新春・馬場シリーズの三回目は、「たられば」の話しをさせて頂く。もし力道山があのタイミングで世を去っていなければ、その後の日米マット事情はどのように推移していたか…?である。
まず「力道山が存命であれば起こらなかっただろう」ことについて、ランダムに挙げてみたい。
グレート東郷との訣別
プロレスと他事業の分割
豊登の日プロ退団、又は猪木の渡米武者修行
最後の3.は、豊登の離脱原因が「ギャンブル依存症」にあった事を考えれば、遅かれ早かれ起きていたかもしれないが、少なくとも数年先に延びていた公算が強い。猪木の場合は、力道山が高砂親方(元横綱前田山)に部屋入門を直接打診、承諾を得ていた事から、昭和39年の早いタイミング(新弟子検査が行われる3月の大阪場所あたり)で高砂部屋入門が実現していたのではないか。三役あたりまで番付けを上げたところで猪木をプロレスに呼び戻す、という構想を抱いていた力道山のプランが実現していれば、当然ながら渡米の線は消えていたことになる。
この二つだけでも日本のプロレス界に及ぼすインパクトは絶大だが、こと馬場に関する限り、1と2がより重大な意味を持っていると考えられる。
まずは1.のグレート東郷。力道山の逝去を受け、
日本プロレスの経営を引き継いだ幹部達がまず行ったのが、高額なブッキング・フィーを取っていた東郷の"追放"とミスター・モトへの鞍替えだったが、力道山が生きていたら、東郷とのビジネスは(少なくとも当面の間は)継続されていたはずである。
そして2.について。力道山が注力していたゴルフ場開発など、系列会社の他事業が売却される事は無論なかった。初期投資の嵩むこれらの事業に対し、日本プロレス興業から利益を充填する事態が恐らく続いていただろう。
これらは「馬場にとって」何を意味するか?
自然な流れとして考えられるのは、グレート東郷とフレッド・アトキンスのマネジメントによる、米国サーキットの長期・本格化である。
馬場の第二次武者修行は、1963年10月から翌64年4月の初めまでの半年弱で終わりを告げた。春の第6回ワールド・リーグへの参戦が、興行人気を保つ上で必須だったからである。
仮に力道山が生きていても、馬場はリーグ戦に合わせて一旦帰国していたかも知れないが、シリーズ終了後は、再び米国に戻った確率が高いように思う。力道山が存命、かつ豊登が脇を固めていれば、通常の国内シリーズに馬場を投入しなくても興行面での不安はない。
むしろ当時の力道山の悩みは、上述のプロレス以外の事業における資金繰りにあったのではないか。回収に時間のかかるゴルフ場や総合レジャーランド開発を進めるには、当面は稼ぎ頭であるプロレス関連のキャッシュフローを当てにするしかない。
プロレス興行を安定的に継続する上で欠かせないのが、来日する外国人レスラーに支払うギャランティーの調達である。当時の米ドルは兌換紙幣であり、金(ゴールド)とリンクしている事から、発行額も自ずと限りがある。現代の感覚からすると実感しにくいが、当時米ドルを現金で準備するのはハードルの高い難行だったのだ。*1)
日本プロレスが、外国人レスラーに支払うドルを調達するためにいわゆる闇の両替所を利用していた事は、後に多くの関係者が証言している。当時
円ドルレートは360円で固定されていたが、闇ドルの場合は1ドル380円〜420円だったとされる*2)
何よりも「闇」という以上これは違法であった。
このリスクを低減するためだろう、力道山は自らが米国で稼いだドルを現地の銀行に預金し、外国人への支払いに充てていたという。厳密には、当時米国非居住者に対しては口座を維持するにあたって種々制約があった筈だが、闇ドルを扱うのに比べるとリスクは格段に低い。
力道山はこの手法を、馬場(が手にしたドル)に対しても適用した。馬場は自著の中で、渡米武者修行から帰国した後、米国での稼ぎがいくらになったか力道山に教えられたと記しているが、この時一定の金額を支給され「残りは俺に貸しておけ」と言われたという。このドルは、外国人レスラーへの支払いに充当され、周り回って、力道山の事業資金に姿を変えていたと考えるのが自然だろう。
力道山にとって、馬場は貴重な外貨を稼いでくれる得難い存在であった。馬場の主戦場は米国にし日本にはビッグマッチに合わせてスポット参戦という絵を力道山が描いたとしても不思議ではない。
