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昭和プロレス懐古 & 現代プロレスの原点ランカシャー・レスリング
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事故が変えたタイトル史
車社会と言われるアメリカでは、その分交通事故の数も多い。表題に付けた、プロレス史を変える程のインパクトのある自動車事故として最も有名なのは、第二次大戦から数年を経た1949年、オーヴィル・ブラウンが遭遇したものだろう。ルー・テーズとの世界王座統一戦を直後に控えていたブラウンは「世紀の一戦」を欠場した後負傷癒えず事実上の引退に追い込まれる。結果として、テーズは戦わずして「新NWA(アライアンス)」王座を手にする事になった。 最も新しいところだと、いつになるか?最近といっても、2000年代以降のアメプロの動きは殆ど不案内なので私見に頼ってしまうが、1986年にマグナムTA(テリー・アレン)がやはり交通事故でレスラー生命を絶たれている。当時のNWAは既にジム・クロケット・ジュニアの個人プロモーションと化していたが、仮にマグナムが現役を続けていればNWA王座を獲得していた事はほぼ確実視されており、この事故が(2年前のデビッド・フォン・エリックの不慮の死と共に)NWAの凋落を決定付けた、という見方も出来るかと思う。 さて、前置きが長くなったが、上記二つの事
Satom
2025年2月28日読了時間: 7分


捩れた「王座移動」
「NWAの王座は人事で決まる」という意味の言葉を初めて目にしたのは、どこだったか…ハッキリした記憶はないが、櫻井康雄さんがゴング誌に載せた読み物だったかもしれない。その意味するところは、次期チャンピオン候補の中から、選手としての実力、集客力などを全米の有力プロモーター達が「査定」して、これと見込んだレスラーには、優先的に挑戦の機会が与えられる…というようなところであった。どこのテリトリーに所属している、どのプロモーターの秘蔵っ子である …といった要素が世界チャンピオンの誕生を左右する、というニュアンスの記事を、よく目にしたような気がする。 昭和が終わり、平成の時代に入って、これまでファンの目に決して触れなかった「タブー」が 白日の下に晒されるようになる。NWAのチャンピオンが、喩えではなくガチでプロモーター主導の「人事」によって選ばれていた、ということも、そうした情報の一つであった。 しかし、そこは人の世の常と言うべきか、一旦決まった「人事」もひょんな事から覆ることもあり 時としてそれらはレスラーのみならず、プロモーター間の軋轢にも発展する。1
Satom
2025年2月21日読了時間: 7分


西テキサスの名伯楽
全米プロフットボールの頂点を決するスーパーボウルが先週の日曜日(現地時間2月9日)に行われ、フィラデルフィア・イーグルス(NFCチャンピオン)がカンザスシティ・チーフス(AFCチャンピオン)を破りチーフスの三連覇を阻止した。 日本の国技が相撲なら、米国はアメフト、とよく言われるが、時代を遡れば、かつてはアメフトのスター選手からプロレス界に転向したり、二足の草鞋を履いていた選手が少なからずいた。ブロンコ・ナグルスキーはNWAチャンピオンの系譜(Association系)に名を連ね、以降もテーズの連勝記録を止めたレオ・ノメリーニ、ワフー・マクダニエル、アーニー・ラッドなど、1950年代から60年代にかけては、フィールドの名選手達がプロレス界に身を投じている。当時のマット界には、一流のフットボーラー達を惹きつけるだけの魅力があったのだろう。 プロに限らず、カレッジ・フットボールにまで裾野を広げると、一時はアメプロ界の半数近くを アメフト出身者が占めていたかもしれない。 中でもウエスト・テキサス州立大学(WTSU、現WTA&MU)のフットボール部・バッ
Satom
2025年2月14日読了時間: 5分


