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怪人の足跡

  • Satom
  • 4月11日
  • 読了時間: 8分

更新日:4月12日

前回から時を遡って、プロレス入りする前のザ・シークと、リング生活前半のキャリア、及び強豪レスラー達との対決について触れてみたい。


その出自や、若き日のエピソードについては各種媒体で既に公にされているが、1926年6月7日イースト・ランシングでレバノン移民の家庭に誕生。本名エドワード・ファーハット。11人兄弟の10番目だった。デトロイト近郊という土地柄、一家は自動車産業関連の仕事に従事していたが、兄四人が米軍に勤務した経験がある事から、自身も入隊年齢に満たない頃から生年月日を詐称し、海兵隊入りを志願したという逸話が残っている。


18歳になって間もない1944年8月に、陸軍からの徴兵を受け入隊、第93装甲偵察部隊に配属される。所属部隊は1945年1月にフランス駐留米軍の支援部隊の一つとして派遣され、現地で指揮を振るっていたパットン将軍の傘下に入る。テキサス州のキャンプ・ボゥイでの訓練を終えたエドワードが同年4月、現地で部隊に合流した時、欧州戦線はベルリンにおける最後の戦いを迎えようとしていた。ベルリンは翌月、主に赤軍(ソ連軍)の猛攻撃により陥落するが、この時エドワードは、西側に配備された米軍の一員として戦車で国境を越えフランスからドイツに進軍したという。*1)


欧州での戦火が一旦鎮圧された後、米軍が現地における兵士の余暇として催したアマチュアレスリングの試合でエドワードは頭角を表す。185ポンドの体格で、軍隊内の試合で負けなしの22連勝を記録。やがて現地の治安が回復し、一旦帰国を許されたエドワードは、実家で休養中に広島、長崎への原爆投下の報に接する。同年秋口からの配備先は日本になる予定であったが、間も無く第二次世界大戦が終息を迎えた事で、1946年1月、エドワードの軍歴も終わりを告げた。


除隊後は、地元でオールズモビル車の組立工場に職を得たエドワードだったが、ある日通っていたジムで地元のプロモーターの目に留まり、1947年プロレスラーとしてデビュー。当初はベビー・フェイスとして小規模なサーキットを続けていたが、2年後〝シーク・オブ・アラビー”に改名した事をきっかけに本格的な躍進を遂げる。シリアの王族を彷彿とさせる衣装でリングに上がり、試合前にアラーの神に祈りを捧げるシーンも含め、エドワードのレスラーとしてのキャラクターとワイルドな試合ぶりは、ファンの間で絶大な悪党人気を呼ぶ。


プロレスラー、ザ・シークのキャラクターは、アメリカ、カナダの主要地域で広く認知されたが、その全盛期はいつ頃だっただろうか。年齢を感じさせず、息長くトップレスラーとして活躍したシークだったが、やはり1960年代の前半、三十代半ばから四十歳頃にかけての試合は際立っていたのではないかという気がする。


この時代にシークの悪名を轟かせたのは、ボボ・

ブラジル、ブルーノ・サンマルチノら、各民族を代表するベビーフェイスとの一連の試合だったが日本のファン目線で言えば、1961年4月7日、14日と二週続けて、ケンタッキー州レキシントンで行われたカール・ゴッチ戦が異色の存在感を放っている。試合はいずれも三本勝負で行われ、緒戦はゴッチが三本目に反則負けを喫し、翌週行われた再戦でもシークが勝利している。


上記二連戦の試合広告(Lexington Herald-Leader紙。1961年4月6日と13日付け。写真にはなぜか当日のカードに登場しないブルーザーが載っている。
上記二連戦の試合広告(Lexington Herald-Leader紙。1961年4月6日と13日付け。写真にはなぜか当日のカードに登場しないブルーザーが載っている。
1961年4月15日付けLexington Herald-Leader紙。 前日の試合結果を伝えている。シークの勝ちと報道しているのみで、試合内容については触れていない
1961年4月15日付けLexington Herald-Leader紙。 前日の試合結果を伝えている。シークの勝ちと報道しているのみで、試合内容については触れていない

