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真冬のNWA総会(続)

Satom

更新日:3月14日

表題とは全く無関係の書き出しになってしまうが

先月の大相撲初場所において、12勝3敗の成績で優勝した大関豊昇龍の横綱昇進が決定した。

 直近三場所の合計勝ち星が33勝という事で、大関昇進には合格ラインながら、こと横綱昇進となるといかがなものかという意見が相撲協会審判部内でも多勢を占めたにも関わらず、高田川審判部長が最後は自らの責任で昇進を決めたという。この決定が職権の濫用にあたるか、善用なのかは来場所以降の豊昇龍の成績次第ではあるが、組織における意思決定の妙を端的に示した一例であると言えよう。


位相は横綱昇進問題とは異なるが、かつて力道山が自ら髷を切って力士を廃業した後、一年も経たない内に、角界復帰の機運が醸成された事があった。当時横綱だった東富士と千代はの山は、復帰を切望する力道山を受け入れる姿勢を見せており、何よりも、戦後の新国技館復興に大きく尽力し、角界にとって大功労者の一人であった新田新作の口添えもあった事から、同じく体調不良により角界を去っていた元大関増井山共々、力道山の復帰はほぼ内定していたという。しかし力士会会長を務めていたもう一人の横綱・ 羽黒山 が「おかしな前例を作ると角界の権威に拘る」との主旨から強硬に反対した結果、一旦賛成に傾いていた大半の力士も意見を撤回し、力道山の角界復帰は水泡に帰した。*1)


「空気が決める」とも言われる日本人の決議、意思決定において、時として声の大きな少数の意見が大勢を覆す事例もあることを、我々は体験的に知っているが、そのメカニズムについては不明な点が多い。目に見えないところで潮目が変わるという面妖な事がしばしば起こり得るのが、人の世の面白いところではある。


これとよく似たケースが、約二十年後、その力道山が遺した最大の遺産である日本プロレスの最末期にも見られた。時はまさに真冬のNWA総会(役員会)の開催された1973年(昭和47年)2月の初旬、日プロは存亡の瀬戸際に立たされていた。


 永年プロレス中継を放送してきたNTVは前年5月に放送を打ち切り、その後間も無くしてジャイアント馬場の離脱にあった日プロの興行成績は目に見えて悪化、視聴率の低下を理由に、もう一局のNETも中継打ち切りを検討中であった。日プロに唯一残された打開策は、前年に猪木が興した新日本プロレスとの合併のみという状況である。

(NET側は4月の番組改編期以降も放送を継続する条件として新日との「合体」を求めていた*2)


NETの意向を受けた猪木と坂口は、合体の素案を描き、団体名は「新・日本プロレス(仮称)」、会長には芳の里が就任するというところまで計画が具体化されていた。日プロ側の取りまとめ役となった坂口は、2月1日代官山の事務所で行われた選手会で説明を行い、賛同を得る。これを受け、一週間後の8日には京王プラザホテルで猪木と坂口が合同記者会見を開催、新・日本プロレス構想を公にする。社長に猪木、副社長に坂口がそれぞれ就き、株の比率は猪木側が60%、坂口側が40%の割合とするというところまで発表された。


韓国から戻るや卓袱台をひっくり返した大木金太郎
韓国から戻るや卓袱台をひっくり返した大木金太郎

ところが、である。韓国に帰国中で上記選手会を欠席していた大木金太郎が日本に戻りこの話しを聞くや激怒して猛反対、一旦は新日との合併に賛成した選手達も大半が大木に同調し、日プロ-新日合併案は潰されてしまう事になる。結局坂口を中心とする数人が新日に合流したのが3月、NETは同月末で日プロの中継を打ち切り、翌4月からは新日の中継に移行、日プロは間もなく興行会社としての機能を失うという流れは周知の通りである。


「日本プロレス史」の中でよく語られるこの経緯を聞いて、疑問に思ったのは二つ。まずは、なぜ大木金太郎に、一旦決まった合併を白紙に戻させるまでの「力」があったのか? 

