日本マットがオープン選手権と猪木-ロビンソン戦で沸いていた1975年の暮れ、海の向こうのアメリカでも大きな変動があった。12月10日、フロリダ州マイアミのコンベンション・ホールでジャック・ブリスコを破ったテリー・ファンクが新チャンピオンの座に就いたのである。兄のジュニアはこの朗報を力道山13回忌記念試合が行われた日本武道館の控室で聞いたという。
新チャンピオンとしてブリスコのスケジュールを引き継いだテリーは、早速翌11日にカンザスシティでジェリー・オーツを相手に初防衛戦。この試合以降、年末まで13試合に出場しているが、全てタイトルマッチである。
一方、11日に蔵前で猪木との名勝負を終えたロビンソンは13日にAWAシカゴでラリー・ヘニングと組んでバリアント兄弟と対戦、16日からフロリダ(CWF)に戻り、同日タンパでザ・デストロイヤーから南部ヘビー級王座を奪取、以降約半年の間、同地区に腰を落ち着ける。
日本遠征で膝を負傷したロビンソンにしてみれば、真冬に北部中心のAWA地区をサーキットするよりも、常夏のフロリダの方がコンディションを整えやすかったことは言うまでもない。一方で、前年11月にバーン・ガニアがニック・ボックウィンクルにAWA王座を明け渡していることを思えば、この時点で第一コンテンダーとして同地区に復帰しなかったのは一つの疑問ではある。これについては後ほど改めて触れたい。
ロビンソンとテリーの初対決は年が明けて早々の
1月6日、タンパのフォートホーマー・ヘスタリー・アーモリーで実現する。結果は60分フルタイム戦っての引き分け。フロリダ地区はスタジオで行うTVマッチだけでなく、タンパ、セント・ピーターズバーグ、マイアミ、オーランドなどの主要都市で行われた試合動画が割と残っているがこの一戦に限らず、ロビンソンとテリーの試合を収録したフィルムは現存しないようで、残念ながら観ることが出来ない。
昨年暮に出版されたG-Spirits70号(テリー追悼号)で、小泉悦次さんが、テリーのシングルでのフルタイム戦はイメージしにくい、という主旨のことを書かれていたが、同感である。相手がロビンソンとなれば尚更であり、どのような試合展開だったのか見当がつかない。それだけに、例え5分程度でも映像が残っていればと思うのだが…。
一つ言えるのは「時と所が変われば、自ずと試合展開も変わる」ということである。ロビンソンもテリーも、当時のフロリダにおける立ち位置やキャラは日本のそれとは違っていた筈で、二人のプロとしてその場に相応しい試合をしたのだろう。フロリダにおける両者の対戦は、初対決から3月にかけて計5試合行われており、内2試合が時間切れという記録が残っている。(NWA王座を巡る二人の最後の試合は11月16日ルイジアナ州シュリブポートで行われ、結果はテリーの反則負け)
フロリダ地区におけるロビンソンの長期サーキットは6/17で終了したが、この間同地区での対戦相手は、アマリロから転戦しWWWFに入る直前のフランク・グーディッシュ(2〜3月にかけて計8試合)、キング・カーティス、キム・ドク、パク・ソン、ジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス、ミズーリ・モーラー、ジェフ・ポーツ、ボブ・オートン・ジュニアなど多岐に渡る。上述の南部ヘビー級王座の防衛戦も多く、相応のポジションで遇されている様子が伺える。翌77年3月、マイアミでジャンボ鶴田を相手にUN王座防衛戦を行った時は1試合のみのスポット参戦だったが、76年前半の長期滞在を通じてフロリダにおけるロビンソンの知名度が高かった事を思えば合点がいく。
鶴田といえば、フロリダを切り上げたロビンソンが次に出場した6月19日コロラド・スプリングス大会の対戦相手が、他ならぬTommy Tsurutaであった。翌月から全日本のサマー・アクション・シリーズ参加が決定していたロビンソンは、来日直前に再びファンク王国に短期参戦し、日本から遠征していた鶴田と初顔合わせ、この日以外にも6/22オデッサ、24アマリロと、計3試合シングルで対戦した他、23日アビリーンではタッグも結成している。「試運転」という言葉がこれほど似合うマッチメークもなかなか見当たらない。
サマー・アクション・シリーズ福岡大会(7/17)で鶴田と対戦、60分(+延長5分)の時間切れで引き分けたロビンソンは、一週間後の蔵前国技館(7/24)で馬場のPWF王座に挑戦、軍門に降る。
帰国後の翌8月はまるまるオフに充てたのか、ロビンソンの試合記録は見当たらない。9月にフロリダで短期サーキット、8試合のみこなした後は
10月から翌2月までルイジアナ、オクラホマを中心にしたビル・ワット(当時はレロイ・マクガーク)ランドに入り、合間の11〜12月には全日本の
スーパーパワー・シリーズに参加している。
結局、この1976年にロビンソンがAWA地区のマットに上がったのは暮れも押し詰まった12月26日、ミネアポリスでの6人タッグ一試合のみであった(ガニア、ロビンソン、ラリー・ヘニングvs
ニック、ブラックジャック・ランザ、ボビー・ダンカン)一年の大半を、全日本を含むNWA地区で過ごしたことになる。
結果論と言えばそれまでだが、前年暮れあたりからロビンソンが参戦したテリトリーを並べて見ると、アマリロ→新日本→フロリダ→アマリロ→全日本→フロリダ→ルイジアナ/オクラホマとなり、
新日本だけが明らかに「異質」なことに気づく。
新日本に戻ることなく、この年AWA地区とも距離を置き続けたロビンソン。本来であれば、ヒールのチャンピオンであるニックに対し、前王者のガニアと並び、何度も挑戦して然るべきところである。結局ニックへの初挑戦は、これもスポット参戦である77年1月16日のミネアポリス大会(反則勝ち)、悪党王者の戴冠から実に一年以上が経過していた。
何でも日本のファン目線で断じてしまうのはナンセンスだが、当時のロビンソンに関して言えば
日本マットの様々な事情が、結果として新日本との訣別、AWAとの疎遠な関係に繋がったような気がしてならない。年齢的、肉体的なコンディションに関しても極めて微妙な時期であり、もとより良い、悪いの問題ではないが、稀代の名レスラーのアメリカでのキャリアを総括する上で、異彩を放つターニングポイントとなったのがこの年であった事は疑うべくもないだろう
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