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昭和プロレス懐古 & 現代プロレスの原点ランカシャー・レスリング
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週刊 昭和プロレス
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超新星🌟の岐路
昭和のプロレスをテーマに、約一年前から私的な思い入れを綴ってきたが、一応年内を目処に全50回で完結したいと思っている。この機会に、まだ登場していないレスラー、試合、事件などについて改めて振り返った結果、ボブ・バックランドのことが頭に浮かんできた。今回は日米における超新星伝説について振り返ってみたい。 1949年生まれのバックランドは、スタン・ハンセン、リック・フレアーと同い年だが、1983年暮れ6年近く保持していたWWF王座から転落して以降目立った活躍がないまま、やがて静かにマット界からフェイドアウトした。そのためかハンセン、フレアーに比べるとレジェンド感は少ないが、全盛期の充実ぶりは際立っている。 バックランドのデビュー戦は、1973年10月22日 ルイジアナ州シュリブポートで行われたロン・スターとの一戦。当初は毎日試合が組まれず、車の中で寝起きする生活だったが、翌年春、アマリロ地区への転戦がきっかけで開眼する。 1974年3月4日、バックランドは同地区のゲートキーパー的存在だったミスター・レスリング(ゴードン・ネルソン)と対戦、勝利を収めた。
Satom
2025年11月16日読了時間: 12分


超人神話のプロローグ
ハルク・ホーガン死去のニュースを見てからまだ一週間しか経っていない。ちょうど一年前の7月米大統領選を数ヶ月後に控えた共和党の党大会に登場し、トランプ候補(当時)の横でTシャツを破き健在ぶりを示していたが…享年71歳。 前回のハンセン、ブロディに続いて連続でニューヨークが舞台となるが、今回はホーガンのMSGデビューの際の話しを中心に記したい。 ホーガンのMSG初登場は1979年12月17日、相手は同年春からWWF(当時)で中堅のポジションにいたテッド・デビアスだった。試合は20分一般勝負で行われ、シュミット流バック・ブリーカーからベア・ハッグでデビアスを捕らえたホーガンがギブアップを奪い、勝利を飾る。 白づくめのスタイルでMSGデビューを飾ったホーガン。この試合に先立つトライアウトのTVマッチではロングタイツ姿だったがここではショートで登場。1980年代目前、「超人」の躍進はここから始まった この日は年内最後のMSG定期戦とあって、豪華なカードが目白押し。WWFと提携していた新日プロからも猪木、藤波、坂口、長州の四人が参戦したほか、WWFチャンピオ
Satom
2025年8月1日読了時間: 6分


超獣コンビ@WWWF ---後篇
前回は、東部のメジャー団体WWWFに初進出したハンセンが、MSGデビュー戦でいきなりサンマルチノの首を負傷させ、長期欠場に追い込んだところまで記した。 サンマルチノ自身の取りなしもあって、同地区からの追放は逃れたハンセンだったが、翌日からはファンのブーイングは勿論、鉄板のベビーフェイスたるサンマルチノの不在により、観客減を懸念するプロモーターのマクマホン、仲間のレスラー達の非難の目に耐えつつ、試練のサーキットを続けることになる。 サンマルチノの復帰戦は、6月25日、ニューヨーク、シェイ・スタジアムにおけるビッグマッチに決定する。当日はモハメッド・アリとアントニオ猪木が合いまみえる世紀の一戦をクローズド・サーキットで中継するほか、スタジアムではアンドレ・ザ・ジャイアントとチャック・ウェップナーの対戦が早々に告知されていた。しかしサンマルチノの負傷が深刻で、当日の出場が不安視されたことからチケットの売れ行きは期待に反して鈍かったという。 当日の観客動員を万全にするためには、絶対的なヒーロー・サンマルチノの参戦は不可欠、そして復帰戦の相手としては必然的
Satom
2025年7月18日読了時間: 10分


