7月19日トークイベント★12.11興行戦争とは何だったのか? 追記号
- Toshiyuki Fujii
- 7月28日
- 読了時間: 5分
更新日:8月2日

酷暑の中、京都ホホホ座でのトーク・イベント12.11興行戦争とはなんだったのか?~全日・国際連合「力道山十三回忌追善」対新日本「アントニオ猪木対ビル・ロビンソン」
~にご参加頂き本当に有り難うございました。おかげさまでフルハウス30名になりイベントを大いに盛り上げてくださりました事、感謝申しあげます。
ただ、館内のクーラーが熱気に追いつかず、かっての旧大阪府立体育会館状態になり皆様に不快な状況でのイベントになりました事をお詫びします。
今後、イベント開催の季節を選ぶか大阪に進出するかなどを検討してゆきたいと思います。
今後ともどうぞ宜しくお願いします。

今回のイベントで1975年末、とういう中での興行戦争は観客動員では引き分け、インパクトとういう面では花相撲的な力道山十三回忌興行に対しアントニオ猪木がロビンソンとの闘いを力道山先生への供養だと発した通り、この試合は今でも昭和プロレスファンの胸に熱く思い出として残り、多くの猪木イベントにおいても語られ続く名勝負であります。
ただ、アントニオ猪木さん本人はこの試合の事を聞かれるとあまり多くの事を語らないのである。
多くのレスラーと対峙してきたアントニオ猪木は、”でくの坊”的なレスラーでも相手の力を10までださせ自らはそれ以上の力で仕留めるという流儀で戦ってきた。
ただ、この日は、あのランカシャー・レスリングを習得し、アメリカのAWA圏でバーン・ガニアの元アメリカン・プロレスとを融合させたプロレスでその地位を全米で確立させた最強の相手ビル・ロビンソンであった。
そのビル・ロビンソン自身も最初のスタートがAWA圏であったのはラッキーではあった。アメリカンプロレスのメッカであるWWWFやNWA圏でのスタートであればCACCでの技術を全面的に出せなくオーバー・アクションのある意味、悪いアメリカン・プロレスに同化していたかもしれない。
当時、AWA圏はバーン・ガニアがレスリングのオリンピック代表選手からのプロレス転向だったこともありレスリングのできるバロン・フォン・ラシク、ラーズ・アンダーソン、クリス・テイラー・ブラッド・レイガンスら、重量挙げのケン・パテラがいた。そしてプロレスラー養成所「ガニア・キャンプ」においてロビンソンやコシロ・バジリが指導者となり新人選手を育成していたという環境もロビンソンには適していたのであろう。

そんなヨーロッパレスリングにアメリカンプロレスを融合したロビンソンとの一戦においてもアントニオ猪木はロビンソンが繰り出す技を受けながらもそれ以上の力と培かってきた技でロビンソンを打ち負かそうとするが、あまりにもロビンソンのスキルが高くかなり苦戦しているのは当時のファンでも試合の流れの中で垣間見たであろう。
この試合は高度すぎて、一つ一つの細かい攻防までは素人目にはわからない事が多かったが、今回のライレージム京都の松並さんの生徒とのリアルな技の説明で細かい二人の技の攻防を知ることができた。
そして、通常のレスラーなら簡単に投げられ、ギブアップしている場面においてもアントニオ猪木の体の柔らかさが尋常でなかったというのも理解できた。
試合の流れはビル・ロビンソンが作りアントニオ猪木は精神面で負けてはいなかった。
ただ、ロビンソンが通常のレスラーでは無かった故、猪木も最初に言ったように相手の技を受けそれ以上の力で制することが、そして相手をコントロールすることができなかったことで自分が描く試合が出来なかったこと故、アントニオ猪木はこの試合の事は多く語らないのであろう。
アントニオ猪木はこのロビンソン戦の後、インタビューでその後のプロレス界を案じる事を述べられている。敢えてここに記述したい。「もともとアメリカでも日本でもロビンソンがやったみたいなプロレスの方が異質だったのです。特に日本のプロレスは力道山が空手チョプでバン!バン!ってカッコよく相手をなぎ倒す事からスタートしてる。俺がやってたような持久戦でじわじわ攻めてゆくというプロレスが珍しかったのです。ある意味そういうプロレスをファンに提供して教育していった部分もありましたね、まあ最終的にファンが受け入れなければ成立しなかった訳ですが。
それがまたいつの間にかそういう試合が消えてしまって。大技もいいんだけだ、観客の派手さの要求に無条件に答え始めたら際限がないし、そればかりに一生懸命になっていたら
最後はサーカスですよ!何回宙返りした方が偉いかとかね。
でも、そういうものは最初は観客もびっくりするけど直ぐに飽きられてしまう。
本来。観客が見たがっているのは闘いであって、戦いの原点は強さですから!結局、強さの表現というのは、一つ一つの技にこめていくものですから。」
まさにこのアントニオ猪木の言葉は、プロレス生命をかけたビル・ロビンソン戦を見ることで体現でき納得する。
最後に猪木ドリー戦研究家として、敢えて最後に着け加えておきたい。

オープン選手権に出場していたドリー・ファンク・ジュニアは、ラフのアブドーラ・ザ・ブッチャー、力のドン・レオ・ジョナサン、技のホースト・ホフマン、アメリカン・スタイルのハーリー・レイス、と名勝負を行い、御大ジャイアント馬場をも破った力と技と元NWA王者だったというプライドを持ち合わせていた最後の全盛期であったと断言する。(オープン・タッグ選手権からはテリーの子守り役になってしまう)
そう、このタイミングにおいて日本代表のアントニオ猪木とヨーロッパ代表のビル・ロビンソン、そしてアメリカ代表のドリー・ファンクが三つ巴で戦い、世界一を決めても誰も依存は無かったと思う。





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