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疾風怒濤の荒法師

  • Satom
  • 4月26日
  • 読了時間: 7分

更新日:4月27日

1960年代に入り、レスラーとして全盛期を迎えたキニスキーは、カナダを含めた全米規模で、その地位を不動のものにしていく。


しかし皮肉なことに、キニスキーにとって黄金の十年と総括してもよい1960年代は、物騒なアクシデントと共に幕を開けた。1961年の年明け早々、

1月3日にバンクーバーで行われたホイッパー・ビリー・ワトソンとの試合後、激昂したファンの一団がリングに雪崩れこみ、内一人が持っていたナイフでキニスキーの横腹を刺したのである。

試合後の事故の様子を伝える1961年1月4日付けNanaimo Daily News。試合は大英帝国ヘビー級王者ビリー・ワトソンにキニスキーが挑んだ一戦で、ワトソンが2-1で防衛を果たしている。見出しにある通り、"悪漢“キニスキーがカナダの大英雄ワトソンを相手にどんな凄い試合をしたのか、想像は尽きない
試合後の事故の様子を伝える1961年1月4日付けNanaimo Daily News。試合は大英帝国ヘビー級王者ビリー・ワトソンにキニスキーが挑んだ一戦で、ワトソンが2-1で防衛を果たしている。見出しにある通り、"悪漢“キニスキーがカナダの大英雄ワトソンを相手にどんな凄い試合をしたのか、想像は尽きない

会場から直行した病院で治療を受けたキニスキーだったが、幸い傷は浅く入院はせずに済んだ。この事件の四日後の1961年1月7日に次男のニックが誕生、まさに波乱含みの1960年代のスタートであった。


ちなみにこの日の相手だったビリー・ワトソンはキニスキーのレスラー生活において最も多く対戦した選手で、ネットの記録を見ると、シングル・タッグ合わせて実に250回もぶつかっている。


初対戦が1956年、最後の顔合わせが1968年なので、そのライバル関係は足かけ13年にも及んだ。

年齢的にはワトソンが11歳年長で、上記の初対決(1956年8月16日)はワトソンの保持するNWA王座にキニスキーが挑んだ世界タイトルマッチだが抗争の終盤には逆にワトソンがキニスキーのNWA王座に挑戦している。カナダを代表するタフガイ同士の対決は、地元のファンを熱狂させたに違いない。

1959年10月15日カナダのニュー・ブランズウィックで、大英帝国ヘビー級王座を賭けて対戦したワトソンとキニスキー。キニスキーには"キラー"の綽名がついている。心なしか風貌もコワルスキーに近い
1959年10月15日カナダのニュー・ブランズウィックで、大英帝国ヘビー級王座を賭けて対戦したワトソンとキニスキー。キニスキーには"キラー"の綽名がついている。心なしか風貌もコワルスキーに近い

冒頭の事故からほぼ半年が経過した1961年7月11日、キニスキーはミネアポリスでバーン・ガニアを破り、第3代チャンピオンの座に就く。1957年にエドワード・カーペンティアを破ってモントリオール版の世界王座を奪った実績に続く、二本目の世界ベルトであった。

1961年8月8日、キニスキーが前王者ガニアの挑戦を受けるリターンマッチを告知する、ミネアポリスの地元紙 Star Tribune。試合は金網デスマッチで行われガニアが王座奪還。キニスキーの在位は一ヶ月弱の短期に終わった。
1961年8月8日、キニスキーが前王者ガニアの挑戦を受けるリターンマッチを告知する、ミネアポリスの地元紙 Star Tribune。試合は金網デスマッチで行われガニアが王座奪還。キニスキーの在位は一ヶ月弱の短期に終わった。

この頃のキニスキーは30代前半、キャリアも10年を数え、北米マットを代表するトップレスラーの一人として、団体、テリトリーを問わず参戦のオファーがひきもきらず、名実ともに超売れっ子と

呼ぶにふさわしい存在であった。


その頃、北米のマーケットの中で最大の勢力圏を擁していたのは勿論NWAであったが、組織の内部では少なからず不協和音が昂じていた。当時のチャンピオンは'61年6月にパット・オコーナーを破って王座に就いたバディ・ロジャースであったが、フレッド・コーラーなど一部のプロモーターによるロジャース囲い込みが常態化したことで、他メンバーからの苦情が相次いでいたのである。


同年の総会でNWA会長となったコーラーは、間もなく「NWA解散」という驚くべき提案を行う。しかし、足枷となる組織自体を消滅させ、レインメーカーのロジャースを独占しようという意図が露骨に窺えたため他の会員が猛反発、空中分解こそ辛くも回避されたが、組織内の結束は一気に形骸化し、結成から十数年を経たNWAは深刻な危機を迎えていた。


翌1962年、コーラーに代わってNWA会長に就任したのは、当時アマリロ地区のプロモーターだったカール・サーポリスだった。年が変わってもコーラー派(ビンス・マクマホン、トゥーツ・モントら)によるロジャース囲い込み体制は変わらず、業を煮やしたサーポリスは、会長に就任する直前、ある意味で前年のコーラーに引けを取らない奇策を打ち出す。

