「ダラ幹」考
- Satom
- 10月3日
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更新日:8 時間前
前回の九州山から間が空いてしまったが、再び 日本プロレス時代の話題を取り上げてみたい。 表題の「ダラ幹」は昭和ファンには旧知の言葉で長らくプロレス用語として認知されている。*1)
昭和46年末、日プロの「社内改革」*2)において馬場、猪木らをはじめとするレスラー達が芳の里遠藤幸吉、吉村道明ら経営幹部を糾弾した時に使われた言葉だが、その実情はどうだったのか?
近年は当時の状況に関して、新たな証言や解釈も
明らかになってきた。力道山の逝去に伴い、急遽始動した「トロイカ体制(上記三人に豊登を加えた四幹部)」の発足まで遡り、その功罪について改めて見直すには良い機会かもしれない。
トロイカ体制誕生に至る経緯については、複数の説がある*3)が、当時の流れを記録した報道を
照会すると、力道山の死の翌日に営まれた仮通夜の席で、新体制の構想が早くも語られている。
その背景には、グレート東郷による日プロ乗っ取りを警戒した四人が東郷排斥に向け一致団結した事情(動機)があったと見るのが妥当だろう。
事実、トロイカ体制発足後の初動は二点に集約 された。東郷の放遂と(第二次米国遠征中だった) 馬場の帰国である。紆余曲折はあったがいずれも実現し新体制の基盤は強化される。特に馬場確保は、興行面のテコ入れに絶大な効果を発揮した。
以上が力道山急死から、翌年春にかけての大まかな流れだが、その後昭和46年のクーデターに至るまでにも様々な波乱が続発する。
・昭和40年3月 日本プロレス興業社長交代
(敬子未亡人→豊登)*4)
・同年12月 豊登退社(解任)発表は翌年正月
・昭和41年3月 太平洋上略奪事件
→東京プロレス設立(10月旗上げ)
・同年9月 吉原 功退社→国際プロレス設立
・昭和42年4月 猪木・日プロ復帰
・同年10月 BIコンビ インタータッグ初奪取
・昭和43年1月 グレート東郷殴打事件
・昭和44年7月 NETプロレス中継開始
・昭和46年12月 クーデター事件
→猪木・日プロ離脱
内輪揉め→分裂は、プロレス界において過去に 何度も繰り返されてきたが、上記の流れの中には
その原型のようなものがはっきりと見てとれる。
最初の分裂に繋がる豊登の離脱に至る経緯は多くの方がご存知と思われるので詳細は割愛するが、会社の金庫から二千万円強を持ち出し私的な賭博に流用したというのが、社長解任の理由である。
筑豊の炭鉱町出身の豊登は元来が鉄火肌の性格で世間のルールの範疇に収まる人物ではなかった。
力道山と木村政彦の"昭和の巌流島血戦"の当夜は力道山邸で猟銃を手にヒットマン来襲に備えた こともあったという。(この時点で既に任侠映画或いは西部劇の登場人物を彷彿とさせる)
警察庁主導による「頂上作戦」の最中に行われたザ・デストロイヤーとの一戦(昭和40年2月26日
東京体育館)では、武装した反社勢力が詰めかける中、60分時間切れの死闘を演じて見せた。*5)
かつてカール・ゴッチが猪木を称して「サノバビッチ・ガッツ(の持ち主)」と形容したという逸話がある*6)が、この言葉は、実は豊登にこそ相応しいのかもしれない。

日プロ社内騒動の話しに戻る。昭和46年末の クーデター時に"勝手に金庫を開けて金を持ち出している幹部がいる"という噂が流れたが、その出所は、昭和40年頃の豊登の行状である公算が高い。
というのも、G-Spirits 72号に掲載された元日プロ
経理部長・三澤正和氏のインタビューにおいて、
それまで知られることのなかった社内の様々な 事実が詳らかにされているからである。
一般求人でリキ・エンタープライズに入社した三澤氏が吉原 功氏に誘われて日プロに転籍したのは昭和41年の秋頃。豊登は勿論、吉原もリキ・パレス売却を巡り遠藤幸吉と衝突した末に日プロを去っていた。
経理担当重役だった遠藤の下、三澤氏が日プロの収支を管理するようになって以来、社内の誰であろうと、勝手に金庫を開けて金を持ち出すことはなかったという。金庫の鍵は一つしかなく、常に自分が管理しているから持ち出しようがない、と
言う三澤氏の主張には説得力がある。

