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昭和プロレス懐古 & 現代プロレスの原点ランカシャー・レスリング
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ほぼ
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アントニオ猪木全国区デビュー夜明け前
馬場と猪木の熾烈なライバル心が燃え上がる 日本全国のプロレスファンにアントニオ猪木とういう名前が一気に浸透したのは果たしていつなのか? その長いプロレスリングヒストリーの中で模索し続けてきた。私が小学校の3年生の頃(昭和41年頃)、近くにある住吉公園で遊んでいる頃、上級生の6年生が砂場でプロレスごっこをしているのをみていたのだが、鮮明に彼らはジャイアント馬場の物まねをしている姿が印象に残っている。 ジャイアント馬場黄金時代の雄姿(昭和43年12月3日撮影) そう当時はアントニオ猪木の物まねをしている人はいなかった。 国民は、日本プロレスのテレビ放映においてはジャイアント馬場がエースとして外人の強豪達を倒す場面に一喜一憂しており、その頃の猪木はテレビ放映も付いていない東京プロレスで悪戦苦闘していた時代である。 アントニオ猪木は力道山にブラジルでスカウトされ、力道山道場3羽鳥(ジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎)として育つが、力道山亡きあと直ぐにアメリカに行き精神・肉体共に鍛えられる。そして凱旋帰国するはずであったが、ハワイで新団体を目論む
Toshiyuki Fujii
1月24日読了時間: 9分


★初来日シリーズ(秘蔵写真大公開)から探る二人の新鋭レスラーが歩んだ違った道【“美獣”ハーリー・レイスと“狂犬”デイック・マードック】
1979年5月8日【全日本プロレス:千葉】において外人同士のNWA世界ヘビー級選手権試合が行われた。王者ハーリー・レイスが前日、大阪においてジャンボ鶴田を破っての連続防衛戦の相手は”狂犬”デイック・マードックである。 ① マードック(14分45秒 ブレーンバスターから体固め) ② レイス (20分46秒 ダイビング・ヘッドバット) ③ 時間切れ引き分け でレイスが王座を防衛した。 なかなかの好試合でジャイアント馬場、後には渕正信もこの試合を高く評価した。 日本のマットで世界最高峰のタイトルであるNWA世界選手権を賭けて戦った二人の一流レスラーが歩んできた道は大きく違えど、片やレイスは職人肌のミスター・プロレス、マードックは生まれ持っての天才肌レスラーと呼ばれていた。 ダイナミック・シリーズのパンフ 遡ること1968年2月に開催されたダイナミック・シリーズ(2月23日~3月23日)においてキラー・バデイ・オースチン、バロン・シクルナ、テネシー・レベル(マイク・パドーシス)、そして初来日の二人、そうハーリー・レイスとデイック・マードックであ
Toshiyuki Fujii
1月8日読了時間: 7分


昭和最後の最強タッグ
"降る雪や明治も遠くなりにけり"という句が詠まれたのは昭和六年(1931年)の1月。明治最後の年が45年(1912年)なので、その時点で約二十年経っていたことになる。ざっとふた昔なので、間に短い大正を挟み、明治の輪郭も霞がかってきた頃だったのだろう。 その伝でいけば、昭和は64年(1989年)の初頭まで続いたので、もう37年経ったことになる。 つい最近まで割と身近なところにあった気がしていたが、いつの間にかすっかり朧げになってしまっていた。 本ブログの趣旨が昭和プロレス、更に年末ということで、今回は昭和最後の開催となった、88年の世界最強タッグを振り返ってみたい、 前年の87年には、新日から数年ぶりにカムバックしたブッチャーとブロディを加えた全12チームが参加、新旧の役者が揃った豪華版かつ、ハンセンとブロディが別々のチームとして争うなど、今後の展開が楽しみになる大会だった。顔ぶれだけで言えば、最強タッグ史上最高のメンバーだったかもしれない。 しかし僅か一年後の88年、様相は一変していた。 プエルトリコで命を落としたブロディ、オープンタッグ以来の看
Satom
2025年12月17日読了時間: 8分


