top of page

​昭和プロレス懐古 & 現代プロレスの原点ランカシャー・レスリング

Weekly

ほぼ

​週刊 昭和プロレス

Since 2024

伝昭プロジェクト
特別価格
0円
Satom

昇龍出陣の地

扉の写真はもう30年近く前のものだが、テキサス州のHerefordという町にあるブル・バーンという建物の前で撮ったものである。記録によると、1979年の末頃までは週に一度、土曜日の夜にここでプロレスの興行が行われていた。


興行といっても、近郊のアマリロやラボックに比べると出場する選手も少なく、全カードで精々三試合といったところ。第一試合と第二試合がシングルマッチで、メインは一試合目と二試合目に出場した選手同士を組み合わせたタッグマッチというパターンも多かったようである。更にタッグマッチを外して、シングル二試合のみ、という事もあった。いずれの場合も、選手は4人いれば事足りる。


Herefordの中心産業は牧畜で、広大な土地に放牧された牛の数の方が、人口よりも多い可能性すらあるくらい小規模な町(1970年代の人口は1万人台)なので、観客動員もおそらく100〜200人、入っても250人程度だったのではないか。平均入場料が3ドルとして、チケットの売上も大体想像がつく。採算の問題から他の街のように6〜7試合は組めない。


プロレス雑誌や書籍では「ヘレフォード」と表記されるこの町、名前を聞いてピンとくる方も多いのではないか。1976年11月13日、頭に髷をつけたGenichiro Shimadaは、ここでテッド・デビアスを相手にプロデビューを行っている。試合は10分一般勝負で、結果は時間切れ引き分け。

相手のデビアスも、この時点でのキャリアは二年程度だが、両親共にプロレスラーで、子供の時から義父のマイク・デビアスの試合を観て育った経験から、そつなく試合をリードしたのだろう。


当時のプロレス雑誌が手元にないので記憶に頼るが、共に月刊だったゴング、プロレス両誌共、天龍源一郎(当時の表記は天竜)の米国初遠征の様子を写真入りで報じていた。特にゴングは、確か77年1月号の巻頭カラーでページを割いて、髷を付けた天龍がファンク・ジュニア、マスカラスの二大スターをヘッドロック風に両脇に抱えている写真を載せていたように思う。


今、当時の試合記録と照合しながら整理すると、

この豪華スリーショットが撮られた場所は上述のデビュー戦の二日前となる11月11日、アマリロ・スポーツ・アリーナのバックステージだろうことが分かる。マスカラスはこの日から五日間の短期日程でアマリロ地区のサーキットに参加、スーパー・デストロイヤー(アート・ネルソン)とのマスクマン対決二試合を含む四試合をこなしているが、天龍と一緒になったのは初日のアマリロのみだった公算が高いからだ。更に師匠のジュニアとマスカラス、天龍の三人が同じ日のカードに登場するのも、このアマリロ大会のみである。


なぜ、この時点でデビューしていない筈の天龍の名前がアマリロのカードにラインナップされているのか? 実際にはこの日の天龍は、まわしをつけての相撲マッチに出場、日本から同行して来た桜田和男と対戦している。変則マッチとは言え、観客の前でプロのリングに上がっており、ギャラも手にした(はずである)以上、本来ならこの試合をデビュー戦とみなすべきなのかもしれないが相撲からプロレスに転向しての海外デビュー戦が「相撲マッチ」ではさすがに格好がつかない。

この試合をエキジビジョン扱いとして、二日後のデビアス戦を、正式なデビュー戦として報道した当時のマスコミの判断は極めて妥当だったと思う


スリーショットの写真の格好は三者三様で、マスカラスが黒の皮ジャン、ジュニアが赤いセーターにベージュのスラックス姿。一方「主役」の天龍はアマリロ入りしてから調達したであろうブルージーンズの上下をラフに着こなしているが、この試合前の華やかなオフショットの後、桜田共々まわしを身につけたのだろう。師匠のジャイアント馬場も天龍の初渡米に同行しており、まわし姿の天龍と写真に収まっている(「Gスピリッツvol22」p5)が、これも同日スポーツアリーナで撮影されたものと思われる。


華やかな雰囲気を醸し出したアマリロでの絵作りを経て、二日後ヘレフォードでデビューを果たした天龍だが、試合を終えたリング上、或いは控室の様子はどんなものだったのか?


当日のカードは全部で三試合、天龍-デビアスはオープニングで、後はジェリー・コザックとスコット・ケイシー、リッキー・ロメロとアレックス・ペレスがそれぞれ対戦するシングルマッチのみである。そこには馬場のゲスト出場は勿論、ジュニアやマスカラス、又桜田の姿もなかった。


当時のアマリロ地区のサーキットは広範なエリアをカバーしており、不定期ながら、異なる場所で同日興行を行うことがあった。コロラド州の第二の都市コロラド・スプリングスもそうした不定期興行が開催される都市の一つであり、1970年代の半ばから末にかけては年間数回のベースで試合が行われていた記録が残っている。


天龍がデビューした1976年11月13日も、丁度そうした同日興行の日に重なっており、ヘレフォードでは上述の三試合、コロラドスプリングスでは四試合が行われた。(マスカラス-スーパー・デストロイヤー、ファンク・ジュニア-デニス・スタンプ、桜田和男-ペッツ・ワトレーなど)


コロラドスプリングスの人口は、1970年代半ばの時点で約25万人。相応の観客動員が見込める事から、同日興行の場合、主力級のレスラーの大半はコロラドに出場するのが通例となっていた。テキサスの片田舎であるヘレフォードは、言葉は悪いがB級のコースだったのだ。 


では、デビュー直後の天龍の周囲に、祝福の声をかける者は皆無だったか。天龍本人が過去に複数の自伝で明らかにしているが、当日のヘレフォードには、ゴング誌の茨城清志(ミッキー茨城)通信員が取材のため同行していた。その目的は勿論天龍の「正調」デビューを見届けて、日本のファンに伝えるためである。


自伝がいずれも手元にないので、再びうろ覚えを承知で書くが、試合後の天龍は、アマリロのホリディ・インへの帰路、夜空に輝く星を見ながら、茨城氏がお祝いにとご馳走してくれたホットドッグを口にしながら、これで俺もプロレスラーになった、と感慨に浸ったという。


そこから40年近く、ミスター・プロレスと言われるまでの長い道のりを経て、2015年に両国で引退試合を行った際、セレモニーで両脇を固めたのはテリー・ファンクとスタン・ハンセン。ウエスト・テキサスを代表する二人だった。そこから更に十年近く経って、偉大なるレスラーのスタートとラストを改めて振り返った時に、思うところは多い。


私ごとながら、天龍さんのデビューから約二十年ほど後に、アマリロ近郊に一年間だけ住んだ事がある。本格的な冬を迎えるこの季節、夜はうんと冷え込むが、空に輝く星は例えようもなく美しい。天龍さんには、機会があれば是非もう一度、あの星空を見上げて欲しいと願うものである。







閲覧数:8回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


お問い合わせ先

​伝昭プロジェクト

TEL: (075)285-2403  (WWPクラブ) 

〒607-8341 京都市山科区西野今屋敷町27-6

bottom of page