車社会と言われるアメリカでは、その分交通事故の数も多い。表題に付けた、プロレス史を変える程のインパクトのある自動車事故として最も有名なのは、第二次大戦から数年を経た1949年、オーヴィル・ブラウンが遭遇したものだろう。ルー・テーズとの世界王座統一戦を直後に控えていたブラウンは「世紀の一戦」を欠場した後負傷癒えず事実上の引退に追い込まれる。結果として、テーズは戦わずして「新NWA(アライアンス)」王座を手にする事になった。
最も新しいところだと、いつになるか?最近といっても、2000年代以降のアメプロの動きは殆ど不案内なので私見に頼ってしまうが、1986年にマグナムTA(テリー・アレン)がやはり交通事故でレスラー生命を絶たれている。当時のNWAは既にジム・クロケット・ジュニアの個人プロモーションと化していたが、仮にマグナムが現役を続けていればNWA王座を獲得していた事はほぼ確実視されており、この事故が(2年前のデビッド・フォン・エリックの不慮の死と共に)NWAの凋落を決定付けた、という見方も出来るかと思う。
さて、前置きが長くなったが、上記二つの事故の間に起こったアクシデント、今日の主題たる「ピックアップ・トラック事故」について触れたい。時は1973年2月28日、場所はテキサス州アンバーガーにドリー・ファンク・シニアが所有していた牧場「フライング・メア・ランチ(Flying Mare Ranch)である。

アンバーガーはアマリロからだと約20数マイル程南に行ったところにある。 キャニオン市を経由して南西方向に伸びる州道60号線沿いに位置する小さな町だが、州道から外れ、小さな農道を南側へ2マイル程走ると左側に牧場が見えてくる。
四年以上も保持したNWA王座を手離す「Xデー」を目前に控えたドリー・ファンク・ジュニアは、この日父親の牧場で牛を追う作業を手伝っていた
写真からは分かりづらいが、牧場の裏手は切り立った崖になっており、谷底には川が流れている。ピックアップ・トラックを運転しながら、谷を下った牧草地に牛の群れを移動させようと後方から追い立てていたジュニアだったが、牛の動きに気を取られている間にトラックの車輪が崖の端から外れ横転、数メートル下の川に落下した。2月末のこの時期、川にはまだ氷が張っていたという。父のシニアにトラックから助け出された時、ジュニアの右肩は脱臼し、首と背骨にも損傷を受けていた、と地元紙は報じている。


この事故は、極めて複雑な副産物と、多くの憶測を生み出す事になる。まず、直後に控えていたタイトルマッチ2試合は、ジュニアの負傷によりキャンセルされた。3月1日アマリロ・スポーツ・アリーナで行われる予定だったサイクロン・ニグロ戦と、翌2日、ヒューストンでのジャック・ブリスコ戦である。前者は父のシニアが代打を務め、ニグロとテキサス・デスマッチで対戦している。後者の試合ではブリスコがジュニアを破り新チャンピオンとなる筈だったが、こちらはブリスコ対フリッツ・フォン・エリックのノンタイトル戦に変更された。