レスラー時代のカール・サーポリス。リトアニア 移民の家庭に生まれる。1955年、ドリー・ディットンからアマリロ地区の興行権を引き継ぎ、ファンクシニアと二人三脚で同地区のプロモーターとして活動した。ルー・テーズは、生前のインタビューで、自身の得意技であるフライング・ボディ・シザース(テーズ・プレス)は、サーポリスが使っているのを見てレパートリーに取り入れた、と語っている。
レスラー時代のカール・サーポリス。リトアニア 移民の家庭に生まれる。1955年、ドリー・ディットンからアマリロ地区の興行権を引き継ぎ、ファンクシニアと二人三脚で同地区のプロモーターとして活動した。ルー・テーズは、生前のインタビューで、自身の得意技であるフライング・ボディ・シザース(テーズ・プレス)は、サーポリスが使っているのを見てレパートリーに取り入れた、と語っている。

サーポリスの奇策とは…何とロジャースを無視する形で独自のチャンピオンを認定したのである。王者として白羽の矢が立ったのは、他でもないジン・キニスキーであった。


当時の新聞をくまなくチェックした訳ではないが確認できた中で"世界チャンピオン・キニスキー" を最初に報じているのは、1962年3月28日付けのテキサス州ラボックの地元紙である。

当日ラボックで開催される、世界チャンピオン・ キニスキー対ダン・ミラーのタイトル戦の告知。(1962年3月28日Lubbock Avalanche-Journal紙)
当日ラボックで開催される、世界チャンピオン・ キニスキー対ダン・ミラーのタイトル戦の告知。(1962年3月28日Lubbock Avalanche-Journal紙)

上記の広告写真でキニスキーが腰に巻いているベルトは独自に製作したものだろうか? 写真の解像度が粗いが、デザインとしては初期のAWA世界選手権のベルトとは異なるように見受けられる。この時点で既に複数のシングル選手権を手にしていたキニスキーだけに、過去に獲得したタイトルのベルト姿が転用されている可能性もある一方、仮にオリジナルだとすると面白いのだが…。


さてこの時期、アマリロ地区以外のテリトリーにおけるキニスキーのステイタスはどうなっていたのか? 例えば地元のカナダでは「世界チャンピオン」を名乗っていなかったのかどうか、調べてみたが、都市により異なるようである。関連する新聞広告を、以下に二つご紹介したい。

バンクーバーの地元紙 The Province(1962年7月25日付け)に掲載された、7月30日エンパイア・スタジアムにおけるビッグ・マッチの告示。何とNWA 王者ロジャースがキニスキーの挑戦を受ける世界選手権試合。キニスキーの方は世界王者ではなく、太平洋岸チャンピオンとして紹介されている。
バンクーバーの地元紙 The Province(1962年7月25日付け)に掲載された、7月30日エンパイア・スタジアムにおけるビッグ・マッチの告示。何とNWA 王者ロジャースがキニスキーの挑戦を受ける世界選手権試合。キニスキーの方は世界王者ではなく、太平洋岸チャンピオンとして紹介されている。
1962年10月26日に開催された、キニスキーの世界王座防衛戦の広告記事。(Calgary Herald紙)挑戦者は「シャープ」とのみ記されているが、記録によると相手はマイク・シャープで、キニスキーが勝利
1962年10月26日に開催された、キニスキーの世界王座防衛戦の広告記事。(Calgary Herald紙)挑戦者は「シャープ」とのみ記されているが、記録によると相手はマイク・シャープで、キニスキーが勝利

少なくともカルガリー、アマリロの両地区においては、同時期にキニスキーを世界王者として認定していた様子である。


タイトルの権威という観点からすれば、複数の世界チャンピオンが同時期に存在するという事態は歓迎すべきものではないはずだが、奇しくもこの時期には上述のAWAに続き、インディアナ地区を地盤とするWWA王座が新たに誕生するなど、米マット界は混乱の時代に逆戻りした感がある。(この直後にはビンス・マクマホン(シニア)がNWAを脱退、WWWFを設立した)


NWA設立の最大の動機は、全国的に乱立していた世界ベルトの統一にあったとされるが、他方では

より現実的なメリットが絡んでいた事は否定できない。具体的には、巨大カルテルを結成する事で

対抗勢力を排除し、結果として自らのテリトリーにおける興行を円滑に行う事である。ところが、組織内の結束を強大にし過ぎた事で、結成後僅か数年にして、NWAは当局から独占禁止法への抵触を疑われるようになる。


このような事情により、1960年代前半の時点では(同一テリトリー内での興行戦争に発展しない限り)一定数の対抗勢力の併存、又それらが独自のタイトルを認定する事態についてはある程度黙認せざるを得ない状況となっていた事が推察される


又逆に見れば、複数のプロモーション及びタイトルが群雄割拠するほど、当時の北米マット界にはダイナミックな活気が満ち溢れていたと言えるかもしれない。この「混乱」を、石油ショックもヴェトナム戦争もまだ知らなかった時代のアメリカにおけるプロレス戦国絵巻の彩りとして捉えると、又違った景色が浮かび上がってくるように思う。それはある意味で、米社会の黄金時代を体現する姿でもあった。


さて上述の「世界王座」はその後どういった運命を辿ったのか? 次回はキニスキー編の最終回として、絶頂期の荒法師からタイトルを奪った意外な?挑戦者、新天地となる米国東部への参戦、及びキャリアの頂点というべきNWA世界王座戴冠について触れてみたい。


【参考文献】

・G-Spirits Vol.57 NWA-「世界最大のプロレス 

 組織」の実体を探る

・National Wrestling Alliance: The untold story

of the monopoly that strangled professional

wrestling

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