アントニオ猪木全国区デビュー夜明け前
- Toshiyuki Fujii
- 3 日前
- 読了時間: 9分

日本全国のプロレスファンにアントニオ猪木とういう名前が一気に浸透したのは果たしていつなのか? その長いプロレスリングヒストリーの中で模索し続けてきた。私が小学校の3年生の頃(昭和41年頃)、近くにある住吉公園で遊んでいる頃、上級生の6年生が砂場でプロレスごっこをしているのをみていたのだが、鮮明に彼らはジャイアント馬場の物まねをしている姿が印象に残っている。

そう当時はアントニオ猪木の物まねをしている人はいなかった。
国民は、日本プロレスのテレビ放映においてはジャイアント馬場がエースとして外人の強豪達を倒す場面に一喜一憂しており、その頃の猪木はテレビ放映も付いていない東京プロレスで悪戦苦闘していた時代である。
アントニオ猪木は力道山にブラジルでスカウトされ、力道山道場3羽鳥(ジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎)として育つが、力道山亡きあと直ぐにアメリカに行き精神・肉体共に鍛えられる。そして凱旋帰国するはずであったが、ハワイで新団体を目論む豊登に口説かれ東京プロレスのエースとして帰国。しかし団体はすぐに潰れ、猪木は古巣の日本プロレスに戻ってくる。
その後はジャイアント馬場の背中を追い続けNo.2の地位に甘んじてた。

その名前が全国に知れ渡っていったのは、昭和43年末から44年春にかけ、洗練されたレスリングセンスやこれまで見たことの無い技を開発、又バタ臭い容姿からその人気ぶりはテレビを通じ一気に浸透し始め、実力においてもジャイアント馬場に追いつき追い抜き始めたといっても過言ではない。
昭和43年年度末シリーズがホップ、そして新春シリーズからダイナミック・シリーズがステップ、さらに第11回ワールド大リーグ戦がジャンプとして大きく羽ばたく事になる。
その過程を詳しく振りかえってゆこうと思う。
昭和43年度初頭からはあくまでジャイアント馬場時代が続いてゆく。クラッシャー・リソワスキー、デイック・ザ・ブルーザー、ボボ・ブラジル、ブルーノ・サンマルチノ、キラー・カール・コックスらが次々と馬場のインター王座を狙い挑戦してくる。インター・タッグ戦においてはあくまで猪木は馬場のタッグ・パートナー的存在であり、まだ東京プロレスから舞い戻ってきた事で遠慮もあったであろう。

年度末、ジャイアント馬場はシリーズ中にもかかわらず、王者の特権でシリーズ初戦の翌日キニスキー戦に向けハワイ特訓へ向かう。また、大木金太郎もソウルに行き、復活アジアヘビー級王座決定戦でキラー・バデイ・オースチンを破り見事王者となる。その留守を任された猪木が燃えるのは当然で15日夜、後楽園ホールにてバーナードと一騎打ち、凄まじい乱撃戦の末反則勝ちで勝利するが、その鬼気迫る闘いに全盛期のキラー猪木の片輪を見たものだ。


そしてNWA王者ジン・キニスキーが来日、猪木は馬場とキニスキーのインター戦の前に、自らシングルでのキニスキー戦を直訴し、初戦の室蘭で対戦を叶える。猪木はその時点でのキャリア、持てる技すべてを駆使しNWA王者に挑むが、キニスキーのバックドロップを食らい敗れた。しかし、その闘う姿勢はテレビを通じて新鮮に伝わって来たのを覚えている。これからの時代を背負うのは猪木しかいないと確信したものだ。このシリーズのクライマックスはジャイアント馬場のインター王座にキニスキーがチャレンジした試合ではある。3本目馬場は何と!猪木の18番技であるコブラツイストを使ったのだ、咄嗟にキニスキーはレフリーの沖識名の服を掴み暴行し、ギブアップより反則負けを選んだ。


本当のクライマックスは、このシリーズ最終戦に起こった。
その光景を見ていた猪木は馬場へのライバル心か、このシリーズの最終戦(12月13日:後楽園ホール)でカール・ゴッチとの特訓であみだした、キニスキー戦で馬場が使用した自らの得意技(コブラツイスト)より高度な“ぶどうづる固め(グレープパインホールド)をバーナード相手に初めて披露したのだ。翌日大阪スポーツ新聞を読み、どんな決め技なんやろ?と疑問に思えた。その後テレビで猪木が戸口相手にこの技をかける動画が紹介され、全国のお茶の間のプロレスファンにネーミング募集する。複雑であるが見栄えする技、プロレスごっこでマネできる技ゆえ大反響を起こし、遂に”アントニオスペシャル“卍固めと決まる。この頃から猪木の名前が学校でも話題に上るようになった。
新しい年になり新春チャンピオンシリーズに二人の大物がやってきた。


