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「昭」のロゴをよく見ると、浮かび上がるのは・・・

ストーリー 2

ライレージムへの道

長い昭和が終わり、「平成」という新しい時代が始まった1989年、私は18歳になった。少年時代が終わり、大人への道を歩み始めた。と言っても、将来の設計は何もない。何をしたいのかもよくわからない。

そんな中、週刊ゴングのある記事が、その後の私の生きる道を決定づけた。ダイナマイト・キッドが、かつてイギリス・ウィガンにあった伝説のジム、“蛇の穴”ビリー・ライレー・ジムを訪れるという記事だった。そこには、蛇の穴出身の名レスラー、ビリー・ジョイス氏の言葉があった。

「今は、ここにいるロイが子供たちを相手にアマレスを教える程度。残念ながら、ここでランカシャー流プロレスリングを習い、己を磨き上げようとする者は、ライレーの死後、出現していない」

​ぼんやりとではあるが、「自分がそこに行って、復活させれることができたらカッコいいなぁ」と思った。

翌1990年、メガネスーパーの新興団体「SWS」が、ビリー・ライレーの最後の弟子であり、後継者であるロイ・ウッドを、コーチとして招聘した。

来日して、道場で若手選手を指導する様子やインタビューが、週刊ゴングや週刊プロレスで報道された。それらの記事を読んだ私は、イギリスへ行きたいという気持ちが大きくなっていった。

その後、軽量級が盛んなメキシコへ渡ってプロレスラーを目指そうともしたが、結局は1993年にイギリスへ行くことにした。インターネットがなかった当時、ロイ・ウッド氏と事前にアポを取る手立てもない。ゴングに載っていた「ロイ・ウッドは、ウィガンという町にあるアスプル・オリンピック・レスリング・クラブという場所で教えている。そこは、かつて蛇の穴があった近くである」という情報だけで、無謀にも旅立った。

Roy visits Japan '90.jpg

見つからなくても、観光でもして帰ってくればいいぐらいの気持ちであった。しかし、現地の温かい人たちのお陰で意外にあっさりロイ・ウッド氏に出会えた。「日本からランカシャー・レスリングを学びに来ました。蛇の穴を復活を願っています」と伝えた。

そして、以後は4~6ヶ月のイギリス滞在を繰り返し、修行をすることとなった。1995年からしばらくは、ウッド先生が藤波辰爾主宰の興行「無我」に頻繁に来日していたので、日本でも指導を受けることができた。

1999年には、宮戸優光氏が東京で、「UWFスネークピット・ジャパン」を設立した。“蛇の穴”出身の代表選手、ビル・ロビンソン氏がコーチとして迎えられた。

そのニュースを耳にした私は、すぐに東京に引っ越した。そしてロビンソン先生から、2年以上指導を受けた。

2003年に、久しぶりにイギリスに長期滞在した。この頃にはMMA(総合格闘技)、柔術が世界的に流行しており、日本と同様に、状況は大きく変わっていた。キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの技術にも興味を持つ人たちが少しづつ増えていった。

2007年、地元の京都で、小さな倉庫を借りてレスリングジムを始めた。同年5月、プライベートで来日したウッド先生が、私のジムにやって来た。そしてまだ名前のなかったジムは、「ライレージム京都」と名付けられた。

2012年、ウッド先生は、ビリー・ライレーの技術が正しく継承されていくよう組織化を図り、公式ルールの作成、国際大会の開催、コーチとジムの認定制度の確立に着手した。

同年、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン発祥の地、ウィガンでおよそ50年ぶりとなる伝統ルールでの大会が開催された。私は、その記念すべきオープニング試合に抜擢され、勝利を収めることができた。

同時に、私は公認コーチ第1号、ライレージム京都が公認ジム第1号となった。

私のジムは、まだまだ1950~60年代の「蛇の穴」全盛期のレベルには足元にも及ばないことは承知している。しかし、ライレージムの称号が与えらたからには、少しでも近づき、いつかは追い越せるよう努力を惜しまないつもりである。

20年来のプロレス仲間である「伝昭プロジェクト」藤井氏の活動に全面協力させていただくこととなりました。

同時に、昭和プロレスファンにとって未だ神秘のベールに包まれたままのの “蛇の穴”ビリー・ライレー・ジム の真実、技術を伝えていくことが私の使命だと感じています。

ライレージム京都

The Sanke Pit 認定コーチ 松並修

お問い合わせ先

​伝昭プロジェクト

TEL: (075)285-2403  (WWPクラブ) 

〒607-8341 京都市山科区西野今屋敷町27-6

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