超獣コンビ@WWWF
「超獣コンビ」というネーミングが日本で定着したのはいつ頃だったろうか? 1981年の暮れにスタン・ハンセンが全日本へ電撃移籍を果たし、翌82年春にブルーザー・ブロディとのタッグが日本で初めて実現してからの呼び名であることは間違いなさそうだが、日本テレビの中継(倉持アナ実況)では主に「ミラクルパワーコンビ」と呼ばれていたような気もする。 ということは「超獣コンビ」の方は主に活字で目にしていたのかもしれないが、いずれにしても記憶が曖昧で思い出せない。 今回レビューしたいのは、日本での再合体から5年遡った1976年のハンセンとブロディ。舞台はニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンやボストン・ガーデンなどの大会場を擁する、米国東海岸のメジャー団体WWWFである。 前年(75年)までビル・ワットの仕切るトライステート地区でタッグを組んでいた二人だが、夏にはチームを解消。ハンセンは短期のアマリロを挟んで秋に全日本→年末・年始にかけダラス、ブロディ(フランク・グーディッシュ)は秋にアマリロ→翌76年初めにフロリダと、それぞれ別コースを転戦する。.
Satom
2025年7月7日読了時間: 10分


アマとプロの垣根---後篇
先回は、アマチュアレスリングの強豪選手を輩出している米国・オクラホマ州において、ディック・ハットン、ダニー・ホッジと並び称されるレジェンド・上武洋次郎氏について触れた。オクラホマ州立大(OSU)に1964〜66年の三シーズン在籍、途中東京オリンピックでの金メダル獲得を挟み、フリースタイル・バンタム級において57勝0敗という驚異の戦績を記録した上武氏は、そもそもなぜ同大に籍を置くようになったのか? 2012年に刊行された「日本レスリングの物語」という本の中で、OSUと日本の縁が詳らかにされている。以下、本編で記すことの多くが本書及び、同じく2012年発売のFight&Life誌(Vol.31)からの引用であることを、予めおことわりしておく。 「1964年のジャイアント馬場」「1976年のアントニオ猪木」「1985年のクラッシュ・ギャルズ」を著した柳澤健さんの快作。嘉納治五郎の秘書だった八田一郎が講道館から独立して、日本にレスリング競技を根付かせるまでの黎明期と東京五輪で大輪の花を咲かせるシーンが特に読み応えあり。妙な喩えだが古事記に代表される日本神
Satom
2025年7月1日読了時間: 9分


アマとプロの垣根
"プロのレスラーなら誰しも、マット上で敵と対峙する勇気がある者に対して、大いなる尊敬の念を持ち合わせている。勝敗は関係ない。 一方でリングに上がる者が、プロレスをアマの延長として捉える事は決してない。それらは全く異なるものだ。プロレスラーも、アマレスラーもそして(確信には至らなくても)ファンもその事を承知している。別にプロがアマを見下すようなこともない。ただ競技(competition)とエキジビションの違いを認識して、それぞれを楽しもうとするだけだ" 上記コメントは、以前何度か紹介したジャック・ブリスコの自伝(口述筆記)「BRISCO」からの抜粋である。 ブリスコは同書の中で、アマチュアの頂点を極めることと、プロの世界でトップに立つことは全く異なるものであると再三強調しているが、一プロレスファンたる私の理解もほぼ同様であった。 その意味で、少なからず驚いたことが二つある。私の認識不足で事実関係をわきまえていなかっただけの事だが、目から鱗の思いであった。 一つは、永年テレビ朝日のプロレス中継「ワールド・プロレスリング」を担当されていた往年の名ア
Satom
2025年6月21日読了時間: 5分


アメリカン・ドリームの原像と原罪
1970年代後半から80年代前半にかけて、米国内で最高の人気を誇ったレスラーは誰か? 当時リアルタイムで雑誌、テレビなどを見ていた世代であれば、割と迷わずに答えるような気がする。出てくる名前は、やはりダスティ・ローデスだろう。 一世代前の超人気レスラー、ブルーノ・サンマルチノがイタリア系アメリカ人からの絶大な支持を得ていたのに比べると、ローデスの場合は特定のエスニック・グループに限らず、幅広い支援層が 広がっていたように思う。 かつてアメリカのプロレス雑誌にはレーティングス欄が設けられていた。各タイトルへのコンテンダーをはじめ、人気・不人気が一目瞭然となるなかで、ローデスは常に人気部門の上位を占めていた。上は1977年、下は1983年のレーティングスより抜粋 1960年代末のデビュー以降数年間は、ディック・マードックとのテキサス・アウトローズに見られるようなヒール役が定番だったローデスだったが転機となったのは1974年5月14日、フロリダ州タンパで行われたタッグマッチだった。 プロモーターのエディ・グラハムと息子マイクの親子チームと対戦したローデ
Satom
2025年6月15日読了時間: 6分