近くて遠かった!!アントニオ猪木とハーリー・レイス
これまで対戦が話題になった事は何度かあったが、日本のリングで不思議とシングル戦で相まみえることがなかったアントニオ猪木とハーリー・レイス。 キャリアと実績を積み上げた二人が対戦していればどんな試合になったかは遂に永遠の夢物語となってしまった今、若獅子と美獣と呼ばれた時代には、タッグ戦や6人タッグで対戦していた記録とその当時二人の対決をテレビでみていた私の印象を語ってゆこうと思う。 今、思い起こせば本当に貴重な対戦を見れていたものだと感謝するしかない。 海外武者修行中のアントニオ猪木は1964年、最初のアメリカでのサーキット・コースであるミズリー州カンザスシティにおいて2カ月弱の滞在期間において、若きハーリー・レイスと抗争を繰り広げていた記録が残っている。初遭遇(1964年4月30日:カンザスシティ)においては、30分の時間切れ引き分けという熱戦をおこなっている。 その後、アントニオ猪木は凱旋帰国するのだが、日本プロレスではなく東京プロレスのエースとして活躍したりして少し遠回りはしたが、1967年日本プロレスに復帰しBI砲(ジャイアント馬場&アン
Toshiyuki Fujii
2025年12月14日読了時間: 10分


爆弾小僧の光と影(後編)
前回は、キッドが故郷イギリスから移り住んだカルガリーを足がかりに、日本での地盤を確固たるものにするまでを振り返った。 今回はレスラー人生の後半生、絶頂から転落までを含む、波乱の軌跡について見ていきたい。 藤波という好敵手を得た僅か一年後、キッドの前に生涯最高の新しい恋人が出現した。言うまでもなく、初代タイガーマスク・佐山サトルである。 1981年4月から83年にかけて、約二年ほどの短いライバル関係であったが、二人がリングの上に散らした閃光は鮮やかな残像となって、今も多くのファンの脳裏に焼き付いているのではないか。 この時期、キッドと初代タイガーが築いた土台の上に、90年代の新日スーパージュニア戦線が確立され、更にはWWF(WWE)、WCWにおける、エディ・ゲレロ、クリス・ベンワー、レイ・ミステリオ・ジュニア、ウルティモ・ドラゴンら軽量級レスラー達の黄金時代が導かれたと言っても大げさではないだろう。 1982年8月MSGのリングでお披露目された鉄板の一戦。ショートタイツ姿で登場したキッドはタイガーの変幻自在の動きに見事に対応。最後はラウンディン
Satom
2025年12月5日読了時間: 11分


爆弾小僧の光と影
来月師走を迎えると、ダイナマイト・キッドの没後七年になる。今回は昭和プロレスを振り返るにあたり外せない主役の一人である爆弾小僧の記憶を、思いつくままに記してみたい。 ふと頭に浮かんだのが、平成の世も数年過ぎた頃 当時の全日マットの企画「オルディーズ・バット グッディーズ」に二回目の参加を果たしたドン・レオ・ジョナサンの腰を、確か日本武道館の控室でキッドがマッサージするシーン。長旅の疲れを癒してもらったジョナサンは笑顔で「やっぱりウィガン(蛇の穴)出身者は違うねえ」とキッドの労をねぎらい、礼を言う。*1) イギリス・ウィガン近郊の町ゴルボーンで生まれ育ったキッドだが、ジョナサンが言ったような、いわゆる"蛇の穴"(ビリー・ライレー・ジム)の卒業生ではない。 十代の初めころのキッド(トミー・ビリントン)は、父親から手ほどきされたボクシングと学校の正科のラグビーに打ち込んでいたが、ひょんなことから近くに住むテッド・ベトレーなる人物からレスリングを習うようになる。 キッドの父親(ビリー・ビリントン)は、炭鉱で働いたりボクサーとして試合に出場したり、大
Satom
2025年11月25日読了時間: 10分


