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昭和プロレス懐古 & 現代プロレスの原点ランカシャー・レスリング
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ほぼ
週刊 昭和プロレス
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山科で甦る!レスリングの原風景
1800年代中期から1900年代初期。炭鉱業で栄えたイギリス・ランカシャー地方。 そこは、現代プロレスやオリンピックレスリングの源流であるランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングの最盛期でもありました。 電気もない時代、荒々しい炭鉱夫たちの娯楽は、屋外でのレスリングとラグビー。そして子どもたちもまた、野原で取っ組み合いをして遊んでいました。 レスリングは一番のプロスポーツでした。 3月7日、山科の農園「Enjoy farm TRY」さんで開催される「畑で遊ぶday!」は、そんな原風景を思わせる一日です。 昨年、一昨年と開催し、いずれも大盛況。ほんの百数十年前までは当たり前だった屋外レスリングは、現代ではむしろ新鮮です。 広大な空間で競い合う迫力と臨場感 マットの上とは違う、自然の中での攻防 しかし、この日の真の主役は子どもたちです。 青空の下、土の匂いを感じながら組み合い、その横ではタグラグビーに挑戦する姿も。 それはまさに、ヴィクトリア時代ランカシャーの再現。 レスリングが子供たちの遊びに タグラグビーで全力疾走...

Riley's Gym Kyoto
2月23日読了時間: 2分


アントニオ猪木全国区デビュー夜明け前
馬場と猪木の熾烈なライバル心が燃え上がる 日本全国のプロレスファンにアントニオ猪木とういう名前が一気に浸透したのは果たしていつなのか? その長いプロレスリングヒストリーの中で模索し続けてきた。私が小学校の3年生の頃(昭和41年頃)、近くにある住吉公園で遊んでいる頃、上級生の6年生が砂場でプロレスごっこをしているのをみていたのだが、鮮明に彼らはジャイアント馬場の物まねをしている姿が印象に残っている。 ジャイアント馬場黄金時代の雄姿(昭和43年12月3日撮影) そう当時はアントニオ猪木の物まねをしている人はいなかった。 国民は、日本プロレスのテレビ放映においてはジャイアント馬場がエースとして外人の強豪達を倒す場面に一喜一憂しており、その頃の猪木はテレビ放映も付いていない東京プロレスで悪戦苦闘していた時代である。 アントニオ猪木は力道山にブラジルでスカウトされ、力道山道場3羽鳥(ジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎)として育つが、力道山亡きあと直ぐにアメリカに行き精神・肉体共に鍛えられる。そして凱旋帰国するはずであったが、ハワイで新団体を目論む
Toshiyuki Fujii
1月24日読了時間: 9分


★初来日シリーズ(秘蔵写真大公開)から探る二人の新鋭レスラーが歩んだ違った道【“美獣”ハーリー・レイスと“狂犬”デイック・マードック】
1979年5月7日:大阪東急ホテル至 レイスはアメリカよりこの日来日した。 1979年5月8日【全日本プロレス:千葉】において外人同士のNWA世界ヘビー級選手権試合が行われた。王者ハーリー・レイスが前日、大阪においてジャンボ鶴田を破っての連続防衛戦の相手は”狂犬”デイック・マードックである。 ① マードック(14分45秒 ブレーンバスターから体固め) ② レイス (20分46秒 ダイビング・ヘッドバット) ③ 時間切れ引き分け でレイスが王座を防衛した。 なかなかの好試合でジャイアント馬場、後には渕正信もこの試合を高く評価した。 日本のマットで世界最高峰のタイトルであるNWA世界選手権を賭けて戦った二人の一流レスラーが歩んできた道は大きく違えど、片やレイスは職人肌のミスター・プロレス、マードックは生まれ持っての天才肌レスラーと呼ばれていた。 ダイナミック・シリーズのパンフ 遡ること1968年2月に開催されたダイナミック・シリーズ(2月23日~3月23日)においてキラー・バデイ・オースチン、バロン・シクルナ、テネシー・レベル(マイク・パド
Toshiyuki Fujii
1月8日読了時間: 7分


