リアル・ブロンコバスター
- Satom
- 3月28日
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更新日:4月12日
前回の続きで、不慮の自動車事故によりルー・テーズとの世界統一戦のチャンスを失った悲運のレスラー、オービル・ブラウンについて書こうと思う。(尚ブラウンの経歴については、米国のプロレス歴史家・Steve Yohe氏の手記に負っていることを、予めお断りしておきたい)
オービル・ブラウンは1908年3月10日、カンザス州シャロンで五人兄弟の末っ子として生まれた。父親のクラレンスはオービルが生後二週間の時に蒸発、残された母のエレンは年長の子供達の手を借りて家計を支えるが、オービルが11歳の時に病死。以降のオービルは、親戚の家を転々としながら少年時代を送ることになる。
預けられた先は牧場を営む農家が多く、牛や馬の世話に従事していたオービルは乗馬に熟練、ハイスクールを一年で中退し、ロデオ師となる。
カンザスや近郊の州を巡業し、18歳の頃にはブロンコ・ライディングとブルドッギングの両競技において名を馳せていたという。
ブルドッキングとは、馬を駆って牛を追い、馬上から牛の首に躍りかかって組み伏せるという勇壮な競技で、ご存知の通りプロレスの技にもなっている。1927年の大会で、オービルは史上初めてバッファロー(アメリカバイソン)相手にブル・ドッキングを敢行、その名を全米に知らしめた。
当時ロデオの収入はそれ程大きくなかったことと体重が増えた事から競技を引退、農業に専念するが、やがて大恐慌による不況に見舞われる。この時点で結婚し長男が生まれていたオービルは生活の糧を得るためカンザス州ワレスで鍛冶屋を開業する。
1931年の初め、レスリングのトレーナーだった
アーネスト・ブラウン*1)に、良い稼ぎになると勧められたオービルは、鍛冶屋の仕事の合間にアーネストからレスリング技の手ほどきを受けるようになる。カンザス、アイオワ、ネブラスカを中心とする米中西部では賭けの対象としてのシュート・レスリングが盛んで、地元の農家から腕に覚えのある連中が、カーニバルや祭りで開かれる試合に多数出場していた。
1931年の10月にデビューしたオービルは、約一年間、負けなしの72連勝を記録する。相手は飛び入り出場の農夫が主だったが、中にはローカル・チャンピオンクラスのレスラーもいた。勿論全てガチンコである。翌32年9月には、かつてジョーステッカーやアル・キャドック、エド・ルイスとも対戦した古豪アレン・エステスを破っている。
やがて、シュートの試合に比べて、一般受けする「ワーク」の方が、収入面でベターだと判断したオービルは、アーネストに事情を話し「ガチンコ道」に別れを告げることになる。人気レスラーの一人だったエイブ・コールマンからプロモータートム・パックスを紹介されたオービルは、パックスの主宰するセントルイスの試合に出場し、みるみる頭角を現した。
オービルの素質を買ったパックスは、彼を東部(メリーランド州ボルチモア)に派遣、著名な 実力派レスラー、ジョージ・ザハリアスに預け、実戦経験を積ませた。この修行期間にザハリアスをはじめ、ディック・レインズ、ディック・シカット、ジノ・ガリバルディ、エベレット・マーシャルら当代のトップレスラー達と対戦した事がオービルにとってプロの世界における貴重な糧となる。
プロモーターのトム・パックスについては前回も少し触れたが、NWA(アソシエーション)世界タイトルを看板に、地元セントルイスで興行を展開する一方で、次世代のトップ候補と見込んだ選手に対しては、本格派の先達をトレーナーにつけるという、きめ細かな配慮を行っていた。オービル・ブラウンをザハリアスに預けた2年ほど後(1934年)には、当時18歳のルー・テーズをジョージ・トラゴスに弟子入りさせて、関節技の奥義を学ばせたのもパックスの功績である。*2)
テーズにコーチングを行っていたまさにその前後(1934〜35年)トラゴスはオービル・ブラウンと3回対戦している。(1934年8月インディアナポリス、1935年1月セントルイス、同年7月デトロイト)結果は3回ともブラウンの勝利。年齢的にはトラゴス37〜38歳、ブラウン26〜27歳と11歳の開きがあるが、トラゴスもまだ老け込む歳ではない。勿論この試合はシュートではなかっただろうが、リング上で何人もの対戦相手を壊してきたというトラゴスの「伝説」を思うと、この記録からレスラーとしてのオービル・ブラウンの何たるかが伝わってくるような気がする。
この時期トラゴスの下で腕を磨いていたテーズは、会場への移動もトラゴスの車に同乗していたというから、これらの試合を会場で観ていた可能性が高い。
更に、テーズと言えば後にマネジャーとなるエド
"ストラングラー"ルイスとの縁が深いが、ブラウンは1935年から1944年にかけて、このルイスとも20回近く対戦している。当時ブラウンは27〜36歳と年齢的には絶頂期、片やルイスは45歳〜54歳と
