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美獣の五十七日

  • Satom
  • 5月30日
  • 読了時間: 8分

五月は新緑が本格的になるほか、天候も変動が多い。月初めはまだ肌寒いが、月末には汗ばむ陽気に加え湿度も上がり、梅雨の気配が漂ってくる。


 変動といえば、世界最高峰のNWA世界王座を 四年以上にわたり堅守していたドリー・ファンク・ジュニアが敗れる、という波乱のニュースが伝わってきたのは、ちょうど日本の気候が大きく移り変わるこの時期、1973年(昭和48年)5月末の事であった。


新王者は"ハンサム"ハーリー・レイス。ジュニアの初来日時にポリスマンとして同行していた事もあり、ファンク一家の番頭格的な印象が強いが、米国ではジュニアの王者時代に互いの地元(テキサスと、アイオワ・カンザス・ミズーリ三州に跨る中西部)を舞台に何度も対戦、レイスがホームリングのカンザスシティで奪取に成功した時は、16回目の挑戦であった。


タイトル戦における両者のそれまでの対戦成績は、ジュニアの11勝4引き分け。この記録を見る 限り「第一コンテンダー」というイメージは薄いが、地元ではセントラル・ステーツ・ヘビー級のベルトを腰に巻いており、更に前年の1972年に新設されたミズーリ・ヘビー級王座も獲得するなど着実に世界王座への階段を昇りつつあった。

1975年11月14日付けのSt.Joseph Gazette紙に掲載された、レイスの珍しいポートレイト。写真自体は初のNWA戴冠を果たす前に撮られたものだろうか。レイスの若き日の綽名である「ハンサム」は反語の類などとも言われたが、こうして見ると、相応しいニックネームのように思えてくる伊達男ぶりである
1975年11月14日付けのSt.Joseph Gazette紙に掲載された、レイスの珍しいポートレイト。写真自体は初のNWA戴冠を果たす前に撮られたものだろうか。レイスの若き日の綽名である「ハンサム」は反語の類などとも言われたが、こうして見ると、相応しいニックネームのように思えてくる伊達男ぶりである

本来はジュニアからブリスコへと受け継がれる予定だった王座が、ジュニアのトラック事故により変更となった事実は広く知られており、以前当欄でも触れたが、この「王座移動コースの変更」については以下の如く様々な憶測が生まれている。


曰く、"NWA会長サム・マソニックの了解を得ずして、ファンク・シニアがジュニアからレイスへの王座交代を強引に実現させてしまった"


また曰く"ジュニア→レイスへの王座移動(予定)はNWAの認知するところだったが、万が一

ジュニアが王座降板を拒否した場合に備え「ガチ指令」がマソニックからレイスに出ていた"


前者はマソニックの側近だったラリー・マティシ

ックが自著の中で述べており、後者は20年程前にKeyfabemessageboardという米国のファンが主宰するネット掲示板で囁かれていたものである。


それぞれの説の真偽を問うには資料が揃わないので控えるが、二説とも「必然性」が欠落していることから、個人的にはどちらも該当しないと見做している。特に後者は、NWAベルトを一日も早く落として、長期にわたる過酷なサーキットと直近の事故で積もったダメージを癒したいと希うジュニアが、これ以上王座に拘る理由が全く見当たらない。


本篇の主役たるレイスの話しに戻ろう。ジュニアから王座を奪取した翌日の1973年5月25日、早速初防衛戦を行った新王者の相手はダニー・リトルベア。小柄なベビーフェイスのリトルベアと、若きヒールのレイスは「手の合う」間柄だったようで、初戴冠の期間だけで、6回もタイトルマッチが組まれている。又レイスの全キャリアを通じての試合記録を見ると、最も対戦が多かったルーファス・ジョーンズに続いて、二番目に多く戦っているのがこのリトルベアであった。中西部の名物カードだった「美獣vs小熊」。両者の対戦動画は残っていないが、二人のレスラーとしてのキャラクターからして、リトルベアの役回りは吉村道明的なものだったのではないか?