待ち続けた夢の対決!!猪木対ニック戦、その点と線 (秘蔵写真綴るNWAタッグリーグ戦大阪大会:昭和45年10月29日)
猪木とニックの夢の対決 ”燃える闘魂”と呼ばれるようになったアントニオ猪木と闘って欲しいレスラーの上位に必ず上がってくるレスラーの一人が“金髪狼”ニック・ボックウィンクル選手であった。 名レスラーであるウォーレン・ボックウィンクルの息子で、少年時代から父のレスリング英才教育を受け、16歳でプロレス入り、そのデビュー戦の相手が全盛時のルー・テーズであった事は有名。当初はハワイとカリフォルニア地区を主戦場にしていたが、1970年にAWA圏に転出し、1972年1月20日にレイ・スチーブンスと組みクラッシャー・リソワスキー&レッド・バスチエン組を破りAWA世界タッグ王者となる、その後、1975年11月8日ミネソタ州セントポールでAWAの帝王バーン・ガニアを破り第28代AWA世界チャンピオンになる。 大阪での控室でのダンデイなニック (撮影:昭和45年11月29日) ちょうどこの時期、アントニオ猪木はプロレスファン夢の対決であった“人間風車”ことビル・ロビンソンと初対決、1対1から時間切れ引き分けでNWF世界王座を防衛する。この試合は今でも昭和プロレスフ
Toshiyuki Fujii
2025年10月24日読了時間: 10分


喧嘩番長・独壇場
ディック・スレーターが亡くなったのは、2018年10月18日なので、今月で早くも丸七年になる。 脊椎の怪我からくる慢性的な痛みに悩まされた上私生活でのスキャンダル的な事件も重なり、その晩年は華やかさとは無縁だった。結果として訃報が大きく取り上げられることもなく、追悼記事を組んだ紙媒体は皆無だったかもしれない。 しかし、かつて昭和のプロレス黄金期を彩った、重要な登場人物の一人であったことに変わりはない。今回は改めて当時の活躍を振り返り、在りし日の「喧嘩番長」を偲びたいと思う。 日本におけるスレーターと言えば、同い年であるジャンボ・鶴田のライバルという印象が強い。第八回チャンピオン・カーニバル決勝戦で、眼帯を付けて熱戦を繰り広げた姿が記憶に残っているが ここではジャイアント馬場絡みの二試合を取り上げてみたい。 まずは昭和49年8月29日後楽園ホールで行われた 第二次サマー・アクション・シリーズ最終戦におけるタッグマッチ。キラー・カール・コックスと 組んで馬場、デストロイヤー組と対戦した試合であるが、初来日のスレーターは、大ベテラン三人に囲まれても全く
Satom
2025年10月24日読了時間: 8分


墓掘り人の激白
先月刊行された「ローラン・ボック自伝」を読んだ。ドイツでは数年前に発行されていたと聞くが 日本語版は訳者の沢田 智さんが八方手を尽くされた結果、クラウドファウンディングで出版に至ったという。 「原書よりも厚くなった」訳書のボリュームは460ページの超大作。1970年代の西ドイツにおける興行・商習慣などについても詳述されているが 勿論その大半はボック本人に関する内容である。 幼少期の朧げな記憶、生々しい体験が、後の人格形成に色濃く影響を与えていることが明確に示されており、人間・ボックの原点に触れた思いがする一方で、青年期の恋愛、アマ・プロのレスラー時代、結婚生活、事業などに関する様々な出来事がビジネス、プライベートを問わず赤裸々に告白されており、圧倒される思いがした。 今回はこの力作をとば口として、昭和ファンの脳裏にいまだ強烈な印象を残しているボックという存在について振り返りたい。 レスラーとしてのボックの日本初登場は昭和56年7月31日、大阪府臨海スポーツセンターのリングで実現した。木村健吾と対戦したボックは相手に何もさせず、1分35秒で圧勝。.
Satom
2025年10月13日読了時間: 10分