パパは喧嘩屋&シューター
今年のWWE 殿堂入りメンバーに、ドリー・ファンク・シニアがジャイアント・カマラ、イワン・コロフと共に選出された。ファンク兄弟は揃って2009年に栄誉を受けており、息子達から16年遅れての快挙となる。セレモニーの様子は動画で配信され、会場にはテリーの娘さん二人(ステーシィ、ブランディ)も姿を見せていた。テリーが生きていたらさぞ喜んだことだろう。 亡くなったのが1973年6月3日なので、日本風に言えば3年前が「50回忌」だったことになる。自宅の牧場「フライング・メア・ランチ」でレスラー仲間を招いてのバーベキュー・パーティーのあと 余興のレスリングに興じた事が災いして心臓麻痺を起こし、アマリロの病院に向かう車中で息を引き取ったと言われている。 相手は当時アマリロ地区に参戦中だったゴードン・ネルソンとレス・ソントンだったというが、いずれも本物の強さを持ったレスラー。酒の入った状態で、シニアが顔を真っ赤にして、強豪二人を立て続けにねじ伏せた、というのが最後の武勇伝となってしまった。 当時54歳にしてそのような「無茶」をするくらい シニア自身、自らの腕には
Satom
2025年6月6日読了時間: 7分


美獣の五十七日
五月は新緑が本格的になるほか、天候も変動が多い。月初めはまだ肌寒いが、月末には汗ばむ陽気に加え湿度も上がり、梅雨の気配が漂ってくる。 変動といえば、世界最高峰のNWA世界王座を 四年以上にわたり堅守していたドリー・ファンク・ジュニアが敗れる、という波乱のニュースが伝わってきたのは、ちょうど日本の気候が大きく移り変わるこの時期、1973年(昭和48年)5月末の事であった。 新王者は"ハンサム"ハーリー・レイス。ジュニアの初来日時にポリスマンとして同行していた事もあり、ファンク一家の番頭格的な印象が強いが、米国ではジュニアの王者時代に互いの地元(テキサスと、アイオワ・カンザス・ミズーリ三州に跨る中西部)を舞台に何度も対戦、レイスがホームリングのカンザスシティで奪取に成功した時は、16回目の挑戦であった。 タイトル戦における両者のそれまでの対戦成績は、ジュニアの11勝4引き分け。この記録を見る 限り「第一コンテンダー」というイメージは薄いが、地元ではセントラル・ステーツ・ヘビー級のベルトを腰に巻いており、更に前年の1972年に新設されたミズーリ・ヘビ
Satom
2025年5月30日読了時間: 8分


会長の憂鬱
『サム・マソニックにNWA会長の座からお引き取り願い、レスラー出身のフリッツ・フォン・エリックを推挙したのは私たちのグループ(ガイゲル、ファンク一家、レイス、キニスキー、それにクロケット・ジュニアら)だった。マソニックは何事に対しても金を要求し過ぎるというのが、反感を買った理由だった』(「個性豊かなリングガイたち」ジャイアント馬場) 『サムのことは大好きだったし、亡くなってからもずっと尊敬している。しかし、一旦金が絡むと人は普段しないようなことまでやってしまうものだ』(「BRISCO」ジャック・ブリスコ) 日米のトップレスラー二人が、NWAのアイコン的存在であるサム・マソニックに対し、相当辛辣なコメントを残しているのはなぜか?経緯については後ほど述べるとして、まずは四半世紀近くにわたったマソニックの「会長」としてのキャリアを駆け足で追っていきたい。 トム・パックスが業界から撤退し、その後継グループも統合したNWA(アライアンス)は見る間に急成長、結成当初僅か5人だったメンバーは五年後の1953年には40名近くまで膨らんでいた。...
Satom
2025年5月24日読了時間: 11分


