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★初来日シリーズ(秘蔵写真大公開)から探る二人の新鋭レスラーが歩んだ違った道【“美獣”ハーリー・レイスと“狂犬”デイック・マードック】

更新日:11 分前


1979年5月7日:大阪東急ホテル至 レイスはアメリカよりこの日来日した。
1979年5月7日:大阪東急ホテル至 レイスはアメリカよりこの日来日した。

1979年5月8日【全日本プロレス:千葉】において外人同士のNWA世界ヘビー級選手権試合が行われた。王者ハーリー・レイスが前日、大阪においてジャンボ鶴田を破っての連続防衛戦の相手は”狂犬”デイック・マードックである。

①  マードック(14分45秒 ブレーンバスターから体固め)

②  レイス   (20分46秒 ダイビング・ヘッドバット)

③  時間切れ引き分け でレイスが王座を防衛した。

なかなかの好試合でジャイアント馬場、後には渕正信もこの試合を高く評価した。

日本のマットで世界最高峰のタイトルであるNWA世界選手権を賭けて戦った二人の一流レスラーが歩んできた道は大きく違えど、片やレイスは職人肌のミスター・プロレス、マードックは生まれ持っての天才肌レスラーと呼ばれていた。


ダイナミック・シリーズのパンフ
ダイナミック・シリーズのパンフ

1968年2月に開催されたダイナミック・シリーズ(2月23日~3月23日)においてキラー・バデイ・オースチン、バロン・シクルナ、テネシー・レベル(マイク・パドーシス)、そして初来日の二人、そうハーリー・レイスとデイック・マードックである。そして特別参加としてデイック・ザ・ブルーザー(2月23日~同28日)の参加が発表される。

控室でのそれぞれの表情が素晴らしい
控室でのそれぞれの表情が素晴らしい

さらにタイトルマッチとして2月26日(大阪府立体育会館)でインター・タッグ王座戦にブルーザー&レイスがBI砲(馬場&猪木)に挑戦並びに2月28日(東京都体育館)でブルーザーが馬場へのインターナショナル王座への挑戦が決まる。

恒例の空港での記者会見
恒例の空港での記者会見

奇しくも、今後日本マットでメインエベンターとして長らく活躍する二人の精鋭が参戦してきたのである。

初来日でブルーザーのパートナーに指名されたレイスはアメリカマット売出し中の強豪なのである。この時はシカゴを中心としたAWA圏でAWA世界タッグ王座を巡りブローザー&クラッシャーの凶悪コンビと相棒の“プリティ・ボーイ”ラリー・ヘニングのパートナー“ハンサム”ハーリー・レイスとして血の抗争を繰り返していた。その来日前までの実績は既に確かなものがあった。

カーニバル・レスリングとしてなんと15歳でデビューし1960年正式にプロレス入り。テキサスはアマリロのNWAウエスタン・ステーツ地区でプロレスの基礎を学ぶ。脚光を浴びたのは先ほど記載したAWA圏での活躍。1965年1月30日にはブルクラからAWA世界タッグを奪取している。日本では力道山が亡くなり豊登時代から馬場時代へ移行する頃である。その後、故郷のセントルイスへもどり1972年にはミズリー州のヘビー級王者に就いたのをステップとし出世街道をまっしぐらに進む。

初和45年来日ショット
初和45年来日ショット

一方のデイック・マードックは父フランキー・マードック(プロレスラー)に幼少期からレスリングの手ほどきを受け、1965年テキサスはアマリロの「ファンク道場」に入門し19歳でプロレス入り。この年にはNWAの新人賞にも輝き既にその天才的センスがの片輪が現れている。アマリロ地区で活躍する中、大先輩であるキラー・カール・コックスとタッグを組み、垂直落下式ブレーン・バスターを伝授されている。このまま行けば出世街道まっしぐらであったが、性格的に大きな団体に縛られるを嫌い、世界王者になり全米各地をサーキットするのを避け、日本のように団体がすべて仕切ってくれるのを好む為、何度も次期NWA王者候補と言われながら、自らはNWA世界王者には若い頃から背を向けていた。

この二人の大きな違いは金と名誉を重んじるハーリー・レイスと自由で模倣な人生を理想とするデイック・マードックの人生観が大きく人生を分けたように思える。

さて、その初来日においてまだまだあどけなさが残る二人。

この時点においては実績において、頭一つレイスがリードしていた。このシリーズではレイスはメインに4回、マードックも4回で引き分け。マードックは名古屋(3月1日)で大木&吉村の持つアジア・タッグ王座にテネシー・レベルと組で挑戦したが敗北。レイスがデイック・ザ・ブルーザと組み日本の看板タイトルであるインター・タッグに挑戦したと事と比較すると扱いに差があったのは間違いない。しかし二人ともベテラン勢を押しのけてタイトルコンテンダーであった事実はすばらしい。

ではここで、大阪でのインター・タッグ戦のレイスの活躍ぶりとマードックの試合ぶりを振り返ってみる事にしよう。レイスはこの時点でブルーザーとは一時休戦、このような事例は日本プロレス時代には良くあった。

