初めての挑戦者にルー・テーズを迎え、華々しく全米防衛行脚を開始したジャック・ブリスコ。
その対戦相手、そして転戦したテリトリーはどこだったか? Wrestlingdata.comで調べてみた。
二年半に及ぶブリスコ在位期間の全てを網羅するのは手に余るので、追ったのは、王座奪取以降1973年の年末まで。期間でいえば僅か半年弱だがその間にタイトルマッチだけで実に87試合(!)をこなしている。対戦相手、参戦した地区は以下の通りだが、当時のNWA内の勢力図や趨勢が垣間見えて面白い。
【対戦相手十傑(タイトルマッチ数)】
1)ドリー・ファンク・ジュニア(9)
2)ジョニー・バレンタイン(5)
ハーリー・レイス(5)
アブドーラ・ザ・ブッチャー(5)
5) テリー・ファンク(4)
ルー・テーズ(4)
ホセ・ロザリオ(4)
イワン・プトスキー(4)
バディ・コルト(4)
スパイロス・アリオン(4)
【テリトリー(タイトルマッチ数)】
1)フロリダ(CWF) (19)
2)豪州・NZ (14)
3)テキサス東部(BTW) (13)
4)テキサス西部(WSS) (11)
5)カロライナ(JCP) (8)
ジョージア (8)
7)アラバマ (3)
オレゴン (3)
9)セントルイス (2)
テネシー (2)
トロント (2)
12)セントラルステーツ (1)
バンクーバー (1)
まず対戦相手だが、複数のテリトリーでチャレンジしている「全国区」の挑戦者と、ご当地限定のレスラーに二分された。前者がジュニア(5地区)レイス(4地区)バレンタイン、テリー(3地区)、テーズ(2地区)、後者がブッチャー、アリオン(豪州・NZ)ロザリオ、プトスキー(ダラス地区)、バディ・コルト(フロリダ)である。

面白いのは、この半年弱の期間に限って言えば、各地区共にチャレンジャーの人選に苦慮している
気配が窺えること。アンドレ・ザ・ジャイアントが全国区のアトラクションとして、ビンス・マクマホンから各テリトリーに向けて本格的にブッキングされるのも、ダスティ・ローデスがベビーフェイスに転向するのも、リック・フレアーが カロライナに定着するのも、ディック・スレーター、ボブ・バックランドが台頭し始めるのも、全て翌年以降の事である。テッド・デビアス、エリック兄弟、ブルーザー・ブロディはこの時点でまだデビューしていない。
次にブリスコの防衛戦をテリトリー別に見ると、
やはり、というかボスであるエディ・グラハムの地元・フロリダ地区が圧倒的に多く、全体の二割を超えている。毎月選手権試合が開催されたのはフロリダのみであった。対照的なのが前チャンピオンのレイスを擁していたセントラル・ステーツ地区で、ブリスコの出場は僅か一回のみ。(9/20カンザスシティでのレイス戦)このあたり、プロモーター間のパワー・ゲームは熾烈かつ露骨である。*1)
西海岸地区では、チャンピオンが派遣されたのは
ドン・オーエンが主宰するオレゴン地区のみ。
ロス地区(マイク・ラベール)とサンフランシスコ地区(ロイ・シャイアー)にはブリスコは登場していない。デトロイト(エド・ファーハット)
オクラホマ・ルイジアナ地区(リロイ・マクガーク)も同様である。
フロリダに次いで多かったのが、当時ジム・バーネットがプロモートしていた豪州(WCW)と、隣国のニュージーランド。*2)新チャンピオンを戴冠早々の8月、更に11-12月にかけて二回に渡り招聘している手腕は特筆されるが、これについては後述する事情も絡んでいるかもしれない。一回目はアリオン、二回目はブッチャーが連続挑戦しているが、前者はブリスコがヒール役、後者ではベビーフェイスを務めたと推測される。

テキサスは広大な州だけに、テリトリーは二つに大別されていた。フリッツ・フォン・エリック(ジャック・アドキッセン)が主宰するビッグ・タイム・レスリング(BTW)はダラス、フォートワース、オースティンに加え、ヒューストン、サンアントニオ、コーパスクリスティなどの大中都市を擁するビッグテリトリー。(ヒューストンは当時からポール・ボッシュが仕切る独立区の趣きが強く、サンアントニオ、コーパスクリスティも後年は地元のジョー・ブランチャードがアドキッセンと袂を分かち、サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング〔SCW〕として別派扱いになるが、1973年当時はBTW傘下にあったという認識の下、一つのプロモーションとして集計した)
ブリスコに挑む挑戦者としては上述の通りロザリオ、プトスキーの出番が多いが、時代的にフリッツと息子達の端境期であり、後年ダイナミック・デュオとしてヒューストンとSCWでヒール人気を博するタリー・ブランチャードとジノ・ヘルナンデスもこの時点ではプロ入りしていない事から、必然的にベテラン勢に頼らざるを得ない事情が窺える。
一方、西テキサスを地盤とするアマリロ地区(ウエスタン・ステーツ・スポーツ=WSS)における挑戦者の顔ぶれは、ジュニア(4回)を筆頭に、テリー、レイス、マードック(各2回)、リッキ
ー・ロメロと、東テキサスに比べ充実しているが大会場がエル・パソ、ラボックなど一部に限られ入場料も他地区に比べると安い(リングサイドが3〜3.5ドルとフロリダに比べ3〜4割廉価)事からNWA内における「序列」は、徐々に微妙なものになっていく。