肉体的にはとうにピークを過ぎていたが、戦績は
9勝9敗1引き分けと全くの互角。ルイスが勝った試合の中には、ブラウンからMWA世界王座を奪った一戦(1942年12月3日オハイオ州コロンバス)も含まれる。この対戦成績は勿論ルイスの伝説的な強さを裏付けるものだが、一方でブラウンの「実力」も伝わってくる。

そして、後年「NWA王座統一戦」であたるはずだったルー・テーズとは1937年から42年にかけて
6回対戦し、ブラウンの1勝2敗3引き分けの成績が残っている。1937年暮れにエベレット・マーシャルを破って21歳で初めて世界王座(オハイオ版MWA)に就く若きテーズはまさに破竹の勢い、
8歳年長のブラウンも29歳から34歳とピークで、両者の攻防はさぞ見応えがあったものと思われる。勿論これらの試合も全て「ワーク」だったが戦績的にはテーズがかつての師匠トラゴスの雪辱を晴らす形となった。
以上6回の対戦の舞台はインディアナ州エヴァンズヴィル、カンザス州カンザスシティ、ミズーリ州セントジョセフで行われている。両雄をトップ・レスラーに仕立て上げたトム・パックスの お膝元であるセントルイスで一度も試合が組まれなかったのは意外だが、これには事情があった。
1942年3月に、かつてパックスの配下にいたサム・マソニックが旗揚げしたプロモーションにブラウンが出場した事で、パックスにとってマソニックとブラウンは競合相手となった事、もう一つは、テーズが1942年6月(6回目のブラウン戦の直後)に徴兵されて陸軍に入隊、1946年に除隊するまで、駐留先のテキサス州以外の試合には出場出来なかった事である。*3)
時が経ち、陸軍での兵役を終えたテーズはリングに復帰、NWA(アソシエーション派)王者に返り咲いた。片やブラウンも、1948年に複数のプロモーターによりNWA(アライアンス)王者として認定を受け、全米各地で防衛戦を行う。パックスがプロモーターを引退した後も暫く競合していたニ派だが、水面下で折衝を重ねた結果、合同の方向で話しがまとまり、両派を代表するチャンピオン同士が「統一戦」を行い、雌雄を決する事になった。
しかし、前回の重複になるが、11月1日の大事故によりブラウンは戦列離脱を余儀なくされ、テーズが統一世界チャンピオンに認定される。*4)

ブラウンの負傷は重く、懸命のリハビリを経て約一年後にリング復帰を試みるが、往年の動きは遂に戻らず、数試合をこなした後1950年10月限りをもって42歳で引退。1932年のデビュー以来、足かけ19年のプロ生活であった。
以降は余談になるが、ブラウンのキャリア末期にあたる1940年代末の試合記録を見ると、日本のファンに馴染みのあるレスラーの名前が出てくる
・サニー・マイヤース
1947-49年に中西部、テキサスで20回対戦、
ブラウンの13勝1敗6分
・バディ・ロジャース
1948-49年にかけて西海岸、中西部で10回対戦、ブラウンの5勝5分け
・キラー(ターザン)・コワルスキー
1948-49年にかけてデトロイト、中西部で6回対戦
ブラウンの6勝
妄想含みではあるが、上記三人の名レスラーを介して、オービル・ブラウンのレスラー、パフォーマーとしてのDNAの一部が、本人達は意識しないままに、BI砲に受け継がれている事は考えられないだろうか。特にブラウン→マイヤース→猪木のラインには、リアルな可能性を感じてしまう。
思えば中西部地区といえば、若き日の猪木が初
渡米の折り、ハワイに続き武者修行を行った地である。サーキットコースの中にはアイオワ州デモインからカンザスシティへの州越えルートも
含まれており、*5)当時の猪木はそれと知らずに
15年前にブラウンが事故に遭遇したコースを何度となく車で通っていたと思われる。
戦後米マットの復興期に、突然表舞台から消えたどこか大らかで土の匂いのする伝説のレスラー、オービル・ブラウン。彼がマットに遺したものが世代、国籍を越えて、今もどこかに承継されているのではないかと考えるだけでも愉しい。
*1)アーネスト・ブラウンは同姓だが姻戚関係は
なかった。
*2)日本プロレス事件史Vol.20
テーズ生誕100年「鉄人への道」
*3)G-Spirits Vol.57 特集「NWA」p34
*4)Steve Yohe氏の手記によると、当初の予定は
初戦はテーズが勝利、後は一年程かけて全米
主要都市で勝敗を繰り返し、最終的にテーズ
の元にベルトが戻るという構想が、NWAの内
部で共有されていたという。ブラウンの事故
による軌道修正がなく、プラン通りの進行が 実現していれば、その後のテーズの「936連
勝神話」にも大きな変容が出ていた筈である
*5)G-Spirits Vol.16
カンジ・イノキのアメリカ武者修行
「トーキョー・トムの本土上陸」
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