この風格と貫禄…歴代のインター・タッグチャンピオンの中でもダントツではないか。無敵のBI砲が初の完敗を喫したのもうなづける。しかもこの二人は、アメリカで組んだ実績は全くなかったという。恐るべし…。(この写真も、藤井敏之さん所有のコレクションからお借りしたものです)
ウィルバー・スナイダーとダニー・ホッジが揃って来日したのは1969年(昭和44年)の正月。
アポロ11号が月に着陸する直前である。
BIコンビとは四回対戦して一勝二敗一引き分けの成績を残した。この時スナイダー39歳、ホッジ 36歳。日本テレビではこの連戦の映像は残っていないのか、試合を一回も観た記憶がない。
最後の対戦となった秋田県立体育館には、1万3千人(!)の大観衆が詰めかけたとされる。*1)主催者発表だとしても県立体育館の「ハコ」ってそんなに広いのか?、知らんけど。雑誌等に掲載された対戦写真には、立錐の余地のない館内の様子が写っているが、これが秋田の一戦かと一人合点する。
いずれにしても強豪同士が日本でタッグを組んだ例としては、翌年暮れのキニスキー、バレンタイン組に匹敵すると思われ、インター・タッグ王座奪取というインパクトからしても、動画が現存していないのが惜しまれる。
さて、タッグの話しはこれくらいにして、以前に書き残したスナイダーの話しをさせて頂く。
(ホッジについては、後日改めて書き記したい)
今月の馬場シリーズの初回に記したが、スナイダーの初来日は1966年(昭和41年)の第6回ワールド・リーグ戦。馬場が悲願の初優勝を果たしたシリーズだが、期間終盤にジョー樋口がマジ切れした事件でも知られている。
詳細は樋口の著書*2)に記されているが、ペドロ・モラレス、ロニー・メインの悪ガキコンビにシリーズを通して手を焼いていたところ、終盤に入って食事や移動の件でビリー・ツー・リバーに文句を付けられ、群馬・前橋市体育館の控室で大爆発。中身の入ったビール瓶のケースをリバーに投げつけた挙句、タクシーで長距離を走り、単身帰京したというもの。
この時スナイダーは試合中だったが、ビール瓶の割れる大きな音はリング上まで響いたらしい。
控室に戻って事情を聞いたスナイダーは、いきなりリバーを殴りつけたという。結局、兄貴分の吉村道明になだめられた樋口は、シリーズ後の打ち上げ会に顔を出すが、リバーのみならず、モラレス、メインまでが飛んできて詫びを入れたという話しが伝わっている。
こうして見ると、エースとしてのスナイダーの振る舞いが、奔放に振る舞いがちな他の外国人選手達の暴走を抑止していたのは間違いなさそうである。当時の新聞記事によると、当初来日が予定されていたトップ外国人は、スナイダーではなく、あのビル・ワットだったらしい。この時、スナイダーではなくワットが来ていたら、ジョー樋口は本当に日プロを辞めていたかもしれないな、とつい想像してしまう。
そんな日本プロレス界の功労者?たるスナイダーだが、来日回数は僅か3回に留まっている。
これも又惜しまれる結果だが、毎年のように来日する常連外国人にならなかったのはなぜか?
本国でのスナイダーはディック・ザ・ブルーザーと共同で、インディアナポリスを中心としたテリトリーを運営しており、プロモーター兼トップレスラーとしての活動に多忙を極めていた事が主な理由として推察されるが、もう一つ邪推してみると、スナイダーは日プロのエースたる馬場にとって「重い」存在だった、というのが裏の理由として挙げられないだろうか。レスラーとしてのタイプこそ違えど、力道山にとってのディック・ハットン、猪木にとってのボブ・ループ的存在が馬場にとってのスナイダーではなかったかという気がするのである。
1月3日付け投稿(「新時代の大黒柱」)に添付した、大阪府立体育会館控室における馬場の疲弊した写真が、何より雄弁に馬場のスナイダー観を物語っているように思える、というのは飛躍し過ぎだろうか。
つらつらと妄想を書き連ねる内に、早いもので一月も残り一週間となった。次回は、最末期の日本プロレスの命運を左右した(と思われる)真冬のNWA総会について書きたい。
*1)「日本プロレス70年史」週刊プロレス編
*2)「ジョー樋口の プロレスのほんとの楽しさ」
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