★昭和のプロレス低迷期はこの時代だと断言できる!!
昭和48年3月3日、近代記念館でグレート小鹿&松岡頑鉄がアジア・タッグ王者になる。 すでに新春チャンピオンシリーズの日程とタイトルマッチが決まっていた昭和47年の新春 、1月5日の名古屋大会(名古屋・愛知県体育館)と1月6日の大阪大会(大阪府立体育会館)に特別参戦として現NWA認定USヘビー級チャンピオンの”黒い魔人”ボボ・ブラジルと現WWWFヘビー級チャンピオンの”魔豹”ペドロ・モラレスが来日し、名古屋ではペドロ・モラレスがアントニオ猪木のUN王座に挑戦。大阪ではボボ・ブラジルがジャイアント馬場のインター・ナショナル選手権に挑戦することが内定していた。 実際、情報の早いゴング誌ではこの話題が巻頭を飾っておりプロレスファンのお年玉プレゼントになる予定であったが、そのニュース記事を上回るかのように、同誌面の特集記事において「若獅子アントニオ猪木が突如日プロから除名!その全貌を暴く」とういう暗いニュースが年末に舞い込んできたのだ。 前年度末、昭和46年12月9日、大阪府立体育会館前に貼られていた【本日、世界選手権の出場予定のアントニオ
Toshiyuki Fujii
2025年10月8日読了時間: 7分


「ダラ幹」考
前回の九州山から間が空いてしまったが、再び 日本プロレス時代の話題を取り上げてみたい。 表題の「ダラ幹」は昭和ファンには旧知の言葉で長らくプロレス用語として認知されている。*1) 昭和46年末、日プロの「社内改革」*2)において馬場、猪木らをはじめとするレスラー達が芳の里遠藤幸吉、吉村道明ら経営幹部を糾弾した時に使われた言葉だが、その実情はどうだったのか? 近年は当時の状況に関して、新たな証言や解釈も 明らかになってきた。力道山の逝去に伴い、急遽始動した「トロイカ体制(上記三人に豊登を加えた四幹部)」の発足まで遡り、その功罪について改めて見直すには良い機会かもしれない。 トロイカ体制誕生に至る経緯については、複数の説がある*3)が、当時の流れを記録した報道を 照会すると、力道山の死の翌日に営まれた仮通夜の席で、新体制の構想が早くも語られている。 その背景には、グレート東郷による日プロ乗っ取りを警戒した四人が東郷排斥に向け一致団結した事情(動機)があったと見るのが妥当だろう。 事実、トロイカ体制発足後の初動は二点に集約 された。東郷の放遂と(第二次
Satom
2025年10月3日読了時間: 16分


九州山とは何か
日本のプロレス史を紐解く上で、重要な人物、鍵となる人物は数多くいる(いた)。勿論その多くは他界しており、今、その貴重な証言をきくことは叶わない。中には、生前インタビューに応えて興味深いエピソードを披露してくれた例もあるが反対にメディアへの露出が極端に限られていたケースも少なくない。 後者の代表の一人が、九州山ではないだろうか。旧くからの書物などで、度々その姿を見てはいるのだが、意外と本人について書かれた読みものやインタビュー記事に触れた記憶はない。そこで、黎明期の日本プロレス界における氏の立ち位置や役割を自分なりに掘り下げ、その存在の何たるかについて一考したいと思う。 九州山が角界出身であることは、その名前からもオールド・ファンの方は先刻ご承知とは思うが、昭和五年から二十年まで約15年間の力士生活で 最高位は小結。無双の横綱双葉山をはじめ玉錦、羽黒山など歴代の横綱を破る殊勲の星を挙げて いる。 昭和十四年から十六年まで二年にわたり現役生活を中断、陸軍兵士として中国大陸に渡っていたが力士としてまさに最盛期を迎えようという時期のブランクは何とも惜しま
Satom
2025年9月12日読了時間: 10分


