
疾風怒濤の荒法師-後篇
- Satom
- 5月2日
- 読了時間: 10分
前回は、1960年代のキニスキーをカバーしようとしたが、その足跡が大き過ぎて一回ではとても収まりきらなかった。今回の後篇では、1963年から
NWA世界王座戴冠までを一気に振り返ってみたい
バディ・ロジャースを独占するフレッド・コーラーの一派に業を煮やしたカール・サーポリス(NWA会長兼アマリロ地区プロモーター)が独自認定した「世界王座」 そのチャンピオンに一定期間君臨したキニスキーだが、このタイトルはその後どういう運命を辿ったのか?
本情報自体は初出ではないが、結論から云うと、1963年3月28日アマリロ・スポーツ・アリーナでその年の初めにデビューしたばかりのルーキー、ドリー・ファンク・ジュニアがキニスキーを破って、新チャンピオンの座に就いている。

キャリア三ヶ月未満のジュニアにとって、これが間違いなくシングル王座初戴冠だったろう。1969年2月のNWA王座交代に先立つこと六年、キニスキー→ジュニアのタイトル継承に「前例」が存在していたというのは、奇しき因縁という他はない
ちなみにこの時点で「問題」*1)のロジャースはルー・テーズに敗れNWA王座を失っていた。NWA会長の方も、1963年夏の総会でサム・マソニックが三年ぶりにカムバックを果たしたことで
組織は求心力を回復、これに伴いアマリロ版世界王座もその役目を終え、本流たるNWA王座の系譜に吸収される形で消滅していく。
「世界王座」を手放してもキニスキーの勢いは全く止まらず、翌64年春には第6回ワールド・リーグ戦参加のため初来日。力道山が亡くなって初のリーグ戦決勝は、豊登とキニスキーの間で争われ
エプロンからのニードロップを自爆したキニスキーは惜しくも敗退。しかしリーグ戦に続く選抜シリーズではカリプス・ハリケーン(サイクロン・ニグロ)とのコンビで豊登、吉村道明組からアジア・タッグ王座を奪取している。ベルトは二週間後に新コンビの豊登、馬場組に奪還されるが初来日で当時の日本における看板タイトルを腰に巻いたのみならず、間接的に「馬場時代」の到来をアシストしたと言えなくもない。

同年秋、米本土に戻ったキニスキーは東部の新興団体WWWFに参戦。10月からサーキットを開始したキニスキーは、ペドロ・モラレス、ビル・ワットといった若手のベビー・フェイスを一蹴し実績を積み上げた後、満を持してブルーノ・サンマルチノの世界王座に挑戦する。
11月16日マディソン・スクウェア・ガーデンで実現した両者の初対決は、サンマルチノの片足がサードロープにかかっていたにも関わらず、ピンフォールを奪ったと強弁したキニスキーがリングサイドに置かれていたチャンピオンベルトを強奪するという、波乱のエンディングとなった。
再戦は約一ヶ月後の12月14日、MSGの年内最終定期戦の舞台で行われ、19分24秒サンマルチノが勝利。しかし、決着の仕方についてはリバース・フルネルソン(12月15日付けStaten Island Advance紙)、キニスキーの反則負け(同日付けBayonne Times)と二説ある。いずれにしても、ベルトは無事にサンマルチノの腰に戻った。

WWWF地区のサーキットは足かけ半年以上に及んだが、当該期間中もキニスキーは東部のみに拘束されず、地元のカナダをはじめ、セントルイスやWWAなど各地の定期戦に出場している。
WWWFの「年期」が明けてからは北米各地でルー・テーズのNWA王座に連続挑戦。1965年の6月から9月にかけてセントルイス、メンフィス、オタワ、ウィニペグ、バンクーバーで五回対戦し、3つの反則負け、時間切れ引き分け、両者反則など激闘を演じた。
上記に限らず、1965年を通じてのキニスキーの対戦相手は、いずれ劣らぬ一流揃い。バレンタインスナイダー、ブラジル、エリック、ジョナサンとまさにキラ星の如くである。8月21日インディアナポリスでは、ディック・ザ・ブルーザーを破ってWWA王座を奪取。その合間を縫って、トロントではビリー・ワトソン、WWA地区ではボビー・マナゴフと、NWA王座に就いた経験のある古豪とも何度となく顔を合わせている。
このような多彩な顔ぶれに混じって特筆すべきは米国武者修行時代のカンジ・イノキとのシングルマッチである。両者の試合は8月から9月にかけて三回、以下の日程で行われた。
8/31 ダラス、9/21 ダラス、9/22 サンアントニオ
試合はいずれもキニスキーが勝利しているが、8/31、9/22はセミファイナル、9/21は堂々のメインを張っており、プロモーターの期待の程が伝わってくる。

