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捩れた「王座移動」

Satom

更新日:3月14日

「NWAの王座は人事で決まる」という意味の言葉を初めて目にしたのは、どこだったか…ハッキリした記憶はないが、櫻井康雄さんがゴング誌に載せた読み物だったかもしれない。その意味するところは、次期チャンピオン候補の中から、選手としての実力、集客力などを全米の有力プロモーター達が「査定」して、これと見込んだレスラーには、優先的に挑戦の機会が与えられる…というようなところであった。どこのテリトリーに所属している、どのプロモーターの秘蔵っ子である

…といった要素が世界チャンピオンの誕生を左右する、というニュアンスの記事を、よく目にしたような気がする。


昭和が終わり、平成の時代に入って、これまでファンの目に決して触れなかった「タブー」が 

白日の下に晒されるようになる。NWAのチャンピオンが、喩えではなくガチでプロモーター主導の「人事」によって選ばれていた、ということも、そうした情報の一つであった。


しかし、そこは人の世の常と言うべきか、一旦決まった「人事」もひょんな事から覆ることもあり

時としてそれらはレスラーのみならず、プロモーター間の軋轢にも発展する。1970年代の前半、

ファンク・ジュニアから後継王者への交代時に、

図らずしてそれは起こった。


添付の試合広告は、1973年2月11日付けのタンパ・トリビューン紙に掲載されたもので、2日後の13日、フォート・ヘスタリー・アーモリーに於いて、ジャック・ブリスコがジュニアの王座に挑む一戦をフィーチャーしている。


オクラホマ出身ながら、NWAの激戦地フロリダに定着して数年が経ち、当地のトップ・ベビーフェイスとして名高いブリスコは、学生時代アマレスのNCAAチャンピオンに輝いた生粋のレスリングエリートとして、この時点で既に次期世界チャンピオンの最右翼的存在であった。デビュー以来、両者のシングル対決はこれが43回目で、それまでの戦績はブリスコの8勝14敗20引き分け。ちなみに試合の開催地を見ると、フロリダが圧倒的に多く28試合、次いでテキサスとノースカロライナが各5試合、セントルイス(ミズーリ)、アトランタ(ジョージア)が各2試合、サンファン(プエルトリコ)1試合となっている。


2月13日の「決着戦」は時間無制限の三本勝負、反則による勝敗なし、の特別ルールで行われた。

既にノンタイトル戦では4回ジュニアを降した実績を持つブリスコは、満を持して王座に挑んだが結果はジュニアが防衛。試合開始30分過ぎに仕掛けた足4の字固めで一本目を奪ったブリスコだが二本目に入り場外で負傷、三本目は僅か5分程で軍門に降った。


実はこの試合は、来るべき本当の「タイトル移動劇」の煽りで、その試合は、数週間後、3月2日にテキサス州ヒューストンで行われる手筈になっていた。このあたりの事情は20年ほど前に刊行されたブリスコの自伝*1)に詳しい事から、以降は当時の経緯について「ブリスコ目線」で追っていきたい。


ファンク・ジュニアがそろそろ王座から降りたいという意向をNWAの役員達に伝えたのは、ジン・キニスキーからベルトを奪取してから三年半が経過した72年の夏頃であった。全米各地で安定した集客力を持つジュニアに対し、組織内での慰留の声は大きかったが、本人の決意が固かったことから、以降次のチャンピオンを誰にするか?というテーマはNWAにとって喫緊の課題となる。


ブリスコの自伝によると、地元フロリダのプロモーター、エディ・グラハムから、ジュニアの後継にどうかとの打診があったのは、73年の年明けだったという。即答で戴冠したい旨を伝えたが、その希望が既定事項となったのは、暫くしてエディがNWAのBoard of Directors meetingから帰った後だったらしい。


時期的に見て、このミーティングは、毎年定例の

夏の総会@ラスヴェガスではなく、例のセントルイスで行われた「真冬の」会議の方だったと見て間違いないだろう。忙しいプロモーター達が、馬場全日本のNWA加盟だけの議題で遠路はるばる参集する、というのも腑に落ちない話しだったが、本来の「議題」が何であったかを考えると合点がいく。NWAチャンピオンの「人選」はプロモーター達の利害に直結する極めて重要なテーマであるからだ。