荒馬の"蹄鉄"
"テリー・ファンクのシューズは、私が見ても惚れぼれするほど素晴らしいものです。あの無造作で洒落っ気のない人のようですが、かけるべきところにはきちんと金をかけていますね" 上記コメントの主は、かつて国内外の一流レスラ ーのリングシューズ作りを広く担っていた職人、杉本常次郎さんである。確か月刊プロレスの1979年1月号の記事で目にしたように思うが、元資料が手元になくて心許ない。杉本さんの下のお名前ももしかしたら違っていたかも…。 テリーが逝って早くも二年が経過し、日本でいう三回忌が巡ってきた。そこで全盛期のスーパーヒーローの足下を支えたシューズを振り返る事でありし日のテキサスブロンコを偲びたいと思う。 (ブロンコは人に調教されていない暴れ馬なので表題の「蹄鉄」は本来ならばふさわしくないが) 杉本さんが仰ったテリーのシューズはどれなのか写真が掲載されていなかったので特定しかねるが おそらくこれだろう、と思う候補は二足ある。 左はNWA世界チャンピオン時代に多用した3色の エナメルシューズ。右は77年のオープン・タッグで初お目見えし、その後も四年近く履い
Satom
2025年8月29日読了時間: 7分


地殻変動-1983・夏
年を経てくると、年月の過ぎる早さに驚くばかりだが、21世紀もあっという間に四半世紀が経ってしまった。「2000年問題」とか言われていたのが、つい最近のことのように思えてしまうのだが…💦まして1980年代と言えば、もうすっかり昔のことなのに、個人的にはあまり風化した感じがしないのが不思議である。 そんな80年代のプロレス界において鮮烈に記憶に残っている年、そして季節はいつになるだろう。もちろん様々な答えが出てくるだろうが「1983年の夏」というのは、多くの昭和プロレスファンの心に深い印象を残しているのではないだろうか? 国際プロレスは二年前に消滅し、この時点で日本のプロレス団体は新日本、全日本の二つのみ。 その両団体を代表する超人気レスラータイガーマスクとテリー・ファンクがそれぞれリングから去ったのが、この1983年の夏であった。丁度同じタイミングで月刊から転じた「週刊プロレス」創刊号の表紙もこの二人である。 テリーの引退は三年前からの既定事項で、この年も三回に渡り「お別れシリーズ」に参戦していたが、タイガーマスクは唐突に新日本への訣別を表明した
Satom
2025年8月17日読了時間: 7分


ザ・シークというアジール
「モノの怪に憑かれたように中空を睨みます、ザ・シーク」 清水アナウンサーの落ち着いた実況がホノルルの名会場HICのリングに向かって響く…1972年9月20日、日本テレビの海外収録試合。全日本プロレス旗揚げを翌月に控えたデモンストレーションとして、リング上で睨み合うG馬場とザ・シーク。 例によってゴングがなるまで時間がかかり、結果は両者反則に終わっているが、リングサイドに詰めかけた日系ファンの熱量が伝わってくる。 新団体旗揚げに向けての煽り試合としては異色のカードだが、馬場の動きも良く、日プロ離脱後初の暴れっぷりを伝えるという意味ではひとまず成功と言える内容であった。 馬場はこの後米本土に渡り、アマリロで全身タイツを覆ったザ・プロフェッショナル(ハーリー・レイス)、ピッツバーグでフランク・ホルツ戦を行っている。この時期、全日プロはNWAに加盟できておらず、日プロにレギュラー参加していたレイスは正体を隠さざるを得なかったが、シークの方は全くお構いなしであった。 モノクロが似合うハワイの一戦。トップロープを軽々と飛び越えるシークに対抗するように馬場も
Satom
2025年4月4日読了時間: 8分


☆アントニオ猪木が”環状線の理論”を実証したシリーズ
昭和49年1月25日、大阪府立体育会館・控室至 アントニオ猪木は「環状線の理論」を提唱していました。 環状線の中のコアなプロレスファンだけでなく、その外側にいる一般市民達を引き込むことがプロレスを盛り上げるのには必要だという集客理論で、古くは1973年11月5日、新日本プロ...
Toshiyuki Fujii
2025年3月17日読了時間: 7分