昭和最後の最強タッグ
"降る雪や明治も遠くなりにけり"という句が詠まれたのは昭和六年(1931年)の1月。明治最後の年が45年(1912年)なので、その時点で約二十年経っていたことになる。ざっとふた昔なので、間に短い大正を挟み、明治の輪郭も霞がかってきた頃だったのだろう。 その伝でいけば、昭和は64年(1989年)の初頭まで続いたので、もう37年経ったことになる。 つい最近まで割と身近なところにあった気がしていたが、いつの間にかすっかり朧げになってしまっていた。 本ブログの趣旨が昭和プロレス、更に年末ということで、今回は昭和最後の開催となった、88年の世界最強タッグを振り返ってみたい、 前年の87年には、新日から数年ぶりにカムバックしたブッチャーとブロディを加えた全12チームが参加、新旧の役者が揃った豪華版かつ、ハンセンとブロディが別々のチームとして争うなど、今後の展開が楽しみになる大会だった。顔ぶれだけで言えば、最強タッグ史上最高のメンバーだったかもしれない。 しかし僅か一年後の88年、様相は一変していた。 プエルトリコで命を落としたブロディ、オープンタッグ以来の看
Satom
2025年12月17日読了時間: 8分


近くて遠かった!!アントニオ猪木とハーリー・レイス
これまで対戦が話題になった事は何度かあったが、日本のリングで不思議とシングル戦で相まみえることがなかったアントニオ猪木とハーリー・レイス。 キャリアと実績を積み上げた二人が対戦していればどんな試合になったかは遂に永遠の夢物語となってしまった今、若獅子と美獣と呼ばれた時代には、タッグ戦や6人タッグで対戦していた記録とその当時二人の対決をテレビでみていた私の印象を語ってゆこうと思う。 今、思い起こせば本当に貴重な対戦を見れていたものだと感謝するしかない。 海外武者修行中のアントニオ猪木は1964年、最初のアメリカでのサーキット・コースであるミズリー州カンザスシティにおいて2カ月弱の滞在期間において、若きハーリー・レイスと抗争を繰り広げていた記録が残っている。初遭遇(1964年4月30日:カンザスシティ)においては、30分の時間切れ引き分けという熱戦をおこなっている。 その後、アントニオ猪木は凱旋帰国するのだが、日本プロレスではなく東京プロレスのエースとして活躍したりして少し遠回りはしたが、1967年日本プロレスに復帰しBI砲(ジャイアント馬場&アン
Toshiyuki Fujii
2025年12月14日読了時間: 10分


爆弾小僧の光と影(後編)
前回は、キッドが故郷イギリスから移り住んだカルガリーを足がかりに、日本での地盤を確固たるものにするまでを振り返った。 今回はレスラー人生の後半生、絶頂から転落までを含む、波乱の軌跡について見ていきたい。 藤波という好敵手を得た僅か一年後、キッドの前に生涯最高の新しい恋人が出現した。言うまでもなく、初代タイガーマスク・佐山サトルである。 1981年4月から83年にかけて、約二年ほどの短いライバル関係であったが、二人がリングの上に散らした閃光は鮮やかな残像となって、今も多くのファンの脳裏に焼き付いているのではないか。 この時期、キッドと初代タイガーが築いた土台の上に、90年代の新日スーパージュニア戦線が確立され、更にはWWF(WWE)、WCWにおける、エディ・ゲレロ、クリス・ベンワー、レイ・ミステリオ・ジュニア、ウルティモ・ドラゴンら軽量級レスラー達の黄金時代が導かれたと言っても大げさではないだろう。 1982年8月MSGのリングでお披露目された鉄板の一戦。ショートタイツ姿で登場したキッドはタイガーの変幻自在の動きに見事に対応。最後はラウンディン
Satom
2025年12月5日読了時間: 11分