南北カロライナとバージニアを本拠とするJCP(ジム・クロケット・プロモーション)は4月に
ジム・クロケット・シニアが逝去したばかりで
この時期は娘婿のジョン・リングレーが後任として陣頭指揮を執っていたと思われるが、挑戦者はジョニー・ウィーバー(3回)、オレイ・アンダーソン、リップ・ホークなど、ややパンチに欠ける顔ぶれである。カロライナ地区が大きく変貌して
NWA内で1、2を争うマーケットとなるのは、丁度この時期、首の負傷でレスラーを引退してカロライナに定着するジョージ・スコットがブッカーとして手腕を発揮し始めてからだろう。リック・フレアーがAWA地区から転入してくるのが翌74年。最終的にJCPはNWAから転じたWCWの母胎にまで発展する。
意外なのは"NWAの総本山"、セントルイスにおける防衛戦が僅か二回と極端に少ないこと。ブッキングの回数で見ると、アラバマやオレゴン(共に3回)の後塵を拝している。ブリスコ戴冠以降、73年下半期に8回開催されたキール定期戦の内、新チャンピオンが出場したのは10月5日(ジン・キニスキー戦)と11月17日(テリー・ファンク戦)のみ。通常ならこの期間に少なくとも4回はNWA世界戦となるペースなので、明らかに落ちている。
この73年の後半、チャンピオンが出場しなかった6回のキール定期戦の内、2回はブリスコの豪州・NZサーキットと被っているが、これはサム・マソニックが自ら忖度してジム・バーネットに譲った可能性もある。
というのも、同年夏に開催されたNWA総会で、バーネットは翌74年に米本土に復帰するプランを公けにしており、その復帰先が当時レスリング・ウオーの最中にあったジョージアであったからである*3)会長のマソニックとしては、NWAの愁眉を開いてくれるであろうバーネットの「英断」に対し、世界チャンピオン・ブリスコのブッキングを事前に譲る事で、感謝の意を表したのかもしれない。
事の真相は藪の中だが、いずれにしても、全体を俯瞰した采配を振るえる人物はマソニック老をおいて他に見当たらなかった。2年後の1975年夏に彼が会長職を退いてからは、組織のガバナンスは急速に脆弱化していく。短期間の「ベルトのキャッチボール」が常態化するのもこの時期であった。
考えてみると、この1973年は第四次中東戦争に端を発する石油ショックが起こった年でもある。
原油の高騰は車社会アメリカにおける市民生活を直撃した。加えて長期化するヴェトナム戦争は国全体の経済を疲弊させ、政府は大幅な支出削減を余儀なくされる。この余波を大きく受けたのは、経済規模の小さい地方都市であり、数年の間には
レスリング・ビジネスにも少なからず影響を及ぼすようになる。1970年代半ば以降、かつて米国・カナダ合わせて30近く存在したとされるプロモーションの減少が顕著になっていくが、そういった視点から見ると、この1973年という年は、色々な意味で過渡期の最中にあったという印象が残る。
新チャンピオン・ブリスコの船出は、米国社会の大転換期、そして皮肉にも「大NWA」の終わりの始まりの時期とシンクロしていたのかもしれない
*1)近い内に、前チャンピオン・レイス政権時の
挑戦者・テリトリーと比較検証してみたい。
恐らく転戦先、挑戦者の人選共に、相当な
違いが出る筈である。
*2)正確にはニュージーランドのプロモーターは
スティーブ・リッカードだが、NZでは豪州で
収録された試合を放送しており、米本土など
他地区から参戦するレスラーもその大半が
バーネットの招聘によるものと思われる事
から、ここでは豪州・NZをセットでカウント
した。
*3)G-Spirits Vol.57 「NWA年次総会の中身」
ジョージア地区においては、元々レイ・ガ
ンケル、エド・ウェルチ(バディ・フラー)
の二人が大株主だったが、ガンケルが1972年
に急逝して以来、ガンケル未亡人一派と、
フラー及びフラーに加担したエディ・グラハ
ムらNWA主流派の間で興行戦争が続いていた
バーネットは両派から興行権を買い取る形で
騒動を鎮静化させたと言われている。
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