分のことを護ってくれていたんだ、ということに気づいた。その事に思い至った時には親父はもういなかったが、彼の愛の深さをひしひしと感じたよ。愛には色々な形がある。親父の愛は、言うならば"Tough Love"
だった」
今の世相からすると、パワハラの一言で片付けられてしまう言動も、両者の間に心が通っていれば愛となる。タフな愛の居場所のない世の中は、楽かもしれないが、本当に居心地が良いかと問われれば、又別の話しであろう。
本当に厳しい時代を歯を食いしばって、矜持を持って生きてきた者が、心から愛する者に向けて送るのが「タフな愛」だとすれば、受け取る側もやがて自ずとその意味を解するのだろう。その愛は又次の世代へと受け継がれていくに違いない。人が遺すものとして、これ以上のものはおそらくないはずである。そして、遺すもの、受け継がれていくものが連綿と続いている内は、その人間は
生きているのだと思う。



*1)「やっぱりプロレスが最強である」流智美
p286
*2)米国の文献には身長5フィート11インチ(177-
178センチ)と記したものがある
*3)1990年代後半頃と思われるインタビュー動画
で、レス・サッチャーに語った内容
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