昭和42年8月14日、難波にあった大阪球場でのスナップ写真
忘れもせぬ昭和46年12月9日、中学2年の期末試験の最終科目である数学の試験も終わり、さあいよいよ級友たち数十名と胸をときめかしながら難波に向かった。大阪府立体育会館に到着し、その張り紙を目にしたとたん膝から崩れ落ちてしまうほどの衝撃を受けてしまった。「本日、世界選手権に出場予定のアントニオ猪木選手は右輸尿管結石症の為入院致しました。悪しからずご了承ください。尚、選手権に坂口征二が挑戦決定いたしました」この1枚の張り紙が中学残りの1年のやる気を私から削ぎ一気にモチベーションが下がってしまうことになってしまった。あまりにも悲しくて涙しながらこの張り紙を剥がし家に持ち帰り、翌日学校の教室の後ろの掲示板に貼りこの悲しみを担任の先生と同級生に知ってもらおうとした記憶が鮮明に蘇る。ただ、その時点ではその張り紙の言葉を鵜呑みにし、猪木さんは病気さえ治れば、日本プロレスのリングに復活し再びNWA王者であるドリー・ファンク・ジュニアに再度、挑戦してくれると信じていた。
★昭和44年12月2日大阪府立体育会館で行われた伝説の試合(ドリー・ファンク対猪木)
ところが事態は急変し12月13日に日本プロレス側は記者会見を開いて「アントニオ猪木の除名」を発表した。猪木はどうなってしまうのだろうか?「アメリカに活躍の場を求めて単独で行ってしまうのだろうか?」「ひょっとして国際プロレス吉原社長に頭をさげ入団するのだろうか?」「できたら日本プロレスともう一度、膝を突き合わせ話しをして復帰して欲しい!」など自分のことよりアントニオ猪木のこれからの動向に常に思いを馳せていた。
12月14日、猪木は木村昭政氏(腹心の経理士)と共に反論会見を開いたが、お互いの溝はますますひろがり日本プロレスとアントニオ猪木の対立問題でリング上に夢をみていたプロレスファンはどんどんと置いてゆかれる状況になった。
あのまま1971年の日本プロレスが波風もなく無事に最終戦を無事に終えていたら、アントニオ猪木の活躍は全盛期に向けさらに加速し人気も最高潮を迎え、猪木時代を迎えていたのは間違いなかった。
事実、既に翌年の新春チャンピオンシリーズのメンバーが発表されており、1月5日の名古屋・愛知県体育館において昭和41年の第8回ワールド大リーグ戦で活躍し、6年ぶりに来日する現役のWWWF認定ヘビー級チャンピオン(前年メキシコで行われたNWA総会でWWWFはNWAの配下となり地区王座に成り下がる)であるペドロ・モラレスの挑戦をアントニオ猪木が受けることも発表されていたのだ。さらには翌シリーズには美獣ハンサム・ハーリー・レイスがシリーズのエースとして参戦。今や夢の対決として語られることが多いレイスとのUNタイトルを賭けたシングル戦の大一番も仙台は宮城県スポーツ・センターで実現していたろう。まだまだ猪木ファンの夢が大きく広がり名勝負がどんどん生まれるはずであった1972年だったのだが、この事件により新春からどんよりしたプロレスファンのまさにどん底の暗黒時代がスタートした。
そう、その思い出したくもない時代は1972年1月から1973年3月までの約1年2ヵ月も続いた。
★ラテンの魔豹ペドロ・モラレス ★美獣と呼ばれていた頃の ハンサム・ハーリー・レイス
私にとっては高校受験前の大切な時期であったが、それまでの3年間は日本プロレスをそしてアントニオ猪木の活躍を楽しみの糧として勉学に勤しんできたが、中学における最終年はひどいものだった。
当時、大阪の第6学区内に位置する校区に通学していたが、中学2年の頃は担任の先生からかなり上の高校を狙えるとのお墨付きをいただいていたが、猪木の日本プロレス追放のニュースを聞き、急にカーブを描くように学力が低下。逆に言えば、よほど日々の生活や勉学においてプロレスにアントニオ猪木に依存している部分が多かったのである。
