
反骨の漢 - サム・マソニック
- Satom
- 5月9日
- 読了時間: 6分
更新日:5月11日
"プロフェッショナル・レスリングは矛盾に満ちたビジネスだ。悪役は大方好人物である。ストラングラー・ルイスには品格があり、ディック・ザ・ブルーザーもジェントルマンだった。本当に汚い行為というものは、リング上ではなく、得てしてリング外で見られるものだ"
上記は、1981年11月19日付けSt.Louis Post Dispatch紙からの引用である。この記事は、セントルイスで数十年にわたりプロレス興行を主宰し
NWA会長も長く務めたサム・マソニックのプロモーター業からの引退に際し書かれたものだが、そのタイトルは"A Guy You Could Trust"---信頼に足る者、となっており、プロレス界における氏の功績、存在感を端的に示している。
この記事を少し読んでみたが、冒頭近くで紹介されているエピソードの時代が1925年、つまり昭和元年にあたっている。今年は"昭和100年"なので、昭和のプロレスファンの方に向けた話しとしても面白いかと思い、今回はレスラーではないがサムマソニックを取り上げてみた。ご興味のある方はお付き合い願いたい。

ビル・マクレランなる記者が執筆した本記事は、
翌年1月1日チェッカー・ドームにおける引退興行を予定していたサム・マソニックの生い立ちから
プロモーターになるまでを半生記風に綴っている
1911年、家族と共に故国のロシア*1)を後にした時、マソニックは6歳であった。セントルイスのハイスクールを出た後、郵便局の事務職をしていた時の年収は1,900ドル。1920年代の前半としては悪い額ではなかった。本人としては、このままずっと郵便局で働くつもりだったようだが、1925年のある小さな出来事が、彼の人生コースを一変させることになる。
その出来事とは、プロレスではなく野球に関するものであった。地元の新聞主宰のコンテストで、全米の大リーガー達を集めてオールスターチームを作ったと仮定して、そのメンバーを一般から広く募集する。同時期にベーブ・ルースが練り上げたラインナップがあり、ルース案に最も近い読者が優勝するという企画であった。
勿論ルースの嗜好を考慮しつつ、打順から逐一予想するのだが、熱心な野球マニアだった二十歳のマソニックは本コンテストで二位となった。
これが評判となり、読者代表として新聞紙上でスポーツ・コラムを任せられるようになる。
初めて与えられたテーマは、当時不振に喘いでいた地元の野球チーム、セントルイス・カーディナルズのテコ入れ策であった。オフシーズン中にトレードなどで外野手と投手を補強するのが最も効果的、と記したマソニックの記事通りに事は運びカーディナルズは翌1926年のペナントを制覇する
プロのスポーツ・ライターになるべきだという編集者の薦めで、セントルイス・タイムス紙に職を得たマソニックの当時の同僚には、後に有名なコラムニストとなるレッド・スミス、未来の下院議員であるメル・プライスなど錚々たる顔ぶれが揃っていた。マソニックにとっては若き日の思い出に彩られた、懐かしい時代である。
しかし、1929年に米国発で起こった世界大恐慌は報道業界にも陰を落とし、タイムス紙は1932年に売却される。失職したマソニックは、当時プロレスをはじめ、幅広いジャンルで興行を手がけていたトム・パックスの事務所に就職、以降パックスの下で、財務・広告などの業務を担当する一方、裏方的な立場からプロモーター業全般について間近に学ぶ機会を得た。
パックスといえば、この直後にプロレス入りしたルー・テーズに、後の"テーズ・ベルト"を贈った人物として有名だが、この際、地元の宝石店にパックスが発注したベルトを受け取りに足を運んだのがマソニックだったというのもよく知られた逸話である。*2)
上司と部下として、10年近く良好な間柄だったパックスとマソニックの関係がこじれたのはいつ頃だったのか。一説によると、1941年春にキールオーディトリアムで開催されたジョー・ルイスのボクシング・マッチの収益配分をめぐって袂を分かったとも言われている。パックス事務所を去り広告会社への転職を考えていたマソニックの耳には、周囲の声が否応なく入ってきた。
"既存のプロモーションが基盤を確立している興行の世界は、新規参入するにはハードルが高い。彼(マソニック)にとって広告業界の方がチャンスは大きいだろう。賢明な判断だね"
特に揶揄されたりしてはいないが、訳知り顔?の外野の声を聞いたマソニックは俄然、プロモーターになってやろうと意欲を燃やしたという。
日本のオールドファンにとっては、晩年の威厳ある、しかし穏やかな佇まいのNWA会長としてのイメージが定着しているが、若き日のマソニックは反骨心の強い、芯のある人物だったのだ。
しかし、プロレス興行に新規参入するにあたっては、やはり一悶着あった。パックス事務所と懇意だったミズーリ州アスレティック・コミッションから、プロモーターのライセンス発行を幾度となく拒否されたのである。最初は適当なスポンサーがいないから、次はセントルイスにおけるプロモーションが飽和状態のため…。
このあたりは、ざっと30年後に、当時新興の新日プロが様々な理由でNWA加盟申請を却下されるくだりを彷彿とさせる。その時点では、NWAという巨大組織を代表する、権威の象徴のように見えたマソニックが、当初は設立時の新日の如く、いわばインディー的な存在だったとは何とも皮肉、かつ意外である。
しかし初期の新日(猪木)同様、こんな事で音を上げるマソニックではなかった。州の窓口で埒があかないのなら、とセントルイス「市」のアスレティック・コミッションに掛け合い、興行開催の承認を得て、1942年3月27日に地元の大会場ジ・アリーナ(後のチェッカー・ドーム)での旗揚げ戦に漕ぎ着けたのである。州の横やりによる警官の動員などを予め禁止すべく、Injection(差し止め請求)を行った上での強行突破であった。パックスの圧力に屈せることなく本興行に出場したオーヴィル・ブラウン、ボビー・ブランズなどの大物レスラーとマソニックは、以降長きに渡って盟友としての関係を深めていく。

一方で、マソニックは型破りの自衛手段として、州のアスレティック・コミッションを相手取って訴訟を起こしている。根拠として挙げた理由は、プロレスの試合は州のアスレティック・コミッションの管轄外であり、州にはライセンス発行の権限などないという「そもそも論」であった。

手を尽くして、自らの古巣でもある「老舗」の
パックス事務所に対抗を試みるマソニックだったが、予期せぬ形で別の「戦線」に巻き込まれる。
折しも第二次世界大戦の最中、あと数年で40歳に手が届くという年齢で陸軍*3)に招集されたのだ
階級は軍曹、駐屯地はセントルイスから遠く離れたパナマで、運河地域における連合軍の通行に万全を期す、というのが課せられた任務だった。
次回は戦地から帰還しプロモート業にカムバックしたマソニックが地元セントルイスに「総本山」を築いていく栄光の軌跡、そしてNWAの落日に 繋がる「陰」の部分について掘り下げてみたい。
*1)現在のウクライナ。記事が執筆された1981年
当時は東西冷戦が終結しておらず、ウクライ
ナはソ連に属していた。
*2)G-Spirits Vol.57 「NWA」より
*3)正式には1941年から47年にかけて活動した
US Army Air Forces (USAAF)という組織に
入隊・所属した。
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