爆弾小僧の光と影
来月師走を迎えると、ダイナマイト・キッドの没後七年になる。今回は昭和プロレスを振り返るにあたり外せない主役の一人である爆弾小僧の記憶を、思いつくままに記してみたい。 ふと頭に浮かんだのが、平成の世も数年過ぎた頃 当時の全日マットの企画「オルディーズ・バット グッディーズ」に二回目の参加を果たしたドン・レオ・ジョナサンの腰を、確か日本武道館の控室でキッドがマッサージするシーン。長旅の疲れを癒してもらったジョナサンは笑顔で「やっぱりウィガン(蛇の穴)出身者は違うねえ」とキッドの労をねぎらい、礼を言う。*1) イギリス・ウィガン近郊の町ゴルボーンで生まれ育ったキッドだが、ジョナサンが言ったような、いわゆる"蛇の穴"(ビリー・ライレー・ジム)の卒業生ではない。 十代の初めころのキッド(トミー・ビリントン)は、父親から手ほどきされたボクシングと学校の正科のラグビーに打ち込んでいたが、ひょんなことから近くに住むテッド・ベトレーなる人物からレスリングを習うようになる。 キッドの父親(ビリー・ビリントン)は、炭鉱で働いたりボクサーとして試合に出場したり、大
Satom
2025年11月25日読了時間: 10分


超新星🌟の岐路
昭和のプロレスをテーマに、約一年前から私的な思い入れを綴ってきたが、一応年内を目処に全50回で完結したいと思っている。この機会に、まだ登場していないレスラー、試合、事件などについて改めて振り返った結果、ボブ・バックランドのことが頭に浮かんできた。今回は日米における超新星伝説について振り返ってみたい。 1949年生まれのバックランドは、スタン・ハンセン、リック・フレアーと同い年だが、1983年暮れ6年近く保持していたWWF王座から転落して以降目立った活躍がないまま、やがて静かにマット界からフェイドアウトした。そのためかハンセン、フレアーに比べるとレジェンド感は少ないが、全盛期の充実ぶりは際立っている。 バックランドのデビュー戦は、1973年10月22日 ルイジアナ州シュリブポートで行われたロン・スターとの一戦。当初は毎日試合が組まれず、車の中で寝起きする生活だったが、翌年春、アマリロ地区への転戦がきっかけで開眼する。 1974年3月4日、バックランドは同地区のゲートキーパー的存在だったミスター・レスリング(ゴードン・ネルソン)と対戦、勝利を収めた。
Satom
2025年11月16日読了時間: 12分


松並修と伊藤薫の同級生タッグが発進!!
☆前列左からCHICHI, Sareee, 松並コーチ、YuuRi,叶ミク、後列左より今野結菜(練習生)、伊藤薫道場主、志真うた(道場生)の精鋭陣 現在、女子プロレス界で大活躍する“太陽神”Sareee、堀田祐美子主宰のT-HEARTS所属の叶 ミク、現在二人はミク選手の希望でスターダムで開催されている第15回ゴッデス・オブ・スターダム~タッグリーグ戦に参戦し優勝を目指している。そしてプロレスリングEvolution所属の“闘うバービー人形”CHICHI、ガンバレ☆プロレス所属のYuuRi、らの現役バリバリの選手たちが、さらなるレベルアップ、技術アップを自ら望み、伊藤道場・道場主である伊藤薫が企画、実施するイギリス伝統のCACC「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・レスリング」の講習会こぞって参加しそのスキルを磨いている。 伊藤道場での松並コーチによるCACCの講習 コーチとして「ライレージム京都」の松並修を京都からわざわざ呼び、今では2ヵ月に一度の講習会を開いている。 松並コーチは1993年より日本とイギリスを往復し、イギリスのランカシャー地方伝
Toshiyuki Fujii
2025年11月16日読了時間: 7分