 二つめは、一旦は坂口から上申された合併案を認めたとされる社長の芳の里が、なぜ大木の横車を黙認したのか、である。


一つめの疑問は、日プロの選手達の目線に立つとある程度見えてくるものがある。大木の人望や求心力といったファクターより、僅か一年ほど前に「クーデターの張本人」として自分達が追い出した猪木に対する反発や猜疑心が、一旦決まった合併案を白紙に戻させた大きな要因だろう。


仮に新日と合併しても、山本小鉄など生粋のメンバーとの対立は目に見えており、自分達が冷飯を食うであろう事もほぼ明らかである。大木の反対は「なぜ自分が後輩の猪木の風下に立たねばならないのか」という私的な思惑を「日本プロレスの灯を消してはならない」という英雄的な建前に置き換えたものであったが、他の選手達もまた自分達のエゴを同じスローガンにすり替えた、と総括して差し支えないと思う。


二つめは社長としての芳の里のリーダーシップ、器量といったものが取り沙汰されるところである。力道山の突然の逝去と、後任の豊登の放遂により、予期せぬまま日プロの代表取締役となった芳の里は、その後東京プロレス、国際プロレスといった新興勢力に対する手立てこそ順次講じたにせよ、大局を持って日本プロレスの10年先を見据えるといったタイプの経営者ではおそらくなかったろう。専横的な独裁者として組織のトップに君臨するのではなく、生来のナンバー2的な気質から、意識するしないに関わらず、結果として調和型の運営を図っていたという印象を受ける。


しかしトップたるもの、時として毅然とした態度を取らねばならぬ事もある。芳の里にとっては、

韓国から戻ってきた大木金太郎が、選手会の決議である新日本プロレスとの合併を白紙に戻そうとした時が、まさにそのタイミングであったと言えよう。時局としては、自らの立場と日本プロレスの人員を護る最後のチャンスでもあった。なぜ、この時芳の里は大木の横車を止められなかったのか?


 昨年発行されたG-Spirits 73号の中に、その疑問に対する有力な手掛かりが載せられていた。元NTVプロレス中継プロデューサー原章氏のインタビュー記事だが、その中で「真冬のNWA総会(臨時役員会)」の内容が詳しく語られている。単に記憶を反芻するのではなく、会議のメンバーや各個人の発言までが綴られた当時のメモを基にした貴重な証言である。これによると、件の会議は1973年2月2日、3日の両日、セントルイスのクラリッジ・ホテルて開催され、サム・マソニック、エディ・グラハム、ドリー・ファンク・シニア、ビンス・マクマホン、マイク・ラベール、ジム・バーネット、ジム・クロケットの主要メンバーのほか、日本からは馬場、原氏の全日本代表に加えて、芳の里、遠藤幸吉の二名も日プロ代表として参加している。結果、全日本のNWA加盟は満場一致で認められているが、これは即ち日プロ首脳も全日本を新メンバーとして迎える意思を表明した事に他ならない。


日本では、まさにお家の一大事、直前の2月1日に上述の日プロ選手会、8日には新日との合併記者会見が開催される合間に、競合先となる全日本のNWA加盟に賛成の一票を投じるために、わざわざセントルイスまで駆けつける…普通のビジネスの感覚では理解し難い行動だが、ここで日プロ側は更なる失策を犯す。「坂口を連れて新日本に行くことはない」と会議の席上で遠藤幸吉が発言、これが議事録に載せられたのである。半年以上先の

事ならいざ知らず、自分たちが帰国して早々に、新日との合併話しが公になる事は重々承知していたはずの二人が、なぜこのような発言をしたのか? 前年夏にモトに発表させた「新日本はオポジション」コメントとの整合性を持たせるつもりだったのかもしれないが、これは言うまでもなくその場しのぎにしかならない。


この真冬の役員会における発言は、帰国してから自分達を縛る頸木にもなった。大木が騒いだのは一つのきっかけに過ぎない。セントルイスにおける自分たちのコメントから、芳の里、遠藤の二人は新日本との合併を支持できない立場にあったのだ。


仮にセントルイス会議において芳の里が、『昨年夏の総会で「新日本はオポジション」と述べたがその後猪木側と討議・調整を重ねた結果、彼らの新団体を吸収合併する目処がついた。母体はあくまでNWAメンバーたる私、長谷川淳三が代表を務める日本プロレスである事に変わりはない。これまで色々ご心配をおかけした。以上」とでも報告しておけば、離合集散が常の業界に於いて、それ以上の突っ込みはおそらくなかっただろう。ましてや「吸収合併」の条件や持ち株の比率まで細かく聞いてくるプロモーターは皆無だったと思われる。


