前回ご紹介したアルバカーキ版WWA王座の、その後の変遷について記したい。添付の記事は1964年10月3日付けのアルバカーキ・トリビューン紙からの抜粋で、二日後の10月5日に同地で行われる試合カードについて報じたもの。メインはフレッド・ブラッシーがドリー・ファンク・ジュニアの挑戦を受けるWWA選手権試合となっている。
この時点でアルバカーキ版王座はムース・ショーラックからブラッシーへ移動している様子だが、
当の試合を報じた記事は存在するかどうか不明。アルバカーキでマッチメイクされた様子がない事から、この試合自体行われていない公算が強い。
ちなみにカリフォルニアにおける「WWA正史」を見ると、ブラッシーは1964年4月にディック・ザ・ブルーザーに敗れて王座転落、その後はデストロイヤーを経由して、10月の時点のチャンピオンはボブ・エリスであった。(11月にデストロイヤーがエリスに雪辱しカムバック)
アルバカーキに話しを戻すと、ブラッシーはファンク・ジュニアとの防衛戦に敗れ、ジュニアがWWA王座戴冠を果たす。そして翌11月にはNWA王者ルー・テーズと、WWA王者ジュニアの
「ダブルタイトル戦」が唐突に実現している。
プロモーター、マイク・ロンドンには「カードの出し惜しみ」という発想はないのか?、呆気にとられるようなダイナミックな展開だが、一方では64年の暮れから翌65年に至る流れを再び「正史」と照らし合わせると、それぞれに独自の流れが垣間見えて面白い。
例えば豊登は64年暮れにデストロイヤーを破ってWWA王者となる(*)が、それに先んじること約二ヶ月、ファンク・ジュニアが「裏チャンプ」となっていたことは、(当たり前の事だが)SNSの時代が到来するまで、永い間認識されていなかった。「裏」ではあるが、ジュニアは豊登の先輩だったのだ。
もう一つ、これは面白いといって良いかどうか分からないが、ジュニアの「戴冠」はあくまでアルバカーキ限定のニュースで、いわゆる"アマリロ・テリトリー"を構成するの他の街、エルパソ、ラボック、アマリロなどでは共有された形跡が全く見当たらない。
個々の街が、当地のファンに訴求するようなストーリー及びカードを組む,,,ケーブルTVの時代以前のテリトリー運営は、我々ファンが想像する以上に複雑極まりないものだった。これがアマリロ独自の慣習だったのか、他のテリトリーでも実情は大同小異だったのか…おそらく後者と考えるのが妥当だろう。
話しがあちこちに飛んでしまった。次回はアルバカーキ編の最終回として、テーズとジュニアの「統一戦」の詳細について触れたいと思う。
(*)豊登のWWA王座戴冠は「正史」の中で認定されていないという説もあるが、ここでは日本のファン史観に基づいて、豊登を正規のタイトルホルダーとして記した。
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