如何にも小粋なベビーフェイスといった風貌のリトルベア。1925年生まれでレイスに挑戦した時は既に50歳に近かった。1969年国際プロに来日しているが不慣れなヒール役で本領発揮には至らず。十歳若ければ、ビル・ロビンソンのように善玉外国人として国際マットで一花も二花も咲かせたかもしれない
如何にも小粋なベビーフェイスといった風貌のリトルベア。1925年生まれでレイスに挑戦した時は既に50歳に近かった。1969年国際プロに来日しているが不慣れなヒール役で本領発揮には至らず。十歳若ければ、ビル・ロビンソンのように善玉外国人として国際マットで一花も二花も咲かせたかもしれない

後年には通算で八度もNWA王座を手にしたレイスだが、初戴冠時の在位は57日間の短期に終わったというのも有名な話しである。ではこの二ヶ月弱の間に何回の防衛戦が行われたのか? 調べたところ、実に45回(!)であった。


以前、ブリスコがレイスを破ってベルトを奪取した際の防衛記録を調べたことがあった。1973年の7月20日にチャンピオンになってから年内一杯迄半年弱の期間で防衛戦は87回。こちらも十分に過酷なペースだが、レイスの防衛頻度はそれを更に上回る、まさに殺人的なスケジュールである。


ブリスコの際と同じく、挑戦者十傑、及び防衛戦が行われたテリトリーを以下に列挙してみる。


【挑戦者十傑(回数)】

1)アーチ・ゴルディ(6)

 ダニー・リトルベア(6)

3)ドリー・ファンク・ジュニア(3)

テリー・ファンク(3)

5)ジャック・ブリスコ(2)

ボボ・ブラジル(2)

クロンダイク・ビル(2)

8)ブルーノ・サンマルチノ(1)

ジン・キニスキー(1)

パット・オコーナー(1) 以下割愛


【テリトリー(タイトルマッチ数)】

1) セントラルステーツ  (13)

2) アルバータ・他  (9)

3) テキサス西部(WSS) (5)

4) カロライナ(JCP) (4)

5) ジョージア      (3)

フロリダ       (3)

7) テキサス東部(BTW) (2)

バンクーバー     (2)

ポートランド     (2)

10)セントルイス (1)

トロント (1)


45回の防衛戦の三割近くが、レイスの地元である中西部で行われている。ブリスコ政権時のフロリダにも言える事だが、やはりチャンピオンの招聘にあたっては「地の利」が相当にモノをいうことを、この数字が雄弁に語っている。  

 次に印象的なのが、カナダにおける試合が多い事。ここではアルバータ、サスカチュワン両州をスチュ・ハートのテリトリーとして一括りに数えたが、それ以外にもバンクーバー(キニスキー)トロント(フランク・タニー)と、カナダ全域で12回もの防衛戦が行われた。スチュ・ハートの地元での試合数が多いのは、年に一回開催されるカルガリー・スタンピートに合わせて新王者レイスが招聘されたからである。


挑戦者別にみると、同率トップの二人(アーチ・ゴルディ=ザ・ストンパー、ダニー・リトルベア)はいずれも「ご当所限定」チャレンジャーで前者はカナダ・アルバータ州、後者は上述の通り米国中西部の人気レスラーであった。レイスとアーチ・ゴルディのタイトル戦は、Youtubeに短時間の煽り映像らしきものが残っているが、半ばヒール・マッチのようなものに見受けられた。


意外だったのは、ミズーリ州ヘビー級王座を巡り因縁浅からぬジョニー・バレンタインとの対戦が見当たらないこと。セントルイスでは、そもそも王者レイスの登場が一度しかなかったほか、二人の抗争が既に一段落していたという事情もあるが他地区においても実現していない。フロリダでは両者共同日に試合に出場しているが、レイスの相手はロン・フラーだったというケースもあった。フロリダではカナダのようなヒール同士のマッチメークは敬遠されたのかもしれない。

