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新時代の大黒柱

更新日:1月5日

新春といえばジャイアントシリーズ、二日は恒例の、バトルロイヤル込みの後楽園ホール興行。

ジョー樋口邸で年を越したキング・イヤウケアはお屠蘇気分で会場入り(推測)、試合後は樋口に伴われ、又お雑煮を食べに戻ったのだろうか。


昨年の暮れは力道山、その師匠の玉ノ海と続いたので、年明けは力道山の直弟子、元祖Shohei、

世界のジャイアント馬場からスタートしたい。


カバーの写真は、本サイトに投稿されている藤井敏之さんから拝借したものだが、旧大阪府立体育会館の控室で撮られた由。試合直後だろう馬場の傍らで、付人が二人世話をしている。

足元でリングシューズの紐をほどいている方は、

駒角太郎(厚秀、マシオ駒)にも見えるが、馬場の頭に両手を置いて立っているのは誰だろうか。


ヒントはこの写真の撮られた日時。明記されてはいないが、1966年(昭和41年)4月2日の可能性が高い。


↓答えは、若手時代のあの人。


当時「草津清正」を名乗っていた、草津正武。

左手を馬場の首筋に添えているのは、マッサージでもしているのだろうか。草津は5月のシリーズで肩を負傷し欠場、そのまま日本プロレスを退団することになる。草津の日プロ在籍期間は、実質半年強といったところで、試合数もバトルロイヤルを含めて30試合を少し超える程度だろうか。

馬場の付人だった話しはよく語られるが、現場で仕事をしている風景はあまり見た記憶がない。

貴重な資料を快くお貸し頂いた藤井さんに改めて感謝する。


一方「主役」の馬場はこの年の初めに28歳になったばかりで、レスラーとしてのキャリアは7年目を迎えるところ。スタミナには絶対の自信を持っていた筈の馬場が、試合後にこれだけしんどそうな表情を見せる姿は珍しい。この日の相手は果たして誰だったのか?


(写真は同じく藤井敏之さん提供)


写真の日にちが上記の推察通りだとすると、当日メインで馬場と対戦したのはウィルバー・スナイダー。当時36歳(1929年9月生まれ)でこの時が初来日。馬場との試合は、前月26日に開幕した第8回ワールド・リーグ戦の公式戦として行われ、時間切れ引き分けに終わっている。精悍な表情と如何にもトップレスラー然とした貫禄。馬場がバディ・ロジャースと並んで最大級の評価を惜しまなかったスナイダーについては、改めて別の回に書き記したいと思う。


当日の試合に戻ると、第一試合からメインまで全11試合が組まれたが、全てシングルマッチでタッグは一つもない。カードと試合結果は以下の通りである。


  1. 山本小鉄(時間切れ引き分け)小鹿雷三

2. 松岡厳鉄(勝ち)草津清正

3. 星野勘太郎(勝ち)ミスター鈴木

4. カンガルー・ケネディ(勝ち)上田馬之助

5. ジム・グラブマイヤー(勝ち)大熊熊五郎

6. ビリー・ツー・リバー(両者リングアウト)

 ミスター・モト

7. 芳の里(反則勝ち)ロニー・メイン

8.ドン・ルーイン(勝ち)ミツ・ヒライ

9.吉村道明(リングアウト勝ち)アーマン・ハッサン

10.キム・イル(時間切れ引き分け)ペドロ・モラレス

11.ジャイアント馬場(時間切れ引き分け)ウィルバー・スナイダー


この年の日本プロレスは、年初に豊登の社長辞任が発表になり、3月には有名な「太平洋上猪木略奪事件」が起きるなど激震に見舞われた。この時点で日プロからの離脱者は豊登、猪木以外に斉藤昌典、木村政雄、高崎山三吉(北沢幹之)、田中忠治など数名に及んだが、所属選手の層は依然として厚く、大阪府立の大会でも、長沢秀幸、大坪清隆、駒角太郎、高千穂明久、林牛之助、平野岩吉、本間和夫、藤井誠之、杉山恒治といったところは試合が組まれていない。


(駒の場合は長期欠場中で、巡業に参加していなかった可能性あり。となると、写真にある馬場の付け人の内もう一人は、駒ではなく大熊か)


この時点での馬場の立ち位置は、押しも押されもせぬ団体のエースである。豊登の離脱が明らかになったのは年明け早々だったが、前年の後半あたりから、リング上の主役は確実に馬場にシフトしつつあった。昭和40年11月にディック・ザ・ブルーザーとの王座決定戦を制してインターナショナル選手権を手中に収めた馬場は、年が明けたこの年の2月に東京体育館でルー・テーズを破り防衛を果たす。この二大実績が及ぼす効果は言うまでもなく、ファンの目にも、力道山の正統な後継者は馬場、というイメージが醸成されていた。


そして迎えたワールドリーグ戦の決勝、5月13日東京体育館でスナイダーと再び対戦した馬場は、1-1からリングアウト勝ちを収め悲願の初優勝を遂げる。第一人者としての地位は、これでいよいよ磐石となった。


この年のワールドリーグ戦は、常連だった豊登、米国武者修行明けの猪木の不参加もあり、序盤の地方大会は不入りも散見されたらしい。中には試合の合間に興行を中止した大会もあったという。


しかし後半以降は興行成績も持ち直し、一月半に及んだリーグ戦を乗り切った頃には「絶対王者」馬場のイメージが完全に定着。これには馬場個人のみならず、日プロの幹部達も大いに安堵したことだろう。


ワールド初優勝の余勢をかって、馬場は一気に電車道を突き進む。リーグ戦に続く選抜シリーズでは必殺技ブレーン・バスターを引っ提げて来日したキラー・カール・コックスを迎え撃ち、9月には吉村道明とのコンビでインター・タッグを戴冠、そして11月には鉄の爪フリッツ・フォン・エリックと、新装から間もない日本武道館という檜舞台で対決した。翌年以降も、修行時代のライバルであるサンマルチノをはじめ、デストロイヤーキニスキー、クラッシャー・リソワスキーら、次々に手の合う好敵手を迎えうつ一方、日プロ復帰を果たした猪木とのBI砲でビル・ワット、ターザン・タイラー組に奪われたインタータッグ王座を奪還するなど、シングル、タッグを問わず大車輪の如く活躍。この時期の馬場はまさに不動のエースとして、日本のプロレス界を牽引したと言っても過言ではない。


「カミさま」のことを日本では「柱」と数えるが当時の馬場は掛け値なしに、欠くべからざる大黒柱であった。荒ぶるカミであった力道山の後を継いだ馬場は、憤怒の表情を顕にした修羅神のごとく、海の向こうから飛来する悪鬼達を薙ぎ倒していったのだ。いわば昭和の世に、いにしえの日本神話の世界が復活したようなものである。


又当時の少年ファンは、昭和40年代の初めからブームとなった怪獣とウルトラマンらヒーローの

対決をリング上にダブらせていたかもしれない。いずれにしても、面白くない筈がない。


逆に言えば、この時期に馬場という存在がなかったとしたら、果たして日本のプロレス界はどうなっていたことか。考えると、非常に心許ない思いがする。


時が前後するが、次回は力道山没後、馬場に

とって、又日本マット界にとっても大転換期となった数ヶ月間の激動の流れについて「たられば」を含みつつ考察してみたい。

 

【参考文献】

・「日本プロレス70年史」昭和編

・「Gスピリッツvol41」マスコミから見た東京

  プロレスの事情 















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