三澤氏の証言は続く。後にクーデターの際に五千数百万円の使途不明金があるとされた件は、幹部の使い込みや、反社勢力への上納金ではなく、外国人レスラーに支払う「闇ドル」だったという。
現代社会の感覚からすると「闇ドル」と言われてもピンと来ないが、当時のドルは二重の制約下にあった。一つは金本位制、もう一つは外貨の持ち出し制限である。前者はドル通貨発行量に関する全体的な縛り*7)後者は国内法(外為法)による規制だが、いずれも国内におけるドルの調達を困難にする要因であった。
国内の規制の下、商用ビザで来日した外国人への支払いは大蔵省(当時)から認可を得た外貨調達枠の中に収める必要があるが、実際には支払いは高額にのぼり、枠を超過することが度々あったとされる。
日プロに限らず、そうした際に招聘元が枠の超過分を補填する方法として、闇ドルの調達が日常的に行われていた。交換場所は上野のアメ横、本牧のスナック街、立川の米軍基地、沖縄など複数あり、交換レートもまちまちであった。当時の円ドルレートは1ドル360円で固定されていたが、闇の交換レートは380円から400円を超えたという。
勿論「闇ドル」による支払いは違法であるから、当該費用についてはそのまま計上はできない。 したがって決算書には「仮払い金」として記載 した、というのが三澤氏の証言である。*8)
上記以外にも、クーデターの際に糾弾された幹部の行動について、真相が明らかにされる。
巡業先で地元のプロモーターから売り興行の代金を回収していた吉村道明による代金の私的流用に関しては「そのような事実は一切なかった」
芳の里らが銀座の高級クラブで、会社の費用でしょっちゅう飲み食いしていた件については、
「その筋の人たちが経営する店で、毎月定額を 費消するノルマがあった」由。裏社会との関係を保ち、興行を円滑に行うための支出であったという。現代社会の規範からすればアウトとなるが、少なくとも私的な理由で、会社の金を使い込んでいたわけではなさそうである。
では当時の幹部たちの行動は全て「シロ」だったかというと、さすがにそうではなかった。
「着服」に関して言えば、遠藤幸吉は一杯埃が出てくる。リキ・パレス売却を巡って「手数料」を懐に入れた、選手の移動用に購入したベンツ社製バスの代金に、自分の新車代を上乗せしていた、NETがプロレス中継を開始する際に二千万円の リベートを受け取っていた…。*9)
まさに昭和版"疑惑の総合商社"である。

遠藤幸吉の凄みは、得体の知れない政治力に裏打ちされた処世術にあったのかもしれない。力道山存命中は距離を取って外様的立場を決め込んでおきながら、後にはトロイカ体制の一角をしっかり占める変わり身の早さ、内外の競争相手を巧みに放遂する謀術、有力なタニマチの懐に入る人心掌握術…。
しかし一方では、日プロの若い衆から興行(プロレスともベンチャーズ初来日時のライブとも言われる)を横取りした挙句、激昂した若手達に袋叩きにされ、詫びを入れたという話しもある。*10)
巨悪でありながら、自分の背中に火が点けられていることに気づかず「ウサギどん、このカチカチいう音は何な?」と呑気に訊くような一面もある
…ような気がする。(個人の感想です)

ここまでは豊登、遠藤の「ワル」ぶりについて見てきたが、「悪」の中には「してはいけないことをする」ものと「すべきことをやらない」ものの二通りがあるように思う。
前者の代表が豊登、遠藤だとすると、後者の典型が芳の里だと言えるのではないか。