既にレイスも貫禄さえ漂う
既にレイスも貫禄さえ漂う

1本目、外人チームは馬場の右足を徹底的に痛めつける作戦にしぼりブルーザーとレイスが交互にレッグロッグやニードロップを繰り出し、さらに今度は左足にも照準を合わせての攻撃。沖識名レフェリーの制止も聞かず外人チームが暴走し反則負け。

まさに“美獣”の面目躍如
まさに“美獣”の面目躍如

2本目も二人の連携が冴えわたり、レイスが馬場の左足をロープにひっかけて押さえる。そして最後はブルーザーの必殺アトミックボムズアウエーが爆発し、見事馬場からフォール勝ち。

必殺アトミックボムズアウエー
必殺アトミックボムズアウエー

もはや左足が痛みで動かない馬場の試合放棄も危惧される状況の中、インターバルの間、猪木は馬場の痛めた足のマッサージを施す。

3本目も外人チームはブルーザーから交わったレイスはコーナーポストーからニードロップを狙ったが、馬場が機転をきかし逃げ、レイスは自爆。馬場からタッチを受けた猪木はレイスを蹴りまくりダウンしたところで馬場にタッチ。馬場は左足を使えない中、逆エビ固めでレイスからギブアップを奪い勝利した。

猪木、得意のストンピングがレイスに爆発
猪木、得意のストンピングがレイスに爆発

BI砲、薄水の王座防衛
BI砲、薄水の王座防衛

リング上ではブルーザーがレイスを蹴とばし「負けたのはお前のせいだ!」と毒つく。やはりその当時の貫禄の差をまざまざと見せられた場面であった。この日、マードックは大木金太郎と第5試合で対決し(11分17秒 体固め)頭突きを食らって敗れている。だが、このシリーズのマードックのシングル戦歴においては吉村道明には破れはしたが、山本小鉄、ミツ・ヒライ、星野勘太郎らの中堅レスラーには勝利している。参考にレイスは吉村道明とは両者カウントアウトで2度引き分けている。

こうして初来日のシリーズを振り返れば、大型新人が来日してそれなりの活躍をし、次回「日本帰りは出世する」的な期待感を抱かせた二人の活躍ぶりである。

未だメイン級のレスラーにはかなわなかった
未だメイン級のレスラーにはかなわなかった
若きマードックの雄姿
若きマードックの雄姿

その後、レイスは必ず大物のパートナー的な意味合いでの来日が続き、昭和44年11月には時のNWA世界チャンピオンドリーファンクJrとその父ドリー・ファンク・シニアと来日し、ドリーとのタッグでアジア・タッグに挑戦。翌年は元NWA王者のジン・キニスキー、ジョニー・バレンタインと来日し、ここでもバレンタインやキニスキーらの超大物と組みアジア・タッグ挑戦と日本プロレスファンに確実にその名を刻みつけた。

そして昭和47年2月、ダイナミック・シリーズにはエース格として来日し坂口征二の持つUN王座に挑戦するまでに飛躍。その後は1973年5月24日カンサスシテイでドリー・ファンクジュニアを破り第47代世界王者となったのを手始めに同王座に7度も着くとういう快挙を達成し自らの歩むべき夢をかなえている。

坂口とのUN戦
坂口とのUN戦
昭和44年NWAチャンピオンシリーズ
昭和44年NWAチャンピオンシリーズ

マードックは帰国後、1968年10月に自由奔放な性格と喧嘩早い性格さでシニアにアマリロ地区を追放され、同じくダラス地区を追放されたダステイ・ローデスとフロリダで意気投合しテキサス・アウトローズを結成し大ブレーク。大暴れはしたが相変わらずタイトルには固執せず。日本には3年半ぶりに1971年11月、ファンク兄弟と来日。その成長したファイトぶりには驚かせられた。ドリー、テリーを食ってしまう程の活躍、レイスより早く、アントニオ猪木のUN王座に挑戦し猪木を追い込んだ。

道は違えど、二人のプロレス界での活躍は日本マットにおいても大きく影響するほどの大物として君臨していった。

初来日のハーリー・レイスの雄姿
初来日のハーリー・レイスの雄姿

レイスは全日本プロレス一筋、マードックは全日本プロレスから新日本プロレスに鞍替えはしたが、馬場、猪木相手に常にその時代の日本マットの中心にいた。強さの象徴であるベルトが腰にあるか無いかはあるが、ファンの心の中にある印象、思い出は同格であったといっても良いであろう。日本マット登場が同時期であったという奇遇、その後の活躍ぶりはまさに二人とも二度と現れないであろう名レスラーであった。

この二人がマット界を引っ張っていった
この二人がマット界を引っ張っていった

追記:当時のトピックスとしてマードックの野球に対する情熱は大変のもので、1968年3月8日の後楽園ホールのリングサイドに大洋ホエールズのスペンサー選手が来席したので大変、さっそく意気投合して、翌日には練習場まで赴き仲良く白球を追っていたとういうエピソードが素晴らしいではないでしょうか!?(ゴング誌創刊号トピックスより)

 
 
 

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