FMW時代の大仁田厚が、シーク全盛期の「武勇伝」として「カール・ゴッチに足を極められた時喉元にナイフを突きつけて脅した」というエピソードを語っていたが、その伝説のシーンは、このニ試合のいずれかにて見られたものかもしれない。*2)それにしても、二人がリング上で向き合うだけでも驚きだが、果たして三本勝負をどのように戦ったのか? 試合内容が非常に気になるところである。


更に、ゴッチとの再戦の前日となる4月13日には

同じケンタッキー州のルイビルでビル・ミラーと対戦したシークはこの一戦にも勝利している。

ゴッチ、ビル・ミラーの「凄玉」二人を立て続けに降すとは、さすが恐るべし、ザ・シーク。*3)


ところでこの1961年4月は、上記の3試合以外にもシークを巡るビッグカードが続出しているので、以下に記してみる。


・5日 インディアナ州サウスベンド

    カウボーイ・ボブ・エリス(結果不明)

・11日 ネブラスカ州リンカーン

    バーン・ガニア(ガニア勝利)

・15日 オハイオ州シンシナティ

    アントニオ・ロッカ(ロッカ反則勝ち)

・22日 ウィスコンシン州ミルウォーキー

    ボボ・ブラジル(ブラジル勝利)

・27日 ケンタッキー州ルイビル

    ドン・レオ・ジョナサン(ジョナサン 

    反則勝ち)

・29日 オハイオ州シンシナティ

    ブルーザー、シーク組がカルホーン、 

    ユーコン・エリック組に勝利


対戦相手、タッグパートナー共に日本でも名前をよく知られたビッグネーム揃い…まさに戦後米国マットの黄金期といった趣きである。1950〜60年代にかけての北米の試合の多くは、後に東京12chの「プロレス・アワー」を通じて日本のファンにもお馴染みとなったが、上記の試合はいずれも放映されていないように見受けられる。いずれも映像で確認してみたいカードばかりである。


さて、ゴッチ、ミラーと続いたので、バディ・ロジャースとの対戦も調べてみた。新聞記事のアーカイブスで閲覧できた最も旧いと思われる記録は

1951年12月29日のIndianapolis Newsで、3日後の

1952年1月1日の大会のメインイベント(ロジャースvs"シーク・オブ・アラビー")を告知している

アトミック・ブロンド vs シーク・オブ・アラビー。1952年(昭和27年)、インディアナポリスの年明けは超異色のカードで彩られた。相撲からプロレスに転向した力道山が、ハワイ・米本土での武者修行に旅立つのは約一ヶ月後であるがサーキット・コースが重ならず、シークとの顔合わせは実現しなかった
アトミック・ブロンド vs シーク・オブ・アラビー。1952年(昭和27年)、インディアナポリスの年明けは超異色のカードで彩られた。相撲からプロレスに転向した力道山が、ハワイ・米本土での武者修行に旅立つのは約一ヶ月後であるがサーキット・コースが重ならず、シークとの顔合わせは実現しなかった

結果はロジャースの勝ち。試合時間は17分50秒とあるが、三本勝負なので合計だろう。当時二十代半ばのシークは、スタミナ面での不安は全くなかっただろうが、それでもシングルで20分近くの試合を想像するのは難しい。


1960年代にもシークとロジャースとの顔合わせは

少なくとも二度実現している。奇しくもゴッチ、ミラーと対戦した同じ年、1961年の8月18日オハイオ州シンシナティでの試合はNWA世界王座が 賭けられロジャースの勝ち、同年10月3日オハイオ州デイトンの対戦は 結果不明である。野生児とアラビアの怪人、ヒール同士ながらリング上でのパフォーマンスを身上とする二人の対決は、相当な盛り上がりをみせたのではないだろうか。


最後に鉄人ルー・テーズとの試合を紹介したい。

データベース、新聞記事などから確認できた両者の対戦は、以下6試合であった。


  1. 1955年11月18日 イリノイ州シカゴ

  2. 1964年4月17日 ミシガン州フリント

  3. 1964年8月26日 テキサス州ラボック

  4. 1969年8月24日 オンタリオ州トロント

  5. 1969年9月7日 ----〃---- (カナダ)