更に妄想込みで深読みすれば、のらりくらりとジュニアの後継者選びを先延ばしにするNWA役員達に対し、業を煮やしたシニアが突きつけた最後通牒の場が、この真冬のミーティングだったのではないか。


おそらく、全日本のNWA加盟が無事承認された後日本からの参加者(芳の里、遠藤幸吉、馬場、原章氏ら)の退出を待って、真の議題が討議された公算が高い。


件のブリスコ自伝によれば、この時点でのNWA役員会は、会長のサム・マソニック以下、エディ・グラハム、ボブ・ガイゲル、ドリー・ファンク・シニア、ニック・グラス、マイク・ラベールらによって構成されていた。ブリスコ以外に、時期王者として候補に上がったのは、ボブ・ガイゲルの推すハーリー・レイス。レイスは前年に新設されたミズーリ・ヘビー級チャンピオンの座に就いており、セントルイスは勿論、周辺のセントラル・ステーツ、更にテキサスにおける集客力には定評があったが、それ以外の地域における知名度がやや弱い、と不安視されたという。一方のブリスコも地元のフロリダ以外ではジョージア、ノース・カロライナでの試合が大半を占めており、全米規模での知名度という点ではレイスと同じくではあったが、最後はアマチュア時代の輝かしいキャリアがモノを言ったか、僅差で時期王者候補の指名を得た。*2)


「当確」を実現させたブリスコは、まずNWAに対し25,000ドルの「ボンド」を納める。これは「保証金」としての意味合いがあり、チャンピオンが戴冠期間中に、王者に相応しくない振る舞いをしたり、組織に損害を与えた場合には没収されるが

無事チャンピオンとしての仕事を務め上げ王座を降りた際には本人に返還される。「ボンド」の没収が実際に起こった事例はない筈だが、義務付けられた防衛戦を果たさなかったり、ベルトを持ったまま他団体に移籍した場合などに発動されるのだろう。チャンピオンになるには差し当たり現金が必要になる、という話しは、このブリスコ自伝で初めて目にしたように思う。


もう一つ、未来のチャンピオンには重要な仕事があった。全米各地の有力選手達との対戦である。これは、自分がチャンピオンになってからの防衛戦を想定して、あらかじめ「因縁」を創出すべく未来の挑戦者達と顔合わせを済ませておくという意味があり、自ずと試合の結果は未来のチャンピオンが敗れるか、或いは熱戦の末の引き分けという形になる。こうする事で、後日新チャンピオンがテリトリーに参戦してきた時、以前対戦した地元の有力なレスラーとの再戦が話題となり、集客に繋がる、という手の込んだシステムである。


新チャンピオン・ブリスコ路線が本決まりになったのが前述の「真冬のミーティング」(1973年2月2〜3日セントルイス)そして戴冠の日が3月2日ヒューストンだとすると「準備期間」は僅か一ヶ月しかない。この間に、上記の主旨に該当する試合がどれだけあったか。ブリスコの2月の試合記録からは以下の対戦が浮かんできた。


2/5 フォートワース リッキー・ハンターに負け

2/6 ダラス ホセ・ロザリオと引き分け

2/19 ウエスト・パームビーチ ボビー・シェーンと引き分け

2/20 バディ・コルトに負け


本来であれば、2〜3ヶ月をかけて全米の主要テリトリーを周り、各地のトップ選手達との「ものがたり」を丁寧に紡いでいきたいこの時期の作業としては、やや拍子抜けの感がある。(ブリスコ自伝には、連日連夜各地のトップレスラーを「オーバー」させたごとく書かれているが故に余計に)

 

これは逆に見ると、新王者の選定が、当初の想定より紛糾したという証かもしれない。又重複になるが「Xデー」のこれ以上の先延ばしは避けたいというファンク一家側の思惑も見て取れる。


どのような形であれ、王座承継の道筋は付けられ

あとはヒューストンでの「その日」を待つばかりとなった。しかし、周知の通り、運命の歯車は狂い「Xデー」は延期を余儀なくされる。そして王座承継コースも当初の取り決めから外れていく。各々の思惑を秘めた「人事変更」を生み出した背景について、次週も引き続き見ていきたい。


*1) 「BRISCO」ライター(William Murdock)

  への口述筆記による自伝


*2)上記自伝によると、エディ・グラハムのサ

  ポートに加え、テネシーのプロモーター、

  ニック・グラスによる支持が、次期チャンピ

  オン(ブリスコ)選定の決め手となった由






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