ではこの暗黒の時代とは自分にとってはどんな時代であったかプロレスのそしてアントニオ猪木の歴史とともに振り返ってみたい。
猪木追放事件の翌年、老舗である日本プロレスはアントニオ猪木が抜けた穴など坂口や新鋭である高千穂他でカバーできると思っていただろう。
ところがNWAを通じてスター選手を数多く呼び、これまでのようにシリーズを開催してゆくが観客動員や視聴率で大苦戦。実際1972年1月5日大阪府立体育会館に観戦しに行ったジャイアント馬場対ボボ・ブラジルのインター・ナショナル選手間試合は2階席も空席が目立ち日本プロレス全盛期であるBI砲が活躍していた頃の半分の観客。いかにこの頃アントニオ猪木の人気が絶頂だったということが直ぐに証明された。
この大阪ではさらに追い打ちをかけるような事件が起こる。がらがらの体育館ゆえ、中学生である私は強面のおっちゃんが座る椅子をすり抜け、篠原リングアナウンサーの横まで進みプロレスを観戦していた。メインのインター・ナショナル選手権試合において19分経過した当たりから篠原リングアナウンサーが机上で作成していた鶴の折り紙をリングに向け投げる姿をみたのである、1羽目はリングに着地したがレフェリーの沖識名が見逃す。そして2羽目もリングにスローイン、それをレフェリーが拾い上げるや否やジャイアント馬場がボボ・ブラジルにフォールされる衝撃場面を見てしまった。親からプロレスの事を色々批判されてはいたが目の前でその事実を見た衝撃は強烈であったことも特筆する。
その後、第14回ワールド大リーグ戦もジャイアント馬場が優勝という結果に終わり、ここで期待の坂口征二を初優勝させておいたら、まだ少しはプロレスファンの活力剤になったかもしれない。さらにテレビ局戦争も激化し、かねてからNETからのアントニオ猪木を再び戻し電波に乗せたいという要望に対し、やってはいけない回答で対応、そう日本プロレスは日本テレビのエースであるジャイアント馬場の放映をNETに対し許可してしまったのだ。このことから日本テレビは長年放送していたテレビ放映を打ち切ると宣言。当時のNETもプロレスファンも日本プロレスの対応は望むところでは無く、アントニオ猪木を日本プロレスに復帰させて欲しいのが本音であった。同じ週に馬場プロレスを2度みてもトキメキすらない。
ますます泥沼化する日本プロレス界。その後もマット上では魅力なき時代がどんどん押し進む。昨年末BI砲が失ったインター・ナショナル・タッグ王者(札幌でBI砲がファンク兄弟に破れる)をジャイアント馬場&坂口征二組がロサンゼルスまで飛び奪還。いわゆる“東京タワーズ”と呼応される。これは後の新日本プロレスでタッグを組み北米タッグ王者として防衛記録を伸ばした坂口征二&ストロング小林組と雰囲気が似ており、当時ワァー又、大阪は北米タッグ戦やで・・とがっかりしたもので、剛と剛のプロレスは剛と柔のタッグに比べると全く面白味が無いのである。それゆえBI砲(ジャイアント馬場&アントニオ猪木)は最高であった。
追い打ちをかけるように日本テレビとの義理からジャイアント馬場も日本プロレスから独立し全日本プロレスを立ち上げ4団体がひしめく戦国時代に突入する。
1枚のチケットで分裂前は日本プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスの全レスラーを見れていたのに今後はそれぞれのチケットを購入しなければ各プロレスが見れなくなることに残念感が覆いかぶさってきた。まして中学生や高校生においては少額のおこずかい制でありプロレスは親に頼んでやっとチケットを購入してもらう時代であったのだ。
その後も日本プロレスは大物外人であるミル・マスカラスやジョニー・バレンタイン。ザ・シークを投入するも日本陣営に魅力なくどんどんファンは離れてゆくのが手に取るようにわかる。