豊登に誘われて、東京プロレスに移籍することを決意した北沢幹之が電話でその旨を伝えたところ
「俺のせいで辛い思いをさせて申し訳ない。いつでも戻ってこいよ」と受話器の向こうで嗚咽したというエピソードは、そのまま芳の里の人間性を示すものだろう。
若い頃に米国で「ヨシノ・サト」を名乗ったというグレート・カブキも最初のリングネーム(高千穂明久)の名付け親である芳の里に心酔する一人であり、自著(「東洋の神秘 ザ・グレート・カブキ自伝」)の中で昔教わった言葉を紹介している
「どんな職業でもそうだが、バカじゃできない、利口でもできない、中途半端じゃなおできない」
一見人情味のある苦労人による味わい深い言葉に思えるが、特に最後の「中途半端じゃ…」の部分を有言実行していれば、芳の里本人のみならず
日プロの行く末も随分変わっていたのではないか
…と考えてしまうのは私だけだろうか。
社長として、芳の里による「不作為」はいくつもあったように思うが、決定的なものを一つ選ぶとすれば、クーデター時の猪木除名について、日本テレビとNETの二局、そしてスポンサー筋に対し「然るべきタイミング」で「言葉を尽くして」 ことの顛末を説明した上で、理解を求めなかった点に尽きるのではないだろうか。*11)
この「不義理」に対して、前月に猪木の結婚式の媒酌人を務めた大久保 謙氏(日本テレビ・プロレス中継の大口スポンサーだった三菱電機会長)は激怒したとされる。そして数ヶ月後、日テレ専属だった馬場の試合がNETで放送されるに至り、破局は決定的となった。その後の経緯については、多くのファンの方がご存知の通りである。

最後に吉村道明。「ダラ幹」という言葉で一括りにされて最も忸怩たる思いをしたのが、この吉村ではないだろうか。
クーデター派が吉村を糾弾した際に問題視したのは先述の通り、集金した売り興行代金の着服であったが、実際にはそんな事実はなかった。
このような嫌疑がかかった理由として推測されるのは、巡業中の吉村が、同行した記者達に度々 「小遣い」を手渡していたことだったが、上述の三澤氏曰く、
「あれは自分の麻雀の勝ち分から出していただけ。吉村さんは二つ封筒を持っていて、公私を きっちりと分けていた。興行の代金を集金した 翌日、地元の銀行から都度会社宛に送金してきたが、額が足りなかったことは一度もなかった」
昭和46年の掉尾を飾るワールド・チャンピオン シリーズ中のオフ日にあたる11月28日、代官山の
日プロ事務所で臨時役員会が開催された。この席で、猪木の代理人(木村昭政氏)から大木金太郎戸口正徳を除く選手18名の署名が入った連判状が芳の里社長に手渡され、経理担当重役の遠藤幸吉地方巡業における集金とマッチメークを担当していた吉村道明の退任要求が伝えられたという。

リング上では力道山をはじめ、同輩、後輩のレスラー達に花を持たせ、自分は血だるまで青息吐息だった吉村。その後輩達から退任要求を突きつけられた時の心境はいかばかりだったか。
ゴッチ、レイス、マードック、デストロイヤーにマスカラス…いずれも一家言を持つ同業者たちが
一様に職人としての器量と手腕を称賛した吉村が
リングを降りても清廉な気性を持ち合わせていたという事実は特筆に値しよう。本来なら吉村こそ
引退後も永らくマット界に残って欲しかった存在であった。
吉村は翌々年の春に引退するが、以降はレスラーとしてのカムバックは勿論、プロレス界との接点を一切断ち切った。その姿勢は非常に潔いものとして関係者から称賛されたが、本人としてみればプロレス界に戻るどころか、当時については思い出したくもない心境だったのかもしれない。
非常にやるせない進みゆきとなったので、最後は少しだけ良い話しで締めたい。今年六月、新大阪駅近くのホテルで、元NETワールド・プロレスリングの実況を務められた舟橋慶一アナの講演を 拝聴した際、意外なエピソードを知らされた。
昭和48年3月3日、近大記念会館(東大阪市)で 行われた上述の吉村道明引退式に、二人の人物が
来訪した。一人は豊登で、控え室に入りかつての同僚と旧交を温め、激励した。そしてもう一人は
会場の外までは来たが、結局館内には入らず(入れず?)そのまま踵を返して立ち去ったという。
舟橋氏曰く「それがアントニオ猪木だった」*12)
当時の猪木は、一年前に新日本プロレスを旗揚げするがテレビ中継が付かず、興行面で苦戦を強いられてきた。年が明けて漸く坂口征ニらの加入を条件に、NETの放送が決まったばかりである。
ホッと一安心した時に、かつて古巣で自分を盛り立ててくれた先輩の引退を知り、クーデターの際のお詫びと労いを兼ねて、門前払いを覚悟の上で
遠路足を運んできたのだろうか。