当時キャリア五年で若干22歳だった若き猪木が、NWA王者となる直前、36歳のキニスキーを相手にした試合は、日本のファンにすればまさに垂涎の一戦である。勿論映像は残っていないが、後年流智美さんがキニスキー、猪木の両者から聞き出した述懐から、当時の状況を垣間見ることができる。*2)
猪木)俺はスタミナには絶対の自信があったが、キニスキーをいくら攻めても息が荒くならない。
50分くらいの長い試合だったが、最後は根負けした。後で「悔しいな」と思った数少ない試合
キニスキー)オールラウンドなレスラーという観点から見れば、イノキの方がババよりも明らかに上だった。優れた反射神経と柔軟な身体…あれ程の素質を持ったレスラーは、アメリカにもなかなかいなかったと思う
余談ながら、テキサスの試合から3年後、日本で両者は再び顔を合わせている。(1968年11月29日・室蘭)この時の一戦は25分でキニスキーがバックドロップでフォール勝ち。両者の国内シングル対決はこの一度きりだが、日本テレビが生中継で放送した事もあり、今でもこの一戦を語り草にするオールド・ファンの方は多いようである。*3)
話しを1965年に戻すと、猪木戦の翌月となる10月
21日と28日、キニスキーはトロントでジョニー・パワーズと連戦し、いずれも快勝。
11月にはダラスでエリックとダブルKOの激闘を演じた他、ブルーザー、ブラジル、ボブ・エリスらの挑戦を受けてのWWA王座防衛戦、カナダ(ウィニペグ)ではジョナサン相手に反則負け、と北米全土を転戦する一方で、セントルイスでの
キール・オーディトリアムの定期戦にはほぼ皆勤に近いペースで登場。この時点で「次期NWA王者」キニスキーは既定路線であり、主要マーケット行脚とNWAの総本山への出場は、ほぼ義務化されていた感が強い。
12月に入り、3日のキール定期戦でパット・オコーナーと対戦したキニスキーはこれを撃破。元チャンピオンを降した事で、次期世界王者としての地盤を磐石にしている。続いてWWA地区でのサーキットの合間にアマリロ地区にスポット参戦数試合を消化した後、25日のインディアナポリスでブルーザー相手にWWAベルトを落として「身辺整理」。後は年明けのキール定期戦で「運命の日」を待つばかりとなった。

1966年1月7日、セントルイスで王座を手にした時キニスキーは37歳。そのタフネスぶりはいささかの衰えも見せておらず、以降三年間「戦う機械」として、NWAの全テリトリーをくまなく転戦することになる。前王者のテーズが、自らの後継を選ぶにあたり、候補となっていた三人(エリック、スナイダー、キニスキー)の中から迷わずキニスキーを推した、という話は有名だが、確かにNWA世界チャンピオンとして、各地域のビジネスを活性化させる、というミッションをこなせるレスラーとしては、キニスキーはうってつけの人材であった。
キニスキーの風貌、試合ぶりを見て、弱い王者と判断するファンはまずいないだろう。だからといって地元の挑戦者を一方的に降してばかりでは観客動員は上がらず、ビジネスは停滞する。試合の中で、如何にチャレンジャーの持ち味を発揮させ、見せ場を作るか? チャンピオンの器量が最も問われるところである。
ヒール役として試合をリードすることができ、攻めと受けのバランスを保ち、展開にメリハリを持たせつつ、長時間の試合をこなせるというのが、NWA王者に求められる資質か、と個人的に解釈しているが、キニスキーの場合は更に加えて「負けパターン」を演出できるという「スキル」を身に付けていたように思う。
具体的には、大技の後でとどめを刺そうと放ったニードロップをかわされて自爆し、負傷した膝や
脚を攻められて敗れるという「型」である。
豊登とのワールド・リーグ決勝、ファンク・ジュニアに敗れてNWA王座から転落した試合、LAの馬場戦でインター王座を失った試合、いずれもこの「型」を踏襲していた。こうする事で、自らの強いイメージを極端に損なうことなく「アクシデントによる敗退」というイメージを観客に抱かせ、対戦相手との「ものがたり」を更に先へと繋いでいくことができる。プロレスという、純粋な勝ち負けだけを競うものではない特殊なジャンルにおける「自己プロデュース力」に最も秀でた者がチャンピオンになる、という構図は、ある意味で分かりやすく、説得力がある。
最後に個人的な印象で恐縮だが、キニスキーの「人間力」というものも、レスラー、あるいはチャンピオンとしての魅力に、表裏一体で繋がっているように感じる。それはリング上の勇姿からではなく、オフ・ザ・リングの何気ないスナップなどから伝わってくるのだが、例えば巡業中に駅のホームで、レスラー仲間と一緒に写真に納まる時、背の高いキニスキーは最後列で穏やかに微笑んでいることが多い。これは日本でのショットに限らず、ずっと時代が下って1990年に、オールドタイマーズ・バトルロイヤルの機会に開かれたパーティの席でも同様であった。現役時代の「格」からすれば、最前列の中央で椅子に座っていても全くおかしくないのだが、最後列で立ったまま笑顔を浮かべている、というのが、私のキニスキーに対するイメージである。こじつけかもしれないが、リング上で傍若無人な暴れっぷりを見せる「ジャイアン」的なキャラとリングを降りた時の控えめな態度のギャップも又、超一流レスラーかつ名チャンピオンの一つの要件ではないだろうか。これはキニスキーに限らず、名を成した一流のレスラーに共通して感じる美徳でもあるのだが。
最後は蛇足的な私見になってしまった。三回に渡って振り返ってきたキニスキーの「英雄譚」をこの辺でひとまず締めくくりたい。
*1)真に「問題」なのはレインメーカーの独占を
試みた一部のプロモーター達で、ロジャース
一人の責めに帰すのは酷な話しだが…
*2)G-Spirits Vol.53 「ジン・キニスキー/未発表
インタビュー」
*3)室蘭での猪木戦から一週間後、キニスキーは
馬場のインター王座に挑戦。三本目、馬場の
ジャイアント・コブラに捕まったキニスキー
は、レフェリーの沖識名に暴行をはたらき反
則負け。この時点では、猪木はまだ馬場の露
払い的な役割を余儀なくされていたが、一年
後、ファンク・ジュニアにBIが連続挑戦した
際には、両者とも引き分けに終わり、BIの
同格ぶりが印象付けられた。
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