★ジョニー・バレンタイン(上)
★ミル・マスカラス(右上)
★猪木が去った日プロ(右下)
この年の第3回タッグリーグは参加外人も日本陣営もひどいもので大阪府立体育館は閑古鳥が鳴く状況。この頃は雑誌を見る程度で高校受験も控えている中、生観戦しようとは全然思えなかった。そして日本プロレスは最後の力を振り出そうと、年末のインター選手権シリーズにおいて豪華メンバーを集めた。元インター・ナショナル王者であるボボ・ブラジル、ジン・キニスキーの両巨頭に加えザ・ストンパー、キラー・カール・コックスとかつては各シリーズのエース級を一同に集めたのだ。それにもかかわらず日本チームは手薄であり、以前は日本プロレスナンバー3であった大木金太郎が満を持して強敵ボボ・ブラジルとのインター・ナショナル選手権決定戦2連戦に臨んだ。初戦の横浜では反則で敗れた大木は、その復讐とばかり広島での挑戦において、なんと決勝の3本目は隠し持った凶器攻撃でブラジルをKOして第9代の新王者になる始末。プロレスファンとして心から喜ぶこともでき無いありさまが目の前で展開されてゆくのである。さらに年が明けるや大安売りのオール覆面シリーズの開催、そして坂口が水面下において新日本プロレスのアントニオ猪木と手を組むことが公になるや、すでに崩壊寸前の日プロは残った日本陣営にうまくタイトルを嵌め込むがごとく、まだタイトルホルダーの資格もない連中にベルトを受け渡してゆくのだ。
昭和48年3月2日、横浜大会で既に新日本に行く決心をしていた坂口がジョニー・バレンタインに破れUN王座を明け渡し、3月8日の佐野大会で高千穂明久があのジョニー・バレンタインを破り第9代王者へ。これってなんやねん!あの猪木とバシバシに戦っていた強いバレンタインはどうしたんや!などもうプロレスに対し不信感が充満。当然のようにアントニオ猪木と吉村道明が強豪相手に防衛戦をしていたアジアタッグ王座もグレート小鹿&松岡巌鉄組へ、幸いにもインター・タッグ王座は4月18日の日本プロレス最後のシリーズの焼津大会で、当時の大木&上田馬之助組をF.V.エリック&K.K.クラップ組が破り海外へタイトルを流出してくれた。あれほど栄えてファンをときめかしていた日本プロレスの奈落ぶりには愛想が尽きた。ただ自分の心の片隅には常にアントニオ猪木プロレスと猪木とドリーとの決着戦を夢見て・・・・いたのが唯一の心の支えであった。
★1973年3月3日、G小鹿&松岡巌鉄がアジアタッグ王者へ ★新鋭高千穂明久の雄姿
もう一つの老舗、国際プロレスにおいて日本プロレス解体劇は飛躍の大きなチャンスであったはずであった。その一端は第4回IWAワールド・シリーズに垣間見られた。その外人参戦メンバーが凄いの一言、前年優勝者であるモンスター・ロシモフ、そしてドン・レオ・ジョナサン、バロン・フォン・ラシク、ホースト・ホフマン、ジョージ・ゴーディエンコ、テイト・コパ他日本プロレスの第14回ワールドリーグ戦を上回るメンバーを集めた。さすがに心が揺れ動き水曜日の19時から始まるオープニングのテレビ中継においては、同時刻に英語の塾にゆかねばならなかったが選手の入場式だけでも見たく10分ほど遅刻した思い出が蘇る。それほど凄いメンバーにもかかわらずやはり日本人エースの弱体化はどうしても魅力が半減してしまう。この年はストロング小林がモンスター・ロシモフを破り初優勝。その後のトキメキに期待はしたが、日本プロレスに参加経験あるビル・ミラーやバデイ・オースチン、ビル・ドロモ他の参戦が続き外人メンバーも弱く下降線をたどる。年末に大勝負にはあのデイック・ザ・ブルーザーとクラッシャー・リソワスキーの極悪タッグを呼びタッグ戦を目玉にシリーズを行う。全盛期のブルクラに比べ髪型もGIカットから普通の髪型になり見た目の迫力は減、名古屋でのS小林&G草津との日本初の金網タッグWWA世界戦はルールの解釈が両チーム、観衆に行き届いていなく暴動がおこる始末。豪華外人を投入するも頭一つリードできない国際おプロレスの苦闘は続いていく。国際プロレスにおいてはどうしても会場まで足を運ぶ魅力がなく、カード次第でテレビ観戦するぐらいであった。
