「昭」のロゴをよく見ると、浮かび上がるのは・・・
ストーリー 1
【アントニオ猪木 vs ドリー・ファンク・Jr】を追いかけて
2022年10月1日、プロレス界のカリスマ“燃える闘魂”アントニオ猪木さんがお亡くなりになった。1960年9月30日に大木金太郎戦でデビューしてから1998年東京ドームに7万人もの大観衆を集めて行われたドン・フライ戦の引退試合まで日本国内、海外を合わせて4820試合を戦ってきた。
そんな中、生前多くのインタビューにおいて、ベストバウトと聞かれると1969年12月2日、大阪府立体育会館で行われたドリー・ファンク・ジュニアとのNWA世界だと答えられた。
その言葉を聞くたびに胸に熱いものがよぎる。なぜなら私が初めてプロレス生観戦デビューした試合なのである。ジャイアント馬場の後塵を排していたアントニオ猪木が馬場を抜き去るチャンスが到来したNWA世界チャンピオンドリー・ファンク・ジュニアへのチャレンジである。さらに翌日東京でその勝者にジャイアント馬場が挑戦するとういう最高のシチュエーションゆえ当時の大阪府立体育会館には万余の観衆が集まり猪木をバックアップする。
そんな中行われた世界戦は一進一退の攻防で互いにフォールを奪うことができず、60分フルタイムを戦い抜く。
互いにカウントが入る度に歓声が津波のように2階席からリングに向かい押し寄せ。両雄が跳ね返すと共に歓声が引いてゆく。
館内は悲鳴、怒声と歓声が交錯し、冬の風物詩であるみかんが飛びかい。まさに興奮の坩堝と化していた。
今でも試合が終わると同時に緊張感と興奮の60分間から解放された虚脱感で動けなかったのを思い出す。
この試合を実況された舟橋アナウンサーはこの試合において“初対決の超一流の二人のアスリートが阿吽の呼吸で技を繋ぎ、紡ぎあつたプロレス60分フルタイムの最高芸術”と表現された。
そしてこの試合は近代プロレスの夜明けを感じさせるものであった。
翌年、場所を福岡に変え再戦。猪木はジャーマン・スープレックスでドリーはテキサスブロンコ・スープレックスでフォールを取るが、再び時間切れドローとなる。
そして昭和46年暮れ、因縁の地である大阪で猪木もUN王座を賭けたW世界戦が行われることが日本プロレス協会より発表される。
しかしアントニオ猪木の会社改革発覚により猪木は日本プロレスより除名され二人の3度目の対決は夢物語となってしまう。
その日からアントニオ猪木の引退まで3度目の決着戦を夢みながらプロレスを見続ける。
その間においては両雄の対決を巡めぐり幾多の希望と失望を繰り返すこととなる。
昭和54年東京スポーツ主催の夢のオールスター戦が浮上。BI砲の対戦相手をファンから投票で募る事になる。朝から晩までファンクスと記載し投書する。一時はトップに立つが、最終的にアブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジエット・シン組と決まる。
その後、新日本プロレスが主催するIWGPトーナメントに、NWA代表としてザ・ファンクスの参加が新間営業部長より発表されたが、その後は音沙汰なし。
平成2年9月、アントニオ猪木デビュー30周年興行において猪木の因縁のライバル達が横浜に集う。ルー・テーズを始め、ジョニー・バレンタイン、アンドレ・ザ・ジャイアント、タイガー・ジエット・シン他凄い顔ぶれであったが、猪木にとっての永遠の恋人ドリーの姿はそこにはなかった。
そして最後のチャンスであったアントニオ猪木引退カウントダウンにおいても、名前は挙がるが土壇場でキャンセルとなる。そして迎えたアントニオ猪木の引退、そのリング上にもドリーの姿は無く二人の対決は夢物語となってしまった。
しかし、幸いにも翌年の1999年3月、急遽アントニオ猪木主催のUFOのリングにドリーが特別レフェリーとして来日。ついに30年間待ち続けた、リング上での二人の抱擁シーンを目の前にして心から二人の戦いを通じてプロレスを見続けてきたことが間違いでなかった事を確信しプロレス浪漫に感謝した。
どんな時代でも素晴らしいライバル同士の名勝負が生まれる。
しかし名勝負数え歌が突然の団体の崩壊や選手の引き抜きなどで2度と見られなくなる場合もある。再びその名勝負が行われる保証は全くないのである。故、若いファンはその時代、その時の名勝負を、これが最後だという気持ちで試合を堪能していって欲しい。
そして自分にとっての心の名勝負と、自分が好きになった時代のプロレスをいつまでも忘れることなく・・・・。
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