「新・ライレージムへの道」はじめました
- Riley's Gym Kyoto

- 1 日前
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「ランカシャー・レスリング/キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」、「蛇の穴ビリー・ライレー・ジム」
昭和40〜50年代、日本が“プロレス黄金時代”と呼ばれていた頃、プロレス中継や専門誌で頻繁に語られていた言葉である。
昭和44年に放送が始まったアニメ『タイガーマスク』に登場するレスラー養成機関「虎の穴」も、この“蛇の穴”がモデルになったと言われている。

それは、このジムの出身であり“プロレスの神様”と呼ばれたカール・ゴッチ の存在にある。
ゴッチは、アントニオ猪木を筆頭に、藤原喜明、佐山聡、前田日明、高田延彦、船木誠勝 らに“蛇の穴”の技術を伝えた人物である。
そのことが、モハメド・アリ戦などの、猪木の異種格闘技戦、シューティング(現・修斗)とパンクラス、日本における総合格闘技(MMA)誕生にも大きな影響を与えた。

また、ゴッチの弟弟子で“人間風車”の異名を持つ ビル・ロビンソン は、昭和43年に初来日。
当時の日本のプロレスファンが見たこともない“蛇の穴”の華麗なテクニックを披露し、多くのファンを魅了した。
中でも昭和50年のアントニオ猪木戦は、日本プロレス史上屈指の名勝負として今なお語り継がれている。
そして2000年代、総合格闘技(MMA)の時代が到来すると、ロビンソンは、今度はコーチとして注目を集めた。

しかし、その“蛇の穴”が存在したイギリス・ウィガンで、現地取材が行われたり、創設者ビリー・ライレーの詳細なプロフィールが、プロレス誌に紹介されたりすることは、ほとんどなかった。
日本のファンが知る“蛇の穴”の情報源は、来日していたゴッチやロビンソンの証言だけだったのである。そのため、 “蛇の穴”ビリー・ライレー・ジムは、ファンの想像の中で神秘化され、伝説となっていった。
昭和末期になると、その名は次第に聞かれなくなっていったが、2000年以降、総合格闘技ブームの中で、桜庭和志やジョシュ・バーネットなど、キャッチ・レスリングをベースとした選手たちが活躍したことで、「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」、「蛇の穴」の名は再び広まっていった。

私自身、「ランカシャー・レスリング/キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」と、自分のジム「ライレージム京都」を紹介する目的で、2008年からブログ『ライレージムへの道』を、のんびりと書き始めました。無駄に時間はかかりましたが、2013年にひとまず書き終えました。
しかし、それからさらに10年以上が経ち、世の中も、プロレス・格闘技界も、大きく変わりました。ジムに入会する人たちの目的や憧れの選手も、時代とともに変化しています。
また、歴史に対する認識も、世代によって大きく異なることを実感しています。
私が初めてイギリスへ渡り、ビリー・ライレーの後継者であるロイ・ウッドに師事し、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングを学び始めたのは1993年。まだ総合格闘技や柔術ブーム以前のことでした。
当時の日本には、柔道場や空手道場はあっても、現在のように誰もが気軽に格闘技を学び、試合を楽しめる環境はなかった。
今の時代に格闘技を楽しむ世代にも知ってほしい。現在のように、洗練された技術を誰もが気軽に学べる環境が、いかにして築かれてきたのかを。
そして私と同世代の昭和プロレスファンには、懐かしさとともに、当時の雑誌にも書かれず、インターネット時代になってもなお語られることの少ない、“蛇の穴”の真の姿を知っていただきたい。
それは、ランカシャー“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”レスリングの伝承と普及のため、“ライレージム”の名を与えられた者としての使命でもあると思っています。
私にしか書けないことがたくさんあります。 時間はかかるかもしれませんが、これから少しずつ、“蛇の穴”の真実を書き残していきたいと思います。気長にお楽しみいただければ幸いです。

次回、まずは「聖地ウィガンの現在」をご紹介します!


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