★怒涛の怪力 ストロング小林 ★金網の鬼 ラッシャー木村
そして日本プロレスから独立して全日本プロレスを立ち上げたジャイアント馬場は日本テレビとNWAをバックに大物外人を呼び順風満帆のスタートを切る。当時のファンは、確かに日本プロレスで外人大物レスラー達と名勝負を展開してきたジャイアント馬場ではあるが、既に全盛期を過ぎた馬場が、かって激戦を交えたオールド外人レスラーとの思い出の試合を再現させるぐらいとの感覚でとらえており、勝負論ではなく名映画を見てるような気持ちで魅力は感じえなかったのが事実。即席で作ったPWF世界ベルトにも説得性もなく。ただ晩年の大物外人レスラーを見れることだけが唯一の楽しみであった。
私においては、この大物外人レスラーもいずれは年齢とともに弱ってゆき、今はNWAを盾に有名レスラーを呼んでいるが、将来的には全日本プロレスはどんな展開でこの問題を乗り越えてゆくのだろうとファンなりに危惧していたのも事実である。近代プロレスラーであるドリー、ブリスコ世代はまだ大丈夫であるが、それ以前の大物レスラー達は徐々にその精彩を欠いてゆき始めてはいた。実際、ジン・キニスキーが1979年4月参戦した時にはジャンボ鶴田のUN王座に挑戦予定であったが、あきらかに体力も弱りコンデションも悪く若手のマイク・シャープ・ジュニアに挑戦権を譲っている。
この時代において全日本プロレスに参戦していた大物レスラーの一人でもアントニオ猪木率いる新日本プロレスのリングに上がってくれたらどんなに素晴らしいプロレスが見れるのだろうと常に思いめぐらしていた。この低迷期において唯一、友人と第1回チャンピオン・カーにバルのシリーズの大阪大会(4月24日)においてUS、南半球両ヘビー級選手権、ザ・デストロイヤー対マーク・ルーイン戦、PWF世界ヘビー級選手権試合ジャイアント馬場対ザ・シーク戦のダブルメインが決まり、久々大物外人レスラーを見に行こうと高校入学の矢先であったが計画していたが、当日友人が急に行けなくなり涙したこともあった。(まだ一人でプロレス会場にゆけない時代であった)これがこの低迷期に唯一心躍った全日本プロレス大会であったような気がする。
★当時の全米で活躍するスター選手は全日本プロレスが掌握していたといっても過言でない。
(上から フリッツ・フォン・エリック、ザ.・デストロイヤー、キング・イヤウケア、アブドーラ・ザ・ブッチャー、マーク.・ルーイン)
そして唯一、心の支えであるアントニオ猪木率いる新日本プロレスはテレビも無し、ネームバリューのある外人レスラーの参加も無しに喘ぎまくっていたが、いずれアントニオ猪木はそのレスリング魂、レスリング技術を持って日本のプロレス界をリードしてくれると信じプロレスを見続けていた。他の3団体はそれぞれのルートで大物外人を呼びそれなりの観客を集めていたようであるが、新聞発表などの数字とは大きくかけ離れていたことは後で知る。そらそうである幾らテレビ局がついていようが、日本プロレスのゴタゴタ、エース無き国際プロレス、懐メロ的全日本プロレスに何を求めていいのだろう?ファンももがき苦しみ、夢無きファンはプロレスというジャンルから去り新しいジャンルに活路を見出し始める。