真冬のNWA総会(続)
表題とは全く無関係の書き出しになってしまうが 先月の大相撲初場所において、12勝3敗の成績で優勝した大関豊昇龍の横綱昇進が決定した。 直近三場所の合計勝ち星が33勝という事で、大関昇進には合格ラインながら、こと横綱昇進となるといかがなものかという意見が相撲協会審判部内でも多勢を占めたにも関わらず、高田川審判部長が最後は自らの責任で昇進を決めたという。この決定が職権の濫用にあたるか、善用なのかは来場所以降の豊昇龍の成績次第ではあるが、組織における意思決定の妙を端的に示した一例であると言えよう。 位相は横綱昇進問題とは異なるが、かつて力道山が自ら髷を切って力士を廃業した後、一年も経たない内に、角界復帰の機運が醸成された事があった。当時横綱だった東富士と千代はの山は、復帰を切望する力道山を受け入れる姿勢を見せており、何よりも、戦後の新国技館復興に大きく尽力し、角界にとって大功労者の一人であった新田新作の口添えもあった事から、同じく体調不良により角界を去っていた元大関増井山共々、力道山の復帰はほぼ内定していたという。しかし力士会会長を務めていたもう一人
Satom
2025年2月7日読了時間: 10分


真冬のNWA総会
NWA総会と言えば毎年8月、せいぜい秋口までに行われるイメージが強いが、唯一真冬にも開催された年があった。(正式には総会ではなく、臨時役員会だが) その年とは、1973年。議題は全日本プロレスのNWA加盟について。この臨時役員会は、電話会議として開催・評決されたという説もあったが、最近の資料からは、当時NWA本部の置かれていたセントルイスに主要メンバーが実際に参集した事が明らかになっている。*1) この会議の仕掛け人は、広く知られている通り、アマリロ地区のプロモーターで、当時世界チャンピオンだったドリー・ファンク・ジュニアの父であるファンク・シニアであった。 シニアの「全日本推し」はいつから始まったのか? 時系列を辿ると、NETのプロレス中継に 自身の登場を許可した日プロの首脳陣に対し異を唱えたジャイアント馬場が、自身の団体を興すと発表したのが前年(1972年)の7月29日。この時点で日本テレビのバックアップを得ていた馬場は当初外国人レスラーのブッキングをLA在住のミスター・モトに依頼、内諾を得ていたが、翌月8月初旬にラスヴェガスで行われたNWA
Satom
2025年1月31日読了時間: 8分


早すぎた最強タッグ
この風格と貫禄…歴代のインター・タッグチャンピオンの中でもダントツではないか。無敵のBI砲が初の完敗を喫したのもうなづける。しかもこの二人は、アメリカで組んだ実績は全くなかったという。恐るべし…。(この写真も、藤井敏之さん所有のコレクションからお借りしたものです) ウィルバー・スナイダーとダニー・ホッジが揃って来日したのは1969年(昭和44年)の正月。 アポロ11号が月に着陸する直前である。 BIコンビとは四回対戦して一勝二敗一引き分けの成績を残した。この時スナイダー39歳、ホッジ 36歳。日本テレビではこの連戦の映像は残っていないのか、試合を一回も観た記憶がない。 最後の対戦となった秋田県立体育館には、1万3千人(!)の大観衆が詰めかけたとされる。*1)主催者発表だとしても県立体育館の「ハコ」ってそんなに広いのか?、知らんけど。雑誌等に掲載された対戦写真には、立錐の余地のない館内の様子が写っているが、これが秋田の一戦かと一人合点する。 いずれにしても強豪同士が日本でタッグを組んだ例としては、翌年暮れのキニスキー、バレンタイン組に匹敵すると思わ
Satom
2025年1月25日読了時間: 4分


続・ジャイアント台風
新春・馬場シリーズの三回目は、「たられば」の話しをさせて頂く。もし力道山があのタイミングで世を去っていなければ、その後の日米マット事情はどのように推移していたか…?である。 まず「力道山が存命であれば起こらなかっただろう」ことについて、ランダムに挙げてみたい。...
Satom
2025年1月17日読了時間: 7分
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TEL: (075)285-2403 (WWPクラブ)
〒607-8341 京都市山科区西野今屋敷町27-6
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