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執筆者の写真Toshiyuki Fujii

知られざる日本初登場前のタイガー・ジエット・シンの戦績  Part1:トロントデビューから一時帰国まで

更新日:10月27日


岡田氏が描いた素晴らしいタイガー・ジエット・シンの肖像画


1973年5月4日、突如テレビ画面に、山本小鉄対スチーブ・リッカードの闘いをリングサイドで見ていた一人のターバンを被った大男が観客席からリングに駆け上がり、リッカードの椅子攻撃に激怒した山本が椅子を奪い返し反撃している背後から襲い掛かり大暴れする姿が映しだされた。制止する田中米太郎レフェリーを殴り倒し、次々と止めに入る若手をも蹴とばし殴るの大暴れを展開。業を煮やしたアントニオ猪木と坂口がリングに上がるや、放送席に駆け下りたインド人らしき男は猪木に挑戦を表明、テレビで見ていた私にとって驚きとともにアントニオ猪木に久々ライバルと呼べる外人レスラーの登場に胸が躍った。

アナウンサーの問いに対し、当時解説をしていた桜井氏があれは“ヒンズー・ハリケーン”ですよと答えた一言が今でも忘れられない。

当時、海外からの情報など専門誌で読むぐらいで、確か1969年2月号のゴング誌において“幻の強豪アスラム・パールワンの正体を暴く”という真相追及記事においてカナダ西部のブリティシュコロンビア地区で暴れるタイガー・シンか米国北東部を舞台に暴れるヒンズー・ハリケーンか?という記事で名前を知っていた程度でほとんどのプロレスファンは彼の存在の知識は無かったと思われる。

しかしそのインド人レスラーはカナダのトロントにおいて既にメインエベンターを務めていたという事実が判明。

ではその戦歴をレスリング・データーで調べながら紐解いて行くことにしよう。

尚、ヒンズー・ハリケーンではデーターが無く,あくまでタイガー・ジエット・シンの名前でデビューから活躍していた模様である。

その戦績データーによるとスタートは1965年9月16日、カナダのメープルリーフ・ガーデンズにおいて対スタンフォード・マフィー戦に勝利と記載されている。恐らくカナダに渡ってのデビュー戦かと推測される。

同年11月28日にはプロフェッサー・ヒロと組みジョニー・パワーズ&スイート・ダデイ・シキと対戦この時のパートナーはハワイ出身の日系人(本名George Halealoha Kahaumia,でリングネームを金剛山、タロー・ケムオカ、プロフェッサー・ヒロと使い分けながら1921年~2010年まで活躍)とある。二人とも当時名トレーナーであったフレッド・アトキンスに師事を仰いでいたようであるので、その関係でよくタッグを結成していたのだろう。

翌年(1966年)は徐々に名声も上がりはじめ対戦相手も名だたる強豪がひしめく。2月にはポール・デマルコ、George Kanelis,らと、5月からはアーニ・ラッド、ロッキー・ジョンソン、ビリー・ワトソン、ブルドック・ブラワー、スイート・ダデイ・シキ、アート・トーマス、エドワード・カーペンティア、スタン・スタージャックら日本でも有名なレスラー達と師匠フレッド・アトキンスとタッグを組んだりシングルで対戦したり、徐々にメインを務める事になる。

そして1967年に入ると破竹の勢いでトロント地区のメインエベンターとなってゆく。

2月同地区にあの金髪の妖気ジョニー・バレンタインが入りシンとの抗争がスタート、そして6月11日にジョニー・バレンタインが腰に巻くフランク・タニー認定するカナダUS王座に挑戦し、短時間で勝利し新チャンピオンになっている。6月18日のリマッチでも勝利を上げ堂々と同地区のメインエベンターとして君臨。


”金髪の妖気”ことジョニー・バレンタイン

そしてその実績が認められ、遂に7月18日、オハマにて時のNWA世界ヘビー級チャンピオンである“荒法師”ジン・キニスキーに挑戦。続けて7月23日、地元メープルリーフ・・ガーデンズでも再挑戦を成し遂げる。惜しくもベルト奪取には至らなかったがその戦歴は輝かしいものとなる。8月にはUSベルトをめぐりジョニー・バレンタインとの抗争がさらに激化してゆく。その勢いは止まることを知れず、9月24日にはカナダにやってきたWWWF世界王者ブルーノ・サンマルチノの王座にも挑戦する名誉にも預かっている。そして10月15日には再びトロント地区に来たブルーノ・サンマルチノの王座に再びチャレンジしているのだ。その間にも10月22日にはあの“黒い魔人”ことボボ・ブラジルにも勝利し確固たる実績を上げている。興味深いのは10月24日、コロンビア州ビクトリアメモリアルガーデンで”BIG KU”との対戦し引き分けというデーターが残る。そう当時海外遠征していた国際プロレスのグレート草津である。恐らくシンにとって日本人レスラーとの初遭遇だったかもしれない。11月2日には実力者ドン・レオ・ジョナサンとUS王座を賭け一騎打で対戦しドロー防衛も成し遂げている。


”NWA世界王者”ジン・キニスキー(上)と”WWWF世界王者”ブルーノ・サンマルチノ(下)の雄姿




年は変わりトロント地区を支えるレスラーになったシンはプロモーターであるフランク・タニーの信用も得て、新たに同地区に来たマーク・ルーイン、ザ・アサシン、デューイ・ロバートソン(後に1984年怪奇派のミッシング・リンクに変身し大ブレーク)らと対戦しながらその地位をさらに高めていっていた。

ところが1969年2月18日ジャック・ベンス戦を最後にタイガー・ジエット・シンの名前が急にカナダ・トロント地区の戦績から消えている。

そう彼は親の依頼でインドの生まれ故郷パンジャブはスジャプルへお見合い結婚の為一時帰国するのである。

1965年にトロント地区のマットに初登場して以来、その実力と努力でメインエベンターと上り詰めていったシンにとっては大きな決断であったろうが、親に忠実でもあるシンは、まずは自らの家族を作り地盤を固める事に専念することを選んだのであろう。続く・・・

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