私も中学3年の受験期から新しく入学した高校2年の春までは本当にプロレスに夢を求めても返ってこない暗黒の時代であった。正直、この時期学校でプロレスの話題などするものなら、フーンの一言で終わってしまう雰囲気であった、2000年に入りアントニオ猪木が格闘技に夢中なり新日本プロレスが低迷しプロレス最強説も地に落ちたあの時代よりも重くそして暗い時代であった。それでもアントニオ猪木プロレスと猪木対ドリー再戦を夢見て・・・
1972年3月6日大田区体育館で旗揚げした新日本プロレスは苦戦していた(同年大阪大会)
ここでアントニオ猪木をこの暗黒の時代を境として大きく時代別(”若獅子”から”燃える闘魂”へ)に分けて振り返ってみる。
昭和43年暮れのシリーズ、ブルート・ジム・バーナードと乱撃戦を繰り返し、11月29日北海道・室蘭市富士鉄健保体育館からテレビで生放送された時のNWA世界チャンピオンであるジン・キニスキーとの一戦において破れはしたがアントニオ猪木の大きな飛躍につながった思い出の一戦である。そしてファンもジャイアント馬場の域に近づいたと認識した闘いであった。
★対ブルート・バーナード戦、ジン・キニスキー戦頃から急浮上し始めた猪木のファイト
翌年1969年のアントニオ猪木は大躍進してゆく、カール・ゴッチを師と仰ぎ次々に開発されてゆく新時代プロレスの技の数々、卍固め、スピニング・バックブリーカー、極めつけはジャーマン・スープレックスこれらの技を駆使し、ダニー・ホッジ&ウイルバー・スナイダーとのインター・ナショナル・タッグ選手権を争う攻防、クリス・マルコフを破り第11回ワールド大リーグ戦初優勝、全盛期であるデイック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーの”ブルクラ”との一進一退の攻防、当時の超一流選手ザ・デストロイヤー、フレッド・ブラッシー、スカル・マーフイらと対戦していても同等いやそれ以上の輝きがあった。
昭和44年4月16日、あの人間台風ゴリラ・モンスーンを打ち破る。(大阪府立体育会館)
そして極めつけは年末に第46代NWA世界ヘビー級王者であるドリー・ファンク・ジュニアが来日。その王座に初めて挑戦する機会を得、これまで見た事のないすばらしいレスリングの攻防をリングで見せ大観衆を興奮の坩堝と化した。ジャイアント馬場のダイナミックなレスリングよりアントニオ猪木の緻密なレスリングセンスがプロレスファンに喝采されてきた。
★超一流のスリートが阿吽の呼吸で技を繋ぎ、紡ぎ合った60分フルタイムの最高芸術
その後、2年間はNWAの大物たちとの対戦が普通におこなわれた若獅子の全盛期を迎える。ボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリック、ドン・レオ・ジョナサン、キラー・カール・コックス、テリー・ファンク、ニック・ボックウインクル、ジョニー・バレンタイン、ザ・ストンパー、ミル・マスカラス、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジャック・ブリスコ、キラー・コワルスキー、デイック・マードックと70年代を支えてゆく同タイプのレスラー、一世を風靡したベテランレスラー他あまりにも対戦相手が豪華すぎる。
★黒い魔人ボボ・ブラジル戦 ★夢の対決!ニック・ボックウインクル戦
この時代の名勝負はほぼNWA大物レスラーとの対戦で構成されている贅沢すぎる時代。ここが”燃える闘魂”時代と大きく異なる。そして対戦相手にあわあせオーソドックスなレスリングもラフファイトでも対応できるすべをこの時代に完成させている。さらに対戦相手の変化である、1960年代後半頃はあくまでキャリアの長い大物レスラーに胸を借り挑むような時代、そして1970年代に入ると、同年代のドリー・ファンクを始めハリー・レイス、ジャック・ブリスコらとの技巧派との攻防が若獅子アントニオ猪木にとってはそれまでの一発必殺技を引っ提げた大物レスラーとの対戦から、やっとライバル視できるレスリングのできる相手に出会った喜びで、水を得た魚のように心地良くリングで戦っているようにファン目線でも感じ得た。
