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真冬のNWA総会

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NWA総会と言えば毎年8月、せいぜい秋口までに行われるイメージが強いが、唯一真冬にも開催された年があった。(正式には総会ではなく、臨時役員会だが)


その年とは、1973年。議題は全日本プロレスのNWA加盟について。この臨時役員会は、電話会議として開催・評決されたという説もあったが、最近の資料からは、当時NWA本部の置かれていたセントルイスに主要メンバーが実際に参集した事が明らかになっている。*1)


この会議の仕掛け人は、広く知られている通り、アマリロ地区のプロモーターで、当時世界チャンピオンだったドリー・ファンク・ジュニアの父であるファンク・シニアであった。


シニアの「全日本推し」はいつから始まったのか? 時系列を辿ると、NETのプロレス中継に

自身の登場を許可した日プロの首脳陣に対し異を唱えたジャイアント馬場が、自身の団体を興すと発表したのが前年(1972年)の7月29日。この時点で日本テレビのバックアップを得ていた馬場は当初外国人レスラーのブッキングをLA在住のミスター・モトに依頼、内諾を得ていたが、翌月8月初旬にラスヴェガスで行われたNWA総会で芳の里遠藤幸吉から圧力をかけられたモトは同月17日の時点で馬場に断りの国際電話を入れる。慌てた馬場に対して、アマリロのシニアが、同地区で活動中だったマシオ駒を通じて協力すると申し出た…藁にも縋る思いで8月下旬に渡米した馬場はアマリロのシニアを訪問、ブッカー就任の快諾を得た、というもの。*2)


しかし、である。この時点で全日本の旗揚げ予定日まで二ヶ月を切っている。ましてや一ヶ月も経たない9月には、馬場がシニアの手配でハワイとアマリロで矢継ぎ早やにデモンストレーションマッチを行っている事を思えば、いくらなんでも手回しが良すぎはしないか、という気がする。


この点については、以前Gスピリッツ誌上で小泉悦次さんが考察しておられるが、馬場のシニアに対する折衝は、「正史」から遡ること半年、72年の2月には既に始まっていた公算が高い。*3)  


添付の写真は、72年2月17日のアマリロ大会のカードを掲載した地元紙Amarillo Globe Timesの新聞広告だが、メインはドリー・シニアとサイクロン・.ニグロのテキサス・デスマッチ。同日馬場はセミファイナルに登場、テリー・ファンクと対戦している。13日のアルバカーキ(ニューメキシコ州)からアマリロ地区のサーキットに合流した馬場は14日エルパソ、15日オデッサと転戦、翌16日はオフとなっている。当時同地区には馬場の腹心だったマシオ駒、大熊元司がおり、彼らの仲介でドリー・シニアと肚を割って話す時間は十分にあった筈である。

1972年2月13日付けAmarillo Globe Times 。              4日後の17日、スポーツ・アリーナにおける試合の広告写真。下段にコマ、オークマの名前も見える。
1972年2月13日付けAmarillo Globe Times 。 4日後の17日、スポーツ・アリーナにおける試合の広告写真。下段にコマ、オークマの名前も見える。

当時の馬場は、前年暮れのクーデター騒動の責任を取る形で選手会の会長こそ辞任していたが、日本プロレスのエースたる立場はいささかも揺らいでいなかった。年が明けた72年、正月シリーズを終えた馬場は、翌2月のオフの間を縫って約10日間の日程で米国に短期遠征する。行き先はフロリダ、上述のアマリロ地区、セントルイスにデトロイト。いずれもNWAの有力なマーケットである点に注目したい。この期間に馬場が現地のプロモーター達〜エディ・グラハム、ファンク・シニア、サム・マソニック、エド・ファーハット(ザ・シーク)らと顔を合わせたことは確実であるが、果たして何を話していたのか? まず前年暮れに日本プロレスを揺るがしたクーデター騒動について、現地のプロモーターから経緯と今後の影響、見通しについて訊かれたであろう事は想像に難くない。*4)


 又その際には、今後の馬場個人の行末についても当然話題に上ったと考えて良いのではないか。その時点での馬場の胸中については、当然乍ら推測の域を出ないが、日プロの首脳陣に対してはある程度距離を置き、ドライに自らの去就を見据えていたという仮説は十分に成り立つと思う。


 というのも、この時点で自局のエースたるアントニオ猪木を失ったNETが、日プロの幹部に対し団体の看板たる馬場の登場を求めるのは火を見るより明らかであった。*5)仮に日プロがこれを認めた場合、プロレス中継の「本家」たるNTVが黙っていないだろう事も、容易に想像がつく。

 元々は前年の夏から暮れにかけて、猪木と歩調を合わせて日プロの「放漫経営」を打破しようと取り組んで来た馬場である。間も無く勃発するであろうTV放送を巡る一連の騒動を考えると、古巣に対する思いがこの時点で冷めたものになっていたとしても、特に驚くにはあたらない。


馬場個人としては、この時点で考えられるオプションは大きく二つ、このまま日本に残留するか、米国に活動の場を移すか、である。前者の

日本残留は、上記の理由から日プロ残留ではなく、NTV又はNETの中継確保を条件に自前の団体を興すという流れの方がむしろ自然だったのではないかと思われる。*6)


以上を前提とすると、前述のNWAプロモーター達との会話の内容も自ずと想像がつく。馬場が自らの抱負として語るとしたら、最も蓋然性が高いのは「今後は自分としても身の振り方を考える必要がある。もしかするとレスラーとしてもう一度アメリカに定着するかもしれないし、あるいは日本で自分の団体を興すかもしれない。いずれにしても今後共よろしく」というところだろう。


