「山猫」時代のキニスキー
- Satom
- 4月18日
- 読了時間: 6分
更新日:4月19日
昭和のプロレスファンにとって、ジン・キニスキーといえば、豊登、馬場、猪木、鶴田と激闘を繰り広げた大レスラーというイメージか強い。
1928年11月生まれで、1964年春のワールド大リーグ戦に初来日した時点で三十台の半ば。写真からもその貫禄と、超一流のオーラが伝わってきた。リング上でシュミット流バックブリーカーやジャイアント・スイング、キチン・シンクにニードロップといった豪快な立体技を駆使する姿についた異名が「荒法師」。イメージにピッタリの秀逸なネーミングには、今更ながらに感心させられる。
日本のファンから見れば最初から古豪的な印象が強いため、キニスキーのグリーンボーイ時代は想像し難いが、2019年出版のG-Spirits(vol.53)
に掲載された流智美さんによる未公開インタビューではプロレス入り当時の話しが詳しく語られている。今回は本記録を基に、当時の新聞記事や試合結果を加え、改めて「ルーキー時代のキニスキー」を振り返ってみたい。

キニスキーのプロレスデビューは1952年2月13日、地元アリゾナ州タクソンのリングでカーリー・ヒューズなる選手を降している。*1)
添付の新聞記事の見出しにある通り、当時の通称は"Wildcat"。所属していたフットボールチームからの命名だが、このニックネームが踏襲されなくて良かった。初来日時の東スポの見出しが"荒法師来襲"ではなく"山猫見参"であればインパクトは半減していただろう。
カナダ・アルバータ州生まれのキニスキーだが、アリゾナ大学でフットボーラーとして活躍していた事から、タクソンは第二の故郷とも言える存在であった。大学卒業後一旦カナダに戻り、当地のプロフットボールチーム、エドモントン・エスキモーズに入団したキニスキーだが、当時のフットボール選手の年収は今日とは比較にならず、生計を立てるためアリゾナに戻り、プロレスとフットボールの二股生活を開始する。
大学時代からフットボール仲間とプロレス観戦に訪れていたキニスキーは、当時から同地のプロモーター、ロッド・フェントンとは顔なじみであった。キニスキーと同じくカナダ(アルバータ州エドモントン)出身だったフェントンは、新人のキニスキーに対して様々な支援、便宜を図る。

当時のサーキットコースは、タクソンの他にアルバカーキ(ニューメキシコ州)やエル・パソ(テキサス州)を中心に組まれており広域であった。
当時同地区に出場していたレスラーはドリー・ファンク・シニア、ジュードー・ジャック・テリー、そして"伝説のシューター"、ベン・シャーマンもまだ現役としてスポット参戦していた。 いかにも"腕に覚えあり"というメンバーである。

ドリー・ファンク(シニア)とは、デビュー直後からの数年間タッグ、シングル含め数多く対戦。
リング上では仇同士、リング外では友情を育んだ。キニスキーにとっては、キャリア最初期に おけるメンター(師匠)的な存在にあたる。
デビュー翌年の1953年はカナダに戻り、フットボーラー生活に比重を置いたため、プロレスの方は僅か8試合に出場したのみ。キニスキーがプロレスラーとして本格的に始動するのは1954年以降である。キャリア3年目となるこの年、キニスキーは西海岸(LAとサンフランシスコ)に進出、年間試合数は172試合と一気に増えた。11月3日にはオリンピック・オーディトリアムでNWA世界王者ルー・テーズへの初挑戦を果たし、堂々トップレスラーの仲間入りを果たしている。
翌1955年は、後年のNWA世界チャンピオン時代よりも多い215試合をこなしたという記録が残っている。キニスキーのレスラー生活で最も忙しかったのがこの年だったと思われるが、選手個人としての充実ぶりと共に、戦後の米プロレス界全体の勢いも伝わってくる。

アリゾナ州フェニックスの地元紙The Arizona Republic(1955年2月1日付け)が報じたNWA
王座再挑戦の記事。1月31日、地元の大会場
"マディソン・スクウェア・ガーデン"で改めてテーズの王座に挑むも、反則含みの1-2で惜敗。
同年、及び翌56年にかけて忘れてはならないのが他ならぬ力道山との一連の試合である。この時期のキニスキーはロード・ブレアースとタッグチームを結成、カリフォルニア、ハワイ両州を股にかけて活動しており、両地区のリングで力道山とは幾度となく対戦している。
シングル対決は一度も実現しておらず、タッグの顔合わせも55年6月(カリフォルニア)56年4月(ハワイ)に限定されているが、記録上確認が
とれたのは以下5試合であった。
・1955年6月16日ストックトン
力道山、東富士組対キニスキー、ロベルト・ピコ組(日本組の反則勝ち)
・1955年6月17日オークランド
力道山、レオ・ノメリーニ組対キニスキー、ブレアース組(60分時間切れ引き分け)
・1955年6月23日モデスト
力道山、エンリキ・トーレス組対キニスキー、ブレアース組(60分時間切れ引き分け)
・1956年4月9日ホノルル
力道山、遠藤幸吉組対キニスキー、ブレアース組
(日本組の反則勝ち)
・1956年4月16日ホノルル
力道山、遠藤幸吉組対キニスキー、ブレアース組
(日本組の負け)

上述の流智美氏のインタビューによると、ハワイでは力道山から「是非日本に来て欲しい」と直に依頼を受けたキニスキーだったが、既に次の試合日程が詰まっており、応じられなかった由。
この時期のキニスキー、ブレアース組は西海岸でシャープ兄弟ともライバル関係にあり、その試合巧者ぶりから、来日していれば話題を呼んでいただろうが、(エリック、ブルーザー同様)「まだ見ぬ強豪」として温存された事で、数年後の馬場との対決が新鮮味を持って受け止められたという面は確実にあった筈である。思えばこれだけ魅力的な面々が、十年以上かけて少しずつ来日していた頃というのは、何と贅沢な時代であったことか
それにしても、グリーンボーイどころかデビューして僅か数年で、押しも押されもせぬ売れっ子としての地位を確立したキニスキー…この時まだ20代だったというのは凄いの一言に尽きる。
次回は1960年代前半に時を移して、更にキャリアを積み重ねたキニスキーが、超一流レスラーへと昇り詰めていく過程を引き続き追ってみたい。
*1)公式のデビュー戦は1952年2月だが、フェントンの述懐によると、キニスキーはアリゾナ大学在籍中からアルバイト的にプロレスの試合に出場していたようである。当時は異種競技であってもアマチュアとプロの試合の両立は出来ず、タクソンから離れた地方都市で偽名を使っていたため、番外試合の記録は発見できなかった。
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