セントルイス興行戦争
プロモーターとしての第一歩を踏み出そうとした矢先、第二次世界大戦のお陰で思わぬ足踏みを 余儀なくされたサム・マソニックだったが、終戦に伴い、三年以上にわたった軍務から解放されたのが1945年の秋。すぐさまセントルイスに帰郷し年末には早速キール・オーディトリアムでカムバック興行を敢行している。この辺りの迅速な行動力と手腕はさすがという他はない。 プロモーター・マソニックの再始動を伝える、1945年10月25日付けSt.Louis Post-Dispatch紙。今回はミズーリ州からのライセンスも無事下りた事が記されている。地元での興行戦争が、これだけ微に入り細に入り、公に報道されていた事は意外であった。 年末興行にあたり、マソニックがレスラーの派遣を頼ったのは、カンザス州のプロモーターだったマックス・ボウマン。*1) 12月5日に開催された大会では全4試合が行われ、3771人の観客を動員した。キャパシティが一万人を超える大会場キールの入場者数としては少ないが、当時のマソニックにしてみれば、何はともあれ開催にこぎつけた事に意義がある、という心境だったの
Satom
2025年5月16日読了時間: 8分


反骨の漢 - サム・マソニック
"プロフェッショナル・レスリングは矛盾に満ちたビジネスだ。悪役は大方好人物である。ストラングラー・ルイスには品格があり、ディック・ザ・ブルーザーもジェントルマンだった。本当に汚い行為というものは、リング上ではなく、得てしてリング外で見られるものだ" 上記は、1981年11月19日付けSt.Louis Post Dispatch紙からの引用である。この記事は、セントルイスで数十年にわたりプロレス興行を主宰し NWA会長も長く務めたサム・マソニックのプロモーター業からの引退に際し書かれたものだが、そのタイトルは"A Guy You Could Trust"---信頼に足る者、となっており、プロレス界における氏の功績、存在感を端的に示している。 この記事を少し読んでみたが、冒頭近くで紹介されているエピソードの時代が1925年、つまり昭和元年にあたっている。今年は"昭和100年"なので、昭和のプロレスファンの方に向けた話しとしても面白いかと思い、今回はレスラーではないがサムマソニックを取り上げてみた。ご興味のある方はお付き合い願いたい。 ビル・マクレラ
Satom
2025年5月9日読了時間: 6分


疾風怒濤の荒法師-後篇
前回は、1960年代のキニスキーをカバーしようとしたが、その足跡が大き過ぎて一回ではとても収まりきらなかった。今回の後篇では、1963年から NWA世界王座戴冠までを一気に振り返ってみたい バディ・ロジャースを独占するフレッド・コーラーの一派に業を煮やしたカール・サーポリス(NWA会長兼アマリロ地区プロモーター)が独自認定した「世界王座」 そのチャンピオンに一定期間君臨したキニスキーだが、このタイトルはその後どういう運命を辿ったのか? 本情報自体は初出ではないが、結論から云うと、1963年3月28日アマリロ・スポーツ・アリーナでその年の初めにデビューしたばかりのルーキー、ドリー・ファンク・ジュニアがキニスキーを破って、新チャンピオンの座に就いている。 前日行われたファンク・ジュニア対キニスキー戦の結果を報じる、1963年3月29日付けAmarillo Globe-Times。一本目、スピニング・トーホールドを仕掛けたジュニアは、レフェリーの警告を無視して技を離さず反則負けを取られるが、ダメージの深いキニスキーはニ、三本目を放棄した、と記されている
Satom
2025年5月2日読了時間: 10分