後は、馬場の話しを聞いたプロモーター達がどう反応するかである。これについては、個人同士の波長も関係してこようが、その後実際に起きた事から判断すると、この段階で最もポジティブに馬場とのビジネスを視野に入れたのがファンク・シニアであった事は想像に難くない。勿論それは、自らのテリトリー振興にも有利に働くという打算と、1963年アルバカーキでの初対面以来、馬場という個人に対する好意がないまぜになったものではあったろう。日本テレビ元プロデューサーである原章氏の証言によれば、シニアは当時アマリロ地区に滞在中だったマシオ駒を深く信頼しておりこれが全日本支援を決めた大きな理由だった、という。


いずれにせよ重要なことは、72年2月の時点で、馬場(或いはマシオ駒)から今後の展望を聞いたであろうシニアの肚が、ある程度固まっていただろうという「前提」である。


馬場が一レスラーとして米国に戻ってくるのなら

アマリロをはじめ、NWAの主要テリトリーで改めて売り出そう、もし日本でプロモーターとして自ら団体を興すのなら、ブッカーとして相互協力を図ろう、どちらにしても、双方のビジネスに必ずプラスをもたらす…シニアの脳裏に粗々に浮かんだのはそんなイメージだったのではないか。


数ヶ月後には馬場のオプションは一つに絞られ、日本テレビの全面支援を受けて新団体を興す運びが明らかになる。このあたりの紆余曲折については馬場から直接ではないにせよ、マシオ駒が逐一シニアに報告していたと見るのが妥当だろう。


その後、全日本のスムーズな旗揚げに至るプロセスには、シニアの「仕掛け」の跡が随所に散見される。特に顕著なのは、上記の通り72年夏の終わりから、翌年の2月に全日本のNWA加盟が認められるまでの半年弱の流れだが、意外と重要になるのがその少し前、上述の通り72年8月初旬に開催されたNWA総会における動きである。会議の席上、昨年暮れ以降の日本プロレス界の流れについて、日プロのブッカー兼エージェントであるミスター・モトが説明しているが、この中で「猪木が設立した新団体(新日本プロレス)はNWAにとってオポジション(対抗勢力)である」と明言している一方で、総会の直前に日本プロレスに辞表を提出した馬場に関しては、NWAに反旗を翻す動きはしない旨、敢えて強調しているのだ。この時の会議には日本プロレスから社長の長谷川淳三(芳の里)遠藤幸吉も参加しており、芳の里としては馬場の慰留(日プロ残留)を諦めきれず、敢えてモトに上記のスピーチをさせた*7)と伝わっている。しかしその後の経緯を見るに明らかな通り、この懐柔策は完全に裏目に出た。(上述の通り、

芳の里と遠藤幸吉がモトに対し、馬場に協力しないよう圧力をかけるのはこの直後である)


 逆に馬場にとっては、この72年夏の総会はNWA内における自らの「正当性」をアピールする上で絶大な効果をもたらす。離脱直後に古巣の日プロ側からプレゼント?された、公の場における擁護のスピーチ…これ以上望むべくもない見事なお膳立てという他はない。

 これを全日本側の「工作」と呼ぶのは勿論不当ながら、NWAのメンバー達に対して馬場のクリーンな立場を印象づける「仕掛け」の背後にファンク・シニアの肝煎りを感じてしまうのは、憶測が過ぎるだろうか。


思わぬ形で新興・全日本プロレスに塩を贈る事になった日プロの幹部連だが、余波はそれだけでは済まなかった。この時アンチ・新日の旗幟を鮮明にした事が、半年後の2月にシニアが音頭をとったNWA臨時役員会で、大きな禍根として跳ね返ってくる事になる。日本プロレスの命運を決定付けた真冬の役員会の趨勢については、次回改めて詳しく触れたい。


*1)G-Spirits Vol.73 「回想・全日本プロレス」

  及び「テレビはプロレスから始まった」

  福留崇広著 証言はいずれも元NTVプロレス

  中継プロデューサー原章氏。

*2)「テレビはプロレスから始まった」福留崇広

   p135-136 (原章氏のコメント)

*3)G-Spirits Vol.33 「G・馬場の海外行脚」

*4)サム・マソニックNWA会長(当時)は前年の

  71年初頭に来日した際、翌年夏のNWA総会を

  日本で開催する旨アナウンスしていた事も

  あり、猪木離脱後の日本マット界の去就には

  特に注目していたと思われる。

*5)当時NETで日プロ中継を担当していた船橋慶

  一アナウンサーの回想によると、離脱した

  猪木の復帰を強硬に申し入れたNETに対して

  日プロ側から調停案として、馬場の試合を

  放送する事を打診してきた由。

  G-SpiritsVol.70 「日本プロレス時代のワール

  ドプロレスリング」

*6)馬場は、TV録りの会場などで丁寧に挨拶して

  くるNETのディレクター、スタッフに元々

  好感を持っており、後日自らがNETの中継に

  登場した事で、日プロとNTVの間に軋轢が

  生じた際にも、日プロ内部での多数決では 

  NET放映続行に一票を投じたという。

  〜当時の付人佐藤昭雄の証言

  G-SpiritsVol.66「佐藤昭雄 BIを語る」

  (実際には、複数の投票において投票先を

   使い分けていた公算が高い)

*7)G-SpiritsVol.57 「NWA年次総会の中身」



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