ジュニアの王座在位期間は療養期間を含め数ヶ月延びたが3月、4月一杯をまるまる欠場*1)した後、5月上旬に漸くカムバックを果たしてから僅か数週間後、5月24日にカンザスシティでハーリー・レイスに敗れ、王座から転落する。ブリスコとの仕切り直しの一戦は結局実現しなかった。
この一連の王座変遷の「操作」をシニアの「不正行為」(shananigan)と断ずるプロレス関係者は
多い。代表的な存在はジュニアの「後継者」となる筈だったジャック・ブリスコと、当時のNWA会長サム・マソニックの腹心ラリー・マティシックだろう。ブリスコは3月2日ヒューストンの試合がキャンセルになったと聞いた途端「シニアにしてやられた」と感じたという。*2)マティシックの場合も、やはりシニアが王座のコースを強引に変更した旨の証言をしている。*3)
元々シニアにとっては、ジュニアが同じ正統派のブリスコに敗れるよりも、ヒールのレイスのホームタウンでベルトを「強奪」された、という形の方が、その後のビジネスを考えると望ましかったというのが「策略」の動機とされているが、それは恐らくファンク一家側の「本音」だろう。
しかしともすれば、牧場での事故もシニアの謀略の一部であるとする拡大解釈が「真説」のように定着している嫌いがある。この「謀略史観」によれば、シニアは自らのエゴで、仮病により息子のジュニアを2ヶ月以上に渡り欠場させ、全米各地で予定されていたタイトルマッチをキャンセルした挙句、NWA圏の多くのプロモーターに多大なる損害を負わせたことになる。
これは言うなれば、チャンピオンによるタイトルマッチのボイコットであり、権力の濫用どころの騒ぎではない。仮にこれが事実であればジュニアの王座は即座に剥奪され、例のNWA本部に預けた
ボンド(預託金)の25,000ドルは有無を言わさず没収されていたに違いない。ましてや、2年後のNWAチャンピオン候補(ブリスコの後継)としてテリーが推挙される事などあり得なかった筈である。
事故は「ガチ」であるが、これを奇貨と見たシニアが王座の変遷コースを半ば強引に変えた、というのも又事実であろう。そもそも系譜を二、三代遡れば、チャンピオンには後継者を指名する権利があった筈ではなかったか。テーズはキニスキーを、キニスキーはジュニアを「指名」した。それらの「決定」がNWA内で相応にリスペクトされていたのなら、なぜ、シニアの主張のみが「横車」と見做されるのか?
ここで見落とせないのが、もう一つの「ガチ」の存在である。それはジュニアの欠場により、NWAの各テリトリーでタイトルマッチを開催できなかったプロモーター達の「損失」に他ならない。ここには、チャンピオンをブッキングし、各タイトルマッチの売り上げからコミッションを得ていたサム・マソニツクの利益損失も含まれる。
理由が如何なるものであれ、チャンピオンの長期欠場は彼らにとって苦々しいものでしかなかっただろう。潜在的に"シニアの謀略により不利益を被った我々"という「物語り」が構築・流布されても不思議ではない。
一方で、タイトル戦線の変更により利を得た者もいる。ジュニアとブリスコの間にレイスを入れる事で、レイス本人とその後ろ盾のボブ・ガイゲルは勿論満足したに違いない。では、上記の長期欠場に伴う利益損失以外の「犠牲」を払った者は果たしていたか? エディ・グラハム?、ジャック・ブリスコ?、ポール・ボッシュ? いずれもノーである。彼らは多少の時期のズレこそあれ、それぞれが望んだものを得ている。

周知の通り、ファンク・シニアはジュニアの王座転落から僅か十日後、フライング・メア・ランチでのパーティー中に興じたレスリングの試合中に心臓麻痺を起こし、アマリロの病院へ向かう車中で急逝する。
52年前の今日、牧場で起こった事故は、タイトル戦線の行方を変えただけでなく、ファンク・シニアを(通常のプロレス興行におけるヒールではなく)プロレス史における不名誉な大ヒールに仕立て上げてしまった。
NWAが、烏合の衆の集まりと化して空中分解し、事実上崩壊するのはそれから僅か10余年後のことである。
*1)wrestlingdata.comによると、1973年3月7日
ホノルルで開催のNWA戦にジュニアが出場、
ザ・シークにリングアウト負けを喫したと
いう記録があるが誤報。実際にはジュニアの
代打としてシークと対戦したのは弟のテリー
である。このシーク-テリー戦は当時の「別冊
ゴング」(昭和48年5月号)の巻頭に掲載
されているが、このあたりの米国における
誤った試合記録も、ジュニア仮病説を補強
していると思われる。
*2)「BRISCO」as told to William Murdock
*3)「The 50 Greatest Professional Wrestlers of All Time」/ Larry Matysik
Comments