“原爆男”ウイルバー・スナイダーと“鳥人”ダニー・ホッジである。
このシリーズは猪木にとってラッキーなことに馬場対スナイダーのインター・ナショナル選手権試合より、インター・タッグ戦の方が注目され盛り上がる現象がおきたのだ。開幕戦の蔵前国技館において、洗練された実力者コンビのスナイダー&ホッジとインター・タッグ王座を賭けた試合は時間切れ引き分けの好勝負を展開、リマッチとして広島で同カードが行われるがBI(馬場&猪木)が敗れるハプニング。そのリターンマッチが札幌で行われ、3本目は皮肉にも馬場がスナイダーにコブラツイストを決めBI砲はみごとに王座を奪還。

さらに秋田において万余の観衆を集めて再戦、猪木はアントニオスペシャル(卍固め)をスナイダーに決め、王座初防衛した。

何とシリーズ中に4度もインター・タッグ戦が行われた珍しいシリーズ、そんな中、最終戦の猪木が繰り出した卍固めは一筋の鮮血が流れる怒りの表情でスナイダーを締め上げる場面に、当時のプロレスファンは驚きと感動に酔いしれた。この日から砂場でのプロレスごっこはコブラツイストから卍固めへと移ったのは間違いなく、猪木人気がNTVの画像を介し全国人気へと移り行く爆発前夜となる。

次期シリーズはザ・デストロイヤーの来日が決まり、馬場・魔王世界戦シリーズ(ダイナミックシリーズ)として行われた。
クライマックスは当然、東京都体育館での

馬場のインター王座に挑戦するザ・デストロイヤーとの一戦であるが、アントニオ猪木はその2日前、横浜においてザ・デストロイヤーと一騎打ちをしている。試合は2-1で敗れるが、3本目は完敗では無く凶器攻撃でのフォール負けだったので安心したものだ。

今でも強烈な印象として残っているのが、翌々日馬場対ザ・デストロイヤーのインター戦において、デストロイヤーのセコンドに付いたジム・オズボーンやネルソン・ロイヤルらがリングに上り、試合結果について激しく抗議するのを、颯爽とリングに上がったアントニオ猪木が上下の黒い私服を着て馬場を擁護する姿がカッコ良く本当に惚れてしまった瞬間であった。
そして遂に、猪木の為の猪木のシリーズが開幕する。
そう、第11回ワールド大リーグ戦である。

よく流智美氏が日本プロレス史上最高のシリーズであった事を記載されるが、同じ時代のプロレスを見ていた者として(参加選手、話題性、試合内容、テレビ視聴率、観客動員他)すべての面で間違いないと確信できる。当時の雑誌によると、ワールド第リーグ戦35日の興行に述べ28万人以上の観客が詰めかけ、NTVの視聴率も30%以上を常に記録し続けたと記載されているのだ。まさに日本のスポーツの中心にあったように思えたプロレス。

坂口征二が凱旋帰国で大活躍、反面、初戦でジャイアント馬場がゴリラ・モンスーンに、アントニオ猪木がボボ・ブラジルに負けるハプニングで一気にワールド大リーグ戦の人気は爆発する。そして大阪大会で猪木が外人優勝候補ゴリラ・モンスーンを破り、猪木が優勝戦線に加わったことで、ワールド戦、その後の日々の勝敗が俄然注目されることになる。


そして迎えた東京での決勝戦。ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ボボ・ブラジル、クリス・マルコフが同得点で並び、クジの結果、ジャイアント馬場はボボ・ブラジルと、アントニオ猪木はクリス・マルコフと対戦し、その勝者同士が決勝を争うこととなる。全国のプロレスファンが体育館そしてテレビの前で注目する大決戦となる。馬場はブラジルと時間切れ引き分けになる。

この流れだと猪木の優勝も夢ではないとテレビの前で必死に猪木を応援した。猪木がマルコフを卍固めで決め優勝した時は、下町の我が家において、近所からも歓声が沸き起こるのが聞こえてきた。まさに「ALWAYS 3丁目の夕日」のような時代においてアントニオ猪木というプロレスのヒーローが誕生した瞬間であったのだ。


アントニオ猪木、血染めの卍固め、クリス・マルコフ、春の本場所ワールド大リーグ戦、というニュースが世間にまで伝わり、まさに後年猪木が言うところの{環状線の理論}の走りでもあった。

さらに猪木には追い風が吹く。次期シリーズからNETテレビでもプロレス中継がスタートすることが発表され、そのエースとして猪木の名前が上がる。大木、吉村、星野、山本といった選手で新鮮なプロレス中継を放映することになり(馬場と坂口は放映できない), 贅沢にも週に2回もアントニオ猪木のファイトが見れることはファンにとって素晴らしいニュースであった。
テレビ全盛時代のゴールデンタイムに2度もブラウン管の中で猪木は躍動し、日本全国お茶の間でその雄姿を見せつけ、その名前を日本全国津々浦々まで浸透させていった。
そして、その年の暮れ今でも延々と語られる究極の名勝負を行うことになる。





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