「NWA vs WWA」
プロレス界における世界タイトルの統一戦と言えば、どんな試合が脳裏に浮かぶだろうか。昭和末期の約10年間のスパンで見ると、1978年の1月に行われたハーリー・レイスとスーパースター・ビリー・グラハムの一戦(NWA-WWWF)を皮切りに、レイスとボブ・バックランドの一連の試合(同)、或いは1979年のニック-バックランド戦(AWA-WWF)などが思い出される。 以上の試合は、いずれも当時のゴング誌などで巻頭ページを割いて報道されたので、記憶に留めておられる方も多いと思うが、更に時代を遡って、例えば1940年代以降、全米規模で丹念に記録を探せば、果たしてどのくらいの「統一戦」が出てくるだろうか。見当もつかないが、地元のファン以外には知られていなかった「世紀の一戦」は、恐らく数十試合を下らないような気がする。 前置きが長くなったが、前回(WWA史外伝)の続きに戻りたい。1964年10月5日、アルバカーキで「チャンピオン」フレッド・ブラッシーを破ったドリー・ファンク・ジュニアの初防衛戦の相手は、NWA王者ルー・テーズ、試合は11月9日に同所のシビック・オー
Satom
2024年12月1日読了時間: 3分


WWA史外伝
前回ご紹介したアルバカーキ版WWA王座の、その後の変遷について記したい。添付の記事は1964年10月3日付けのアルバカーキ・トリビューン紙からの抜粋で、二日後の10月5日に同地で行われる試合カードについて報じたもの。メインはフレッド・ブラッシーがドリー・ファンク・ジュニアの挑戦を受けるWWA選手権試合となっている。 この時点でアルバカーキ版王座はムース・ショーラックからブラッシーへ移動している様子だが、 当の試合を報じた記事は存在するかどうか不明。アルバカーキでマッチメイクされた様子がない事から、この試合自体行われていない公算が強い。 ちなみにカリフォルニアにおける「WWA正史」を見ると、ブラッシーは1964年4月にディック・ザ・ブルーザーに敗れて王座転落、その後はデストロイヤーを経由して、10月の時点のチャンピオンはボブ・エリスであった。(11月にデストロイヤーがエリスに雪辱しカムバック) アルバカーキに話しを戻すと、ブラッシーはファンク・ジュニアとの防衛戦に敗れ、ジュニアがWWA王座戴冠を果たす。そして翌11月にはNWA王者ルー・テーズと、W
Satom
2024年11月23日読了時間: 3分


WWA@アルバカーキ
名物プロモーター、マイク・ロンドンの仕切るニューメキシコ州アルバカーキにおける「外伝」的なプロレス史について、前回に引き続き記していきたい カバーの写真は、1963年2月23日付けアルバカーキ・トリビューン紙に掲載された記事の抜粋である。翌々日の25日シビック・オーディトリアムで行われる試合カードが網羅されているが、記事左下にあるショーヘイ・ババと「WWAチャンピオン」ムース・ショーラックの対戦が目を引く。 ショーラックがこの時期「世界チャンピオン」を名乗っていたという話しは初出ではない。前年(1962年)に日本で「力道山を破り奪取」したというベルトをシカゴではIWA、アルバカーキではWWA王座として使い分けていた様子で、それぞれに該当する試合記録がある。 ショーラックは1962年に日本プロレスが開催した「秋の国際大試合」に初来日、9月から11月にかけ長期に渡り各地を転戦している。開幕戦(9/14)ではスカル・マーフィーが力道山を負傷(右胸鎖関節脱臼)させた試合に乱入、ボディ・プレスをお見舞いし、欠場に追い込んだ。 シリーズ終盤には力道山とのシ
Satom
2024年11月15日読了時間: 3分


シン・伏魔殿
「伏魔殿」という言葉から、何をイメージされるだろうか。私が思い出すのは、昔ゴングや東スポなどで目にした記事(リバイバル含む)である。 不思議とテレビやラジオで「ふくまでん」という 表現を聞いた覚えはない。そのため、自分にとっての「伏魔殿」はあくまで活字、それもプロレス関連の記事と直結している。 「実例」として最初に思い浮かぶのが、1962年、LAのオリンピック・オーディトリアムでブラッシーとのWWA王座防衛戦に臨んだ力道山が、噛みつき攻撃で大流血、ドクターストップでベルトが移動してしまう、というハプニングである。 リアルタイムでこの一戦に触れたわけではないが、後年活字と写真で伝えられた試合の印象は強烈であった。 上記の出来事から「伏魔殿」と言えばまず WWA、そしてブラッシー、会長のジュールス・ストロンボーという名前がセットで出てくるのだが、更なる時を経た現在、インターネット普及により閲覧可能になった過去の試合記録や、内外のプロレス史研究家の皆さんが書かれたたくさんの読みものに触れるにつれ、プロレス界全体が大きな伏魔殿だったなぁという思いを改めて
Satom
2024年11月8日読了時間: 3分