  6. 1969年10月25日 ミシガン州デトロイト


1.〜3.はいずれもNWA世界戦でテーズの勝ち。

4.〜6.はシークが雪辱を果たしている。


特定のテリトリーの枠を越えて、カナダを含む北米各地でメインを張り、それぞれの地域におけるファンの潜在的ニーズに訴求していたのだから、大したものである。

1964年4月16日付けThe Flint Journal紙に掲載された、翌17日の同地における試合の前宣伝。シークがテーズに挑戦するNWA世界戦よりも、女子の試合の方が扱いが大きいところが面白い。試合結果についても、紙面の大半は女子プロレスに割かれており、シーク-テーズ戦は数行のみ(テーズ防衛)であった
1964年4月16日付けThe Flint Journal紙に掲載された、翌17日の同地における試合の前宣伝。シークがテーズに挑戦するNWA世界戦よりも、女子の試合の方が扱いが大きいところが面白い。試合結果についても、紙面の大半は女子プロレスに割かれており、シーク-テーズ戦は数行のみ(テーズ防衛)であった
同じくThe Flint Journalに掲載されたシーク-テーズ戦の前宣伝記事。リングネームはまだ"ザ・シーク・オブ・アラビー"のまま。後年タイガー・シンが、 このナイフを咥えたポーズをコピーし、それを見た猪木が、サーベルに替えさせた話しは有名である
同じくThe Flint Journalに掲載されたシーク-テーズ戦の前宣伝記事。リングネームはまだ"ザ・シーク・オブ・アラビー"のまま。後年タイガー・シンが、 このナイフを咥えたポーズをコピーし、それを見た猪木が、サーベルに替えさせた話しは有名である

余談になるが、今回シークの試合記録を調べるにあたり、wrestlingdata.comで「The Sheik」と

入力し検索したところ、実に97名ものシーク名義のレスラーが出てきた。アイアン・シーク、シーク・アドナン・アル・ケイシーなど、名前と顔が一致するレスラーもいたが、大半は素性が分からずじまいであった。


アイアン・シークは亡くなる前の数年間、WWEを中心にそのキャラクターが改めて認知されて再ブレイクを果たしていたようだが、仮に50歳以上のプロレスファンが、百名近い「シーク」の中で最も知られた存在は誰か?と問われたとしたら、圧倒的多数が「オリジナル・シーク(エド・ファーハット)」を挙げるのではないだろうか。

ここまでプロレスラーとしてのイメージを全うした生き方というのも、なかなか思い当たらない。


試合前のアラーの神に捧げる祈りのセレモニーや猪木とモハメド・アリ戦の際に「同じ回教徒だから」という理由でアリ陣営についた事から、私は

彼が生まれながらのイスラム教徒だと思い込んでいたが、実生活におけるシークはマロナイト(=マロン派、東方教会系のクリスチャン)だったという。その事を知ったのはつい最近であった。


どこまでが「ガチ」でどこからが「キャラ」なのか、本人が没して20年以上経っても、なお判断に迷うというところが実にミステリアスで、ザ・シークという存在に、改めて「プロレスラー」を感じた次第である。



*1)陸軍在籍時代の経歴については、military.com

(ジェームズ・バーバー氏の記事) から抜粋


*2)1963年にもシークとゴッチは二回対戦(5月

  25日と6月15日、オハイオ州コロンバス)

  しており、ゴッチの一勝一引き分けの記録が

  残っている。「ナイフ事件」は、あるいは

  コロンバスのリング上での事だったかもしれ

  ない。


*3)競技ではないプロレスの試合結果(勝敗)に

  拘るのはナンセンスと感じる方が多いかもし

  れないが、自ら主催する興行を盛り上げたい

  プロモーターの思惑、ファンの期待値なども

  含めると、プロの世界における「結果」は 

  その世界なりの意味を持つと思うのだが、 

  如何だろうか。

  




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