昭和41年11月19日大阪球場でのアントニオ猪木とジョニー・バレンタインの対決
不思議な縁とはこのことだろう、1973年5月新日本プロレスのリング上で初めて相対したアントニオ猪木とタイガー・ジエット・シンのそれまでの過去の歴史を辿れば魔訶不思議な因縁が見えてくるのである。
1943年2月20日生まれの猪木はブラジルで力道山の目に留まり、1960年9月30日、日本プロレスは東京・台東体育館において兄弟子の大木金太郎戦でデビュー。7分6秒、逆腕固めで敗れる。
対してタイガー・ジエット・シンはインドから単身カナダに渡り1965年、フレッド・アトキンスによりプロレスラーとして鍛え上げられ本格デビューしている。記録を紐解くと最も古いデーターとして1965年9月対スタンフォード・マフイに勝利している。
その後アントニオ猪木は日本プロレスの前座試合で揉まれ、1964年3月9日より遂に夢に見たアメリカ遠征に旅立つ。アメリカ武者修行を経て、23歳の若さで多くの試合経験をこなし日本プロレスに凱旋する予定が、世にいう太平洋上猪木略奪事件として語られるのだが、日本プロレスを首になった豊登が新団体“東京プロレス”旗揚げにおいてエース候補として猪木をハワイで口説き猪木は代表取締役社長兼選手として同団体に参加を表明。
そして猪木は旗揚げ戦における外人とのブッキングの為、懇意にしていたヒュー山城の線からボビー・ブランズを頼りNWA総本山セントルイスはサム・マソニック(NWA会長)の基へと行く。マソニック会長の下でブッカーをしていたボビー・ブランズゆえ契約はスムーズに進み、66年9月16日のキール・オーディトリアムと17日のテレビ撮りの試合を見てジョニー・バレンタイン、ジョニー・パワーズ他と契約。この人選が猪木の今後に大きく影響を及ぼすことになる。
猪木がアメリカでブッキングしてきたジョニー・バレンタイン(左)とジョニー・パワーズ
そして10月12日(東京プロレス旗揚げ戦)、若干23歳のアントニオ猪木はジョニー・バレンタインとの一世一代の大勝負に挑む。アメリカでは意外とアメリカ的でかったるい動きの選手だった故、舐めてかかっていたのだが、いざ試合がスタートすると非常にタフなそしてパンチ力の強い選手であり、互いに死力を振り絞り猪木はパンチ、チョップ、バレンタインもド迫力なパンチ、エルボーで応戦し凄まじいファイトで観客の心を射抜く名勝負となる。かろうじて場外でアントニオ・ドライバーを放ちリングアウト勝を得た猪木もバレンタインの強さに下を巻いた。その後11月19日、大阪球場においてジョニー・バレンタインが腰に巻くフランク・タニーがカナダで認定したUSテレビジョンヘビー級(シカゴ版)を奪取しテレビ撮りはなかったが、一躍日本のプロレス界のヒーローとなる。
猪木にとっては世間に名前が浸透した出生試合の相手がジョニー・バレンタインであった。
その後7度の防衛を行い東京プロレスが消滅すると共に王座を返上し日本プロレスに復帰したのが1967年の春であった。
その頃、タイガー・ジエット・シンは最初の全盛期を迎え、猪木と同年代のシンは1967年6月11日、カナダ、トロントのメープルリーフ・ガーデンズにおいてジョニー・バレンタインが保持するフランク・タニー認定のカナダUSヘビー級王座に挑戦し奪取。1968年5月まで防衛記録を伸ばしている。まだまだ海外の情報が日本には流れてこない時代ではあるので彼の名は日本では認識が薄かった。
1973年新日本プロレスのリング上で相対した二人の歴史において強豪ジョニー・バレンタインが二人の前に立ちふさいでいたという事実が凄く興味深いものである
1970年の年末、インターナショナル選手権シリーズにジン・キニスキーと共に来日したジョニー・バレンタインのインタビュー記事においても色々読みあさったが、自らの闘いの歴史においてトロントの新鋭タイガー・ジエット・シンの名前が発せられていないことも今となっては不思議なものである。
インドの狂虎タイガー・ジエット・シン ジョニー・バレンタインの雄姿
1990年9月30日アントニオ猪木デビュー30周年メモリアル・フェスティバルにおいてアントニオ猪木、タイガー・ジエット・シン、そしてジョニー・バレンタインの3人が一同にリング上に揃った姿はファン目線でも感慨深いものであったが。当事者の3人においては
どんな思いや感情が巡っていたものだろう
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