1976年のビル・ロビンソン
日本マットがオープン選手権と猪木-ロビンソン戦で沸いていた1975年の暮れ、海の向こうのアメリカでも大きな変動があった。12月10日、フロリダ州マイアミのコンベンション・ホールでジャック・ブリスコを破ったテリー・ファンクが新チャンピオンの座に就いたのである。兄のジュニアはこの朗報を力道山13回忌記念試合が行われた日本武道館の控室で聞いたという。 新チャンピオンとしてブリスコのスケジュールを引き継いだテリーは、早速翌11日にカンザスシティでジェリー・オーツを相手に初防衛戦。この試合以降、年末まで13試合に出場しているが、全てタイトルマッチである。 一方、11日に蔵前で猪木との名勝負を終えたロビンソンは13日にAWAシカゴでラリー・ヘニングと組んでバリアント兄弟と対戦、16日からフロリダ(CWF)に戻り、同日タンパでザ・デストロイヤーから南部ヘビー級王座を奪取、以降約半年の間、同地区に腰を落ち着ける。 日本遠征で膝を負傷したロビンソンにしてみれば、真冬に北部中心のAWA地区をサーキットするよりも、常夏のフロリダの方がコンディションを整えやすかったこと
Satom
2024年11月1日読了時間: 5分


ファンク王国で勃発した全日-新日代理戦争
かつてのゴング誌なら☝️こんな見出しをつけて巻頭カラーで報じていたかもしれない。 1975年の日本マット掉尾を飾ったシリーズと言えば、猪木-ロビンソンの初対決を目玉とした闘魂シリーズとオープン選手権だが、共に来日直前のジュニアとロビンソンのシングル戦のニュースが当時日本のファンの耳に入っていれば、相当な話題を呼んでいたことだろう。 一方意外なことに、ジュニアの地元のアマリロではこの試合を大々的にプロモートした様子が見られない。カバーの新聞広告は1975年11月26日付けAmarillo Globe Timesからの抜粋で、翌27日 アマリロ・スポーツ・アリーナにおける定期戦のカードを紹介しているが、写真で見る限りメインは16選手参加のバトルロイヤルで、ジュニア-ロビンソンのシングル戦はセミファイナルの一つ前、第5試合にラインナップされている。日本のファンの感覚からすれば、両者の対決が鉄板のメインに据えられて然るべきところだが、所変わればファンの嗜好も変わるという事か、何か釈然としない思いが残る。 肝心の試合結果だが、24分47秒、ダブルカウントア
Satom
2024年10月25日読了時間: 4分


アマリロのF・グーディッシュ
"ブロディ前夜のブロディ"について書いてみたい。 時は1975年の秋、キャリア2年目のフランク・グーディッシュは、盟友スタン・ハンセンとのタッグが中心だったルイジアナ地区サーキットを切り上げ、10月からWestern States Sports プロモーション、いわゆるアマリロ・テリトリーに参戦した。 17日にルボックでレイ・キャンディを破り、同地のシングル王座ウエスタン・ステーツヘビー級のベルトを奪取したグーディッシュはシングル初戴冠を果たし、一週間後には同じルボックで、スポット参戦のアンドレ・ザ・ジャイアントと初防衛戦を行っている。 翌11月の試合記録を見ると、27試合(バトルロイヤルを除くと25試合)をこなしているが、その内15試合がファンク兄弟相手のシングルマッチ。(ジュニア12試合、テリー3試合) カバーの写真は、11/23(日)El Paso Timesの新聞広告だが、翌24(月)同地County Coliseumのカードが載っている。メインはグーディッシュとジュニアのテキサス・デスマッチ。 前週の同所でも同じカードが行われており、
Satom
2024年10月18日読了時間: 2分
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