同じような体系。スリリングなカウント2.9の攻防とこれまで見た事の無かった未来のプロ・レスリングに若獅子ファンはアントニオ猪木に日本のプロレスを託したものだ。既に新しい時代のプロレスはアメリカでスタートしていた。そのレスリングに対応できる唯一の日本人レスラーがアントニオ猪木なのだ。ジャイアント馬場もそのダイナミックなレスリングで一時代を築きあげてきた、そしてそのバトンを猪木が継ぐのだと・・しかしその夢はプロローグに書いた事件によりもろく崩れ去る。
★この試合はプロレス新時代へ移り行くヌーベルバーク的な試合となる
暗黒の時代を耐え忍び、そして”燃える闘魂”の時代を再びリング上で見ることができた”若獅子”ファンは暗く長いトンネルからやっと解放された安堵感、それからの期待感に包まれた。
逆にいえばこの暗い暗黒の時代を知らなく、ダイレクトに”燃える闘魂”ファンになったファンはホントに幸せだと思う。多くの”若獅子”時代からのファンは暗黒の時代の到来によりプロレスを卒業してしまったからだ。
ただ、彼らはプロレスに興味を持た無いまま、学校を卒業し企業に就職し新たに社会人としてスタート、”24時間戦いますか!”のキャッチ・コピーそのままに、深夜残業が当たり前の時代にサラリーマンになった元若獅子ファンは、ふとテレビのチャンネルを回し、あの昭和の巌流島、アントニオ猪木対ストロング小林戦をみて、かつて自分を勇気づけてくれたあの青春時代のヒーロー、アントニオ猪木を再び追続ける事になった話も良く耳にする。
アントニオ猪木率いる新日本プロレスは1973年の春、坂口と合流することによりNETテレビが付き、ようやく軌道に乗りはじめた。私はその後、宿命の敵であるタイガー・ジエット・シンとの抗争、そして世界最強タッグ戦(猪木&坂口対ルー・テーズ&カール・ゴッチ)、ジョニー・パワーズから猪木がNWF世界王者奪取し、日本人大物対決(対ストロング小林、坂口征二、大木金太郎戦)から1975年末の夢の対決ビル・ロビンソン戦までが”燃える闘魂”アントニオ猪木の全盛期と私は思っている。
★死神パワーズからNWF世界ベルトを奪取 ★猪木&坂口のコンビは魅力的であった
そうプロレスラーアントニオ猪木としての”若獅子”時代は「1968年の12月から1971年末」の3年間、そして”燃える闘魂”時代の全盛期は「1973年10月頃から1975年年末」の2年余りという短い間であるが前者はバッドエンド、後者はハッピーエンドで終わりその後も多くの話題を振りまきながら大河ドラマのようにファンを喜ばせ続けていった。
私は”若獅子”時代の印象が強いのである。これは私がプロレスを好きになった時代がそうさせるであろう。プロレスを好きになった頃は純粋に多くの雑誌や新聞を読みあさり多くの知識を得、満足できなくなると親に連れられプロレス会場に始めて行き、その後は友人達と数多くプロレス会場に足を延ばす。そしてその時々の日付やその日の試合カードまで明確に脳裏に残る程思い出深いのである。
これはアントニオ猪木の”若獅子”時代であろうが、“燃える闘魂”の時代であろうがプロレスを好きになり純粋にプロレスを見ていた頃の猪木ファンの共通項であろう。
2022年10月1日にお亡くなりになった不出生のレスラー、アントニオ猪木。今、自分たちが好きになり憧れたアントニオ猪木を年齢に違いはあるが、お互いにその素晴らしき時代を語りあい、そして語り継ぐのが今後も猪木ファンとしての猪木さんへの供養となろう。
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