レイスがロン・フラーを破って世界王者になったと記した、1973年5月31日付けThe Miami News紙。勿論誤報であり、レイスは前夜フラーを相手に防衛戦を行ったに過ぎない。アメリカの地方紙にはこのケースの如く、事実誤認に基づく記事が散見される
レイスがロン・フラーを破って世界王者になったと記した、1973年5月31日付けThe Miami News紙。勿論誤報であり、レイスは前夜フラーを相手に防衛戦を行ったに過ぎない。アメリカの地方紙にはこのケースの如く、事実誤認に基づく記事が散見される

45回の防衛戦の中で絶対外せない一戦を一つだけ選ぶとしたら…? やはりセントルイスにおけるブルーノ・サンマルチノ戦になるだろうか。

 1971年1月イワン・コロフに敗れ、WWWF王座から転落して以来二年半近くになるサンマルチノだったが、その人気は全く衰えを知らず東部地区を中心にマイペースで活動する合間に、この時期にはスポットでセントルイスのマットに上がっていた。73年4月6日、イワン・コロフとの因縁試合を東部から持ち込む形でキール・オーディトリアムに登場したサンマルチノは、同月27日にはマスクマンのジ・インヴェーダー(ディック・マードック)、5月18日にはリップ・ホークを連破し

6月15日のキール定期戦で満を持してNWA王座に挑戦する。「総本山」マットにおけるレイスの初防衛戦、ましてや相手が東部の絶対王者だったサンマルチノとあって、当日は一万人を超える大観衆が詰めかけた。


NWAの総本山で実現した美獣と人間発電所の対決。ジュニア以降の歴代NWA王者でサンマルチノと対戦した経験を持つのはレイス以外では馬場のみである
NWAの総本山で実現した美獣と人間発電所の対決。ジュニア以降の歴代NWA王者でサンマルチノと対戦した経験を持つのはレイス以外では馬場のみである

この時点では、王座に就て以来まだ三週間程しか経っていなかったレイスだが、リング上では堂々たる試合ぶりで60分フルタイムのプロレス絵巻を披露、広い館内を埋めたファンを堪能させただけでなく、当時のNWA会長サム・マソニックの全幅の信頼をも勝ち得たという。*1)


 若手時代から両腕に施された入れ墨、白く脱色されたカーリーヘア、そして1970年代初頭限定で履いていたサイケデリックなトランクス…四年三ヶ月に渡り王座に君臨した前チャンピオン、ドリー・ファンク・ジュニアと比べるとレスラーとしてのタイプは異なるものの、対戦相手をリードしつつ、会場の空気を見ながら、ファンの期待に沿うような試合を作り上げていく、NWA世界王者に求められる器量と手腕は既に十分に身についていた。加えて二ヶ月弱で45ものタイトルマッチをこなす驚異的なタフネス…この時の「精勤」ぶりが、四年後の1977年から始まる長期政権に繋がったことは間違いないだろう。


このように総括してみると、ジュニアとブリスコを繋ぐ57日間は、レイスのみならず、その後のプロレス界全体にとって、極めて重大かつ濃密な意味を持っていたことが改めて窺い知れる。


 一旦横綱に昇り詰めたら、後は優勝を重ねるかもしくは引退かを常に問われる大相撲と違って、プロレスには前(元)王者として、王座転落後も永いキャリアを重ねつつ、又チャンス次第でカムバックを狙うという「猶予期間」がある。


この「ゆとり」と「あそび」はプロレスというジャンルに裕かな彩りを与える大切な要素であると共に「レイスの五十七日」は「大河ドラマ」における秀逸な予告編となっていた事に、今更ながらに思い至った次第である。


*1)G-Spirits Vol.57 特集「NWA」p18

 
 
 

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