一方の馬場にとっても、これは悪い話ではなかっただろう。力道山の死後、米国への定着と帰国の狭間で、馬場の気持ちが大いに揺らいだという話しは、自伝をはじめ様々な媒体で触れられている。ちなみにこの時慰留にあたったグレート東郷から提示されたとされる条件(年収)は手取りで27万ドル。*3)破格というよりも、いささか現実味を欠いているように思えるが、仮に「話し半分」ならぬ1/3であっても十二分に魅力的である。
1964年当時の馬場は、年明けに26歳になったばかり。日本プロレスの絶対エースとして君臨するという未来と引き換えに、全米を股にかけトップレスラーとして活躍、たまに日本のファンへの顔見せのため里帰りするというスケールの大きなライフスタイルが実現するとしたら、本人ならずとも迷って当然だろう。
米国長期滞在が実現していたら、馬場は当時の4大タイトル(NWA、AWA、WWWF、WWA)を
手中にしていただろうか? 64年当時のNWA王者はバディ・ロジャースからルー・テーズに代わって一年が経過した頃であり、馬場が次期王者となる絵は想像しにくい。AWAはバーン・ガニア
マッドドッグ・バションの二人を軸に、短期間で王者が交代してはいたが、このラインに馬場が絡むというのも不自然な気がする。一方でWWWF、WWAは十分に可能性があったように思う。特にWWWFは短期ではなく、70年代後半のビリー・グラハムのように、ヒール王者として、一年前後ベルトを保持する事もあり得たのではないか。
もしそうなっていればサンマルチノにとっては良い中休みとなり、結果として人間発電所の選手寿命も延びていたかもしれない。
さて、馬場にとって理想的な長期米国サーキットだが、果たしてどれくらい続いていただろうか。多角的な事業経営に加え、政界進出にも意欲を示していた力道山が、レスラーを引退する時期を1967〜68年あたりと仮定すると、そのタイミングに合わせての帰国は現実的に考えられる。猪木の角界からの復帰時期も一つのポイントだろう。時期は数年遅れても、BI砲が日本マットで結成されていた可能性は十分残されていたように思う。
もしくは、日本マット界のエースは猪木一人に任せ、馬場は「グローバル要員」として、より長期間米国を転戦するというオプションもあり得たかも知れない。リキ・エンタープライズが出資していたゴルフ場を始めとするレジャーランド開発は規模が大きく、利益を生み出すまでに相応の時間を要したとされる。仮にそれが10年近くかかったとして、馬場は30代半ば前後。NWA初戴冠が1974年の暮れ(37歳の誕生日直前)だったことを思えば、その頃まで米国でトップレスラーの地位を維持するだけの体力と人気は十分に保っていたのではないか。
その頃、アメリカではちょうどアンドレ・ザ・ジャイアントが台頭してくる。新旧ジャイアント対決、或いはタッグ結成で1〜2年程度の花道を飾りつつ、米国マット界の第一線からゆっくりフェードアウトしていく…かつての馬場は、現役引退の年齢を38歳と想定していたというが、仮に上記のようなキャリアの形成、及びフィナーレが実現していたとしたら、一選手としては最高に充実したプロレス人生といえるのではないか。
「翔平」の上陸に先んじること半世紀、米国全土に16文の足跡を残したであろう「正平」。
長い初夢をもって、馬場シリーズのラストとしたい。
*1)当時、海外から招聘した芸能人、スポーツ
選手等に対する報酬は円建てが原則であった
が、通貨としての信用度の問題から、外国人
達はほぼ例外なく米ドルでの支払いを求めた
という。(リングアナウンサー小松敏雄氏の
証言(「永遠の力道山」大下英治著)
*2)適用レートについては証言者によって異なる
・420円/ドル:小松敏雄元リングアナ
(「永遠の力道山」/大下英治)
・400円/ドル:原章・元NTVプロデューサー
(GスピリッツVol.71インタビューより)
・380円/ドル:三澤正和・元日プロ経理部長
(GスピリッツVol.72 インタビューより)
調達場所に関しても、横浜の進駐軍相手の
バー(小松氏)、立川の米軍基地(三澤氏)
上野・アメ横(元力道山秘書・長谷川秀雄
氏、リキ・エンタープライズ総務担当・三浦
治子氏)、沖縄(三澤氏、岩田浩・元日プロ
営業部長)など複数証言あり。
*3)・GスピリッツVol.31 グレート東郷
「銭ゲバ」と罵られた男の戦前・戦後史
/小泉 悦治
「馬場戦記」/流智美
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