名物プロモーター、マイク・ロンドンの仕切るニューメキシコ州アルバカーキにおける「外伝」的なプロレス史について、前回に引き続き記していきたい
カバーの写真は、1963年2月23日付けアルバカーキ・トリビューン紙に掲載された記事の抜粋である。翌々日の25日シビック・オーディトリアムで行われる試合カードが網羅されているが、記事左下にあるショーヘイ・ババと「WWAチャンピオン」ムース・ショーラックの対戦が目を引く。
ショーラックがこの時期「世界チャンピオン」を名乗っていたという話しは初出ではない。前年(1962年)に日本で「力道山を破り奪取」したというベルトをシカゴではIWA、アルバカーキではWWA王座として使い分けていた様子で、それぞれに該当する試合記録がある。
ショーラックは1962年に日本プロレスが開催した「秋の国際大試合」に初来日、9月から11月にかけ長期に渡り各地で試合を行っている。開幕戦(9/14)ではスカル・マーフィーが力道山を負傷(右胸鎖関節脱臼)させた試合に乱入、ボディ・プレスをお見舞いし、欠場に追い込んでいる。
シリーズ終盤には力道山とのシングル戦が2回組まれた(11/2リキ・パレス、11/9那覇、那覇の試合はインターナショナル・ヘビー級王座戦)がいずれも敗れている。
アルバカーキのショーラック-馬場戦だが、記録を見る限り、結果は「馬場の勝ち」しかしタイトルが移動した形跡はないため、ノンタイトル戦だったと思われる。翌月の3月11日には同所で再戦(「WWA世界ヘビー級選手試合」)が行われたが、この時はショーラックが雪辱を果たし「王座防衛」に成功した。
余談だが、馬場のニューメキシコ遠征はこの63年2月から3月にかけての連戦が初めてだったと思われる*
第一試合には、この年1月にデビューしたばかりの
ドリー・ファンク・ジュニアが2月、3月と続けて出場。馬場との初対面はこの時だった筈である。
ショーラックとの再戦の後、カリフォルニアに戻り4試合をこなした馬場は、第五回ワールド・リーグ戦に参加のため、第一次米国武者修行を終えて帰国の途につく。その直前に、ファンク・ジュニアとの初顔合わせが実現していたというのも、後年の二人の縁の深さを思うと興味深い。
同じく「縁」と言えば、ニューメキシコでの試合から16年後の2月、真冬のシカゴでブッチャーの保持するPWF王座奪回戦に挑む馬場のトレーニング・パートナーを務めたのが、ムース・ショーラックだったことも、浅からぬ因縁のなせるわざと言えるかもしれない。
余談が長くなったが、アルバカーキにおけるWWA王座史は、その後も独自の変遷を遂げる。
カリフォルニアにおける「正史」と比較するのも
一興なので、次回以降も取り上げてみたい。
[参照記事・記録]
*馬場の自著「個性豊かなリングガイ達」の中では、昭和36年(1961年)にアルバカーキに初遠征したと書かれているが、同年の試合記録には残っていない。
・ショーラックの「世界王座戴冠」については
「The Great Pro Wrestling Venues: Japan, The Rikidozan Years」より
・試合記録はいずれも、wrestlingdata.comから引用
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