上記の如くその場を収めていれば、NWAとしては「新・日本プロレス」にNWA世界チャンピオンをはじめ、日プロに来日していたような強豪レスラー達を引き続き派遣せざるを得ない。建前上、新興の全日本プロレスを老舗の日本プロレスより優遇する理由は全くないからである。これは言うまでもなく猪木に対する大きな土産となっただけでなく、新日との合併における旧日プロ側の優位性を、相当な程度まで担保するものであった。


数ヶ月後に、刀折れ矢尽き、落日が決定的になった日プロが、力道山家を介して全日本に「吸収」されたケースとは、趨勢が全く異なっていた筈である。(勿論猪木・新日の立場からすれば、この「新・日本プロレス」構想は潰れた方が結果として良かったのだろうが)


人間は、時として不合理な決断や行動をする事がある。今回の原章氏の記録から、なぜ芳の里は、大木の「卓袱台返し」を止められなかったのか?という疑問に対する一応の答えは出た。

しかしながら「なぜ芳の里は真冬のセントルイスで「新・日本プロレス」設立に至る経緯を(多少の詭弁・誇張を交えても)説明した上で、団体の継続を宣言しなかったのか?」という新たな疑問は残る。


当時芳の里の周辺にいた高千穂明久(グレート・カブキ)は、「オヤジ(芳の里)は既に日プロを畳んで身を引くつもりだった」と述懐しているが*3)日本プロレス残党の処遇を真剣に考えるならまずは「新・日本プロレス構想」の下で選手一同結束すべく、統率力を発揮すべきだったろう。

個人的に身を退くのは、合併後の新団体の船出をひとまず確認した後にいつでも出来る。


 仮に合体が実現していたとしても、猪木の下で働きたくない旧日プロ組は(大木、上田、松岡厳鉄が馬場傘下の全日から去ったように)新日を退団することになっただろうが、それは大人たる一個人としての決断であり、芳の里が責任を負うべき話しではない。


カブキは、最末期の日プロにおける会議で「お前(達)がしっかりしないからこうなったんだ」と芳の里を面罵する大木金太郎に対し激しい怒りを覚えた*4)と告白しているが、大木が本当にそう発言したとすれば、ある意味で的を得ている。


この時点で社長たる芳の里のすべき事はただ一つ日プロのセーフランディングに繋がる道筋を整えるべく、内外に向けて働きかける事だった。そこで大木が力道山への忠誠を盾に反対するのなら「泣いて(?)斬る」までである。


周辺の事情がすっかり明らかになった現在の立場から過去を振り返ることは、全てが後出しジャンケンの類であり、当時の日プロ幹部の優柔不断?ぶりを今更批判するつもりは毛頭ない。後から冷静に外野席から振り返る時と、大きな流れの渦中にある時とでは見方が異なって当然である。


本質論になるが、自分個人のエゴ、プライドのみならず、他人のそれも複雑に交錯する状況において、我々の行動というものは往々にして予測が付かなくなるのかもしれない。


それとも上記の新たな疑問に対して、目から鱗が落ちるような次の「発見」も、いつかまた、もたらされるのだろうか。


*1)「力道山未亡人」細田昌志 p88-93


*2)元「ワールドプロレスリング」実況担当、

船橋慶一氏によると、当時NET専務だった三浦甲子ニ氏、プロデューサーの永里高平氏ら社の上層部が中心となって、前年(72年)の暮れ辺りから

猪木・坂口合体案は進行していたとされる。

(G-SpiritsVol.71「日本プロレス時代のワールドプロレスリング」)


坂口征ニは、この時NETの辻井博氏(当時の編成局長、後の新日本プロレス会長)から「猪木と一緒になれば、NETで一生面倒を見る」との言質を得たという。(G-Spirits Vol.30坂口インタビューにおける本人の弁)


*3)*4)G-SpiritsVol.28「日本プロレスが崩壊した日」高千穂明久インタビューより


高千穂(カブキ)氏はインタビューの中で「猪木さんと坂口を結びつけたのは(NETではなく)芳の里さん」と証言しているが、事実は*2)に記載の通りかと思われる。


*写真はいずれも藤井敏之さんにご提供頂きました

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