疾風怒濤の荒法師
1960年代に入り、レスラーとして全盛期を迎えたキニスキーは、カナダを含めた全米規模で、その地位を不動のものにしていく。 しかし皮肉なことに、キニスキーにとって黄金の十年と総括してもよい1960年代は、物騒なアクシデントと共に幕を開けた。1961年の年明け早々、 1月3日にバンクーバーで行われたホイッパー・ビリー・ワトソンとの試合後、激昂したファンの一団がリングに雪崩れこみ、内一人が持っていたナイフでキニスキーの横腹を刺したのである。 試合後の事故の様子を伝える1961年1月4日付けNanaimo Daily News。試合は大英帝国ヘビー級王者ビリー・ワトソンにキニスキーが挑んだ一戦で、ワトソンが2-1で防衛を果たしている。見出しにある通り、"悪漢“キニスキーがカナダの大英雄ワトソンを相手にどんな凄い試合をしたのか、想像は尽きない 会場から直行した病院で治療を受けたキニスキーだったが、幸い傷は浅く入院はせずに済んだ。この事件の四日後の1961年1月7日に次男のニックが誕生、まさに波乱含みの1960年代のスタートであった。 ちなみにこの日の相手だ
Satom
2025年4月26日読了時間: 7分


「山猫」時代のキニスキー
昭和のプロレスファンにとって、ジン・キニスキーといえば、豊登、馬場、猪木、鶴田と激闘を繰り広げた大レスラーというイメージか強い。 1928年11月生まれで、1964年春のワールド大リーグ戦に初来日した時点で三十台の半ば。写真からもその貫禄と、超一流のオーラが伝わってきた。リング上でシュミット流バックブリーカーやジャイアント・スイング、キチン・シンクにニードロップといった豪快な立体技を駆使する姿についた異名が「荒法師」。イメージにピッタリの秀逸なネーミングには、今更ながらに感心させられる。 日本のファンから見れば最初から古豪的な印象が強いため、キニスキーのグリーンボーイ時代は想像し難いが、2019年出版のG-Spirits(vol.53) に掲載された流智美さんによる未公開インタビューではプロレス入り当時の話しが詳しく語られている。今回は本記録を基に、当時の新聞記事や試合結果を加え、改めて「ルーキー時代のキニスキー」を振り返ってみたい。 1953年12月16日付けArizona Daily Star紙に掲載されたデビュー二年目のキニスキー。
Satom
2025年4月18日読了時間: 6分


怪人の足跡
前回から時を遡って、プロレス入りする前のザ・シークと、リング生活前半のキャリア、及び強豪レスラー達との対決について触れてみたい。 その出自や、若き日のエピソードについては各種媒体で既に公にされているが、1926年6月7日イースト・ランシングでレバノン移民の家庭に誕生。本名エドワード・ファーハット。11人兄弟の10番目だった。デトロイト近郊という土地柄、一家は自動車産業関連の仕事に従事していたが、兄四人が米軍に勤務した経験がある事から、自身も入隊年齢に満たない頃から生年月日を詐称し、海兵隊入りを志願したという逸話が残っている。 18歳になって間もない1944年8月に、陸軍からの徴兵を受け入隊、第93装甲偵察部隊に配属される。所属部隊は1945年1月にフランス駐留米軍の支援部隊の一つとして派遣され、現地で指揮を振るっていたパットン将軍の傘下に入る。テキサス州のキャンプ・ボゥイでの訓練を終えたエドワードが同年4月、現地で部隊に合流した時、欧州戦線はベルリンにおける最後の戦いを迎えようとしていた。ベルリンは翌月、主に赤軍(ソ連軍)の猛攻撃により陥落するが
Satom
2025年4月11日読了時間: 8分


リアル・ブロンコバスター
前回の続きで、不慮の自動車事故によりルー・テーズとの世界統一戦のチャンスを失った悲運のレスラー、オービル・ブラウンについて書こうと思う。(尚ブラウンの経歴については、米国のプロレス歴史家・Steve Yohe氏の手記に負っていることを、予めお断りしておきたい) オービル・ブラウンは1908年3月10日、カンザス州シャロンで五人兄弟の末っ子として生まれた。父親のクラレンスはオービルが生後二週間の時に蒸発、残された母のエレンは年長の子供達の手を借りて家計を支えるが、オービルが11歳の時に病死。以降のオービルは、親戚の家を転々としながら少年時代を送ることになる。 預けられた先は牧場を営む農家が多く、牛や馬の世話に従事していたオービルは乗馬に熟練、ハイスクールを一年で中退し、ロデオ師となる。 カンザスや近郊の州を巡業し、18歳の頃にはブロンコ・ライディングとブルドッギングの両競技において名を馳せていたという。 ブルドッキングとは、馬を駆って牛を追い、馬上から牛の首に躍りかかって組み伏せるという勇壮な競技で、ご存知の通りプロレスの技にもなっている。1927
Satom
2025年3月28日読了時間: 8分