待ち続けた夢の対決!!猪木対ニック戦、その点と線 (秘蔵写真綴るNWAタッグリーグ戦大阪大会:昭和45年10月29日)
猪木とニックの夢の対決 ”燃える闘魂”と呼ばれるようになったアントニオ猪木と闘って欲しいレスラーの上位に必ず上がってくるレスラーの一人が“金髪狼”ニック・ボックウィンクル選手であった。 名レスラーであるウォーレン・ボックウィンクルの息子で、少年時代から父のレスリング英才教育を受け、16歳でプロレス入り、そのデビュー戦の相手が全盛時のルー・テーズであった事は有名。当初はハワイとカリフォルニア地区を主戦場にしていたが、1970年にAWA圏に転出し、1972年1月20日にレイ・スチーブンスと組みクラッシャー・リソワスキー&レッド・バスチエン組を破りAWA世界タッグ王者となる、その後、1975年11月8日ミネソタ州セントポールでAWAの帝王バーン・ガニアを破り第28代AWA世界チャンピオンになる。 大阪での控室でのダンデイなニック (撮影:昭和45年11月29日) ちょうどこの時期、アントニオ猪木はプロレスファン夢の対決であった“人間風車”ことビル・ロビンソンと初対決、1対1から時間切れ引き分けでNWF世界王座を防衛する。この試合は今でも昭和プロレスフ
Toshiyuki Fujii
2025年10月24日読了時間: 10分


喧嘩番長・独壇場
ディック・スレーターが亡くなったのは、2018年10月18日なので、今月で早くも丸七年になる。 脊椎の怪我からくる慢性的な痛みに悩まされた上私生活でのスキャンダル的な事件も重なり、その晩年は華やかさとは無縁だった。結果として訃報が大きく取り上げられることもなく、追悼記事を組んだ紙媒体は皆無だったかもしれない。 しかし、かつて昭和のプロレス黄金期を彩った、重要な登場人物の一人であったことに変わりはない。今回は改めて当時の活躍を振り返り、在りし日の「喧嘩番長」を偲びたいと思う。 日本におけるスレーターと言えば、同い年であるジャンボ・鶴田のライバルという印象が強い。第八回チャンピオン・カーニバル決勝戦で、眼帯を付けて熱戦を繰り広げた姿が記憶に残っているが ここではジャイアント馬場絡みの二試合を取り上げてみたい。 まずは昭和49年8月29日後楽園ホールで行われた 第二次サマー・アクション・シリーズ最終戦におけるタッグマッチ。キラー・カール・コックスと 組んで馬場、デストロイヤー組と対戦した試合であるが、初来日のスレーターは、大ベテラン三人に囲まれても全く
Satom
2025年10月24日読了時間: 8分


墓掘り人の激白
先月刊行された「ローラン・ボック自伝」を読んだ。ドイツでは数年前に発行されていたと聞くが 日本語版は訳者の沢田 智さんが八方手を尽くされた結果、クラウドファウンディングで出版に至ったという。 「原書よりも厚くなった」訳書のボリュームは460ページの超大作。1970年代の西ドイツにおける興行・商習慣などについても詳述されているが 勿論その大半はボック本人に関する内容である。 幼少期の朧げな記憶、生々しい体験が、後の人格形成に色濃く影響を与えていることが明確に示されており、人間・ボックの原点に触れた思いがする一方で、青年期の恋愛、アマ・プロのレスラー時代、結婚生活、事業などに関する様々な出来事がビジネス、プライベートを問わず赤裸々に告白されており、圧倒される思いがした。 今回はこの力作をとば口として、昭和ファンの脳裏にいまだ強烈な印象を残しているボックという存在について振り返りたい。 レスラーとしてのボックの日本初登場は昭和56年7月31日、大阪府臨海スポーツセンターのリングで実現した。木村健吾と対戦したボックは相手に何もさせず、1分35秒で圧勝。.
Satom
2025年10月13日読了時間: 10分

お問い合わせ先
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Eメール: doryfunkjr69@gmail.com
事務局
TEL: (075)285-2403 (WWPクラブ)
〒607-8341 京都市山科区西野今屋敷町27-6
Eメール: rilygymkyoto@gmail.com
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