お宝ベルトの行方
Youtubeなどの動画サイトを流し見していると、しばしばもの珍しい映像に遭遇する。 添付の画像はAntiques Roadshowという長寿番組からの抜粋(2017年放送)だが、これは一般人が珍しいお品を持参して、専門家が値段を付けるという「お宝鑑定団」の西洋版のような企画である 中央に小さく写っているが、この時に出品された「お宝」は旧いチャンピオンベルトと写真類。 画面左側の男性が出品者だが、この方は「元NWA世界チャンピオン」オービル・ブラウンのお孫さんにあたる。 オービル・ブラウンと言えば、ルー・テーズとの 「NWAタイトル統一戦」(アソシエーション vsアライアンス)の直前(1949年11月)に、不慮の自動車事故で大負傷したレスラーだが、このブラウンが腰に巻いていたのが「ナショナル・レスリング・アライアンス」が認定した初代ベルト。 ナショナル・レスリング・アライアンス(NWA)といえば、1970年代から80年代にかけて、全日本プロレスのリングにおけるタイトルマッチ宣言で何度となく耳にしたキーワードであり、その名称には馴染みがあるが、なぜ
Satom
2025年3月21日読了時間: 9分


NWAの転換期
初めての挑戦者にルー・テーズを迎え、華々しく全米防衛行脚を開始したジャック・ブリスコ。 その対戦相手、そして転戦したテリトリーはどこだったか? Wrestlingdata.comで調べてみた。 二年半に及ぶブリスコ在位期間の全てを網羅するのは手に余るので、追ったのは、王座奪取以降1973年の年末まで。期間でいえば僅か半年弱だがその間にタイトルマッチだけで実に87試合(!)をこなしている。対戦相手、参戦した地区は以下の通りだが、当時のNWA内の勢力図や趨勢が垣間見えて面白い。 【対戦相手十傑(タイトルマッチ数)】 1)ドリー・ファンク・ジュニア(9) 2)ジョニー・バレンタイン(5) ハーリー・レイス(5) アブドーラ・ザ・ブッチャー(5) 5) テリー・ファンク(4) ルー・テーズ(4) ホセ・ロザリオ(4) イワン・プトスキー(4) バディ・コルト(4) スパイロス・アリオン(4) 【テリトリー(タイトルマッチ数)】 1)フロリダ(CWF)
Satom
2025年3月14日読了時間: 8分


「赤いベルト」と新王者
赤いベルトといっても、全女の話しではない。 前回ご紹介した「フライング・メア・ランチ」におけるアクシデントの煽りをくい、NWA世界王座への道のりを若干狂わされたジャック・ブリスコだったが、当初の予定から四ヶ月半後の1973年7月20日、ヒューストン・コロシアムでハーリー・レイスを破って念願のベルトを奪取する。 在位期間は、途中短期間の王座転落を挟んで、約二年半。1970年代の約1/4の間、栄光のベルトはブリスコの腰に巻かれていた。 ベルトと言えば、上述のヒューストンにおける試合の前に、リング上で赤いベルベットに彩られた新型ベルトがお披露目されている。当日「引退」した旧いベルトは、オコーナー以降、ロジャース、テーズ、キニスキー、ファンク・ジュニアへ連綿と引き継がれた、黒革の流線型で重厚な造りだったが、新しいベルトはそこから更に十数年に渡り「最強の象徴」として歴代チャンピオンの腰に巻かれる事になる。後に「レイス・ベルト」とも「テン・パウンズ・オブ・ゴールド」とも呼ばれ、日本のファンにも最も馴染み深かったと思われるこのベルトだが、この日、ヒューストンの
Satom
2025年3月7日読了時間: 4分
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Eメール: doryfunkjr69@gmail.com
事務局
TEL: (075)285-2403 (WWPクラブ)
〒607-8341 京都市山科区西野今屋敷町27-6
Eメール: rilygymkyoto@gmail.com
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