当時から既に半世紀以上が経過し、今や関係者の大半が鬼籍に入った。ポスト力道山時代の日プロを揺るがせた様々な事件・騒動の記憶も、旧くからのファンの脳裏で徐々に霞みつつあるのかもしれない。
それでも、善悪や恩讐といったドロドロした感覚が遠い彼方に去り、当時のエネルギーの奔流、渦のようなものの気配を微かに感じ取る時(一連の事件をリアルタイムに見聞した、しないに関わらず)それらの残香は、限りなく懐かしいものとして胸に迫って来る。
*1)本来は組織におけるダラけた、又は堕落した
幹部を指した一般用語。あるいは労働争議に
おいて(労働者の代表でありながら)自己の
保身を優先し資本家に有利な条件で妥協する
リーダーを揶揄した言葉だったという
*2)元々は「社内改革」だった試みが、途中から
社内転覆を目的とした「クーデター」に転じ
猪木が首謀者として逆に糾弾される、という
展開に繋がるが、以降は便宜上一連の出来事
を総称して「クーデター」と記したい
*3)日本テレビが主導、政財界の関係者と調整の
上、新体制発足に至ったとすると説と、逆に
日テレはプロレス中継継続に消極的で、危機
感を抱いた四幹部が結束、敬子未亡人を前面
に立て継続を懇願したとする説に二分される
前者は日本テレビ・プロレス中継プロデュー
サーだった京谷泰弘氏の証言だが、後任の
原 章氏は後にそれを否定している
*4)実際には新会社を設立し、以降のプロレス
興行はそちらで行うよう差配した。これに
より、大規模リゾートやゴルフ場開発などで
億単位の負債を抱えるリキ・エンタープライ
ズとプロレス事業は完全に分離され、エン
タープライズ社主の敬子未亡人に残された
収入源はリキ・アパートの賃貸料のみとなる
*5)当夜の視聴率は51.4%を記録、プロレス人気
低迷の不安を完全に払拭した
*6)ゴッチの猪木評は、前田日明が藤原喜明との
対談で語っている(「アントニオ猪木と
UWF」宝島社 p67)
*7)1971年8月の第二次ニクソン・ショック(ド
ル・ショック)において米ドル-金の兌換が
停止され、金本位制が終わりを告げて以降
ドル通貨発行量の制限は段階的に緩和されて
いくが、国内におけるドル(現金)調達が、
その後急激に簡易化されたわけではない
*8)この「仮払い金」を不審に思った木村昭政氏
(猪木の側近、クーデターにおける代理人)
あたりが高額の「使途不明金」があるとして
追求した、というのが最も真実に近いように
思う
*9)「リキパレス売却時の手数料」については
マティ・鈴木氏の証言だが、リキ・エン
タープライズの物件であるリキパレスに
関して遠藤が権利を主張するのは本来なら
ばおかしい(鈴木氏もその点は断定を留保
している)
一方、ベンツの選手バス納入、NET放送開
始に際しての「収賄」(新車の獲得、及び
リベート受け取り)については、代理店
(ヤナセ)からの請求書(総額記載)、
当時NET編成局長だった辻井博氏(後の
新日本プロレス会長)の証言などが残って
おり、事実であると思われる
*10)この時に遠藤に暴行を加えた"若い衆"は
豊登の肝煎りで結成された"隼組(隼隊)"
であった。主なメンバーは田中忠治、ミツ・
ヒライ、グレート・小鹿(小鹿雷三)らだが
豊登の差し金と言われるこの暴行事件の際は
林牛之介、星野勘太郎、米良明久らも加わっ
ていたとされる。
*11)当時の日本テレビ・プロデューサー、原章氏
によると、猪木除名の正式発表(12/13)前に
芳の里が来社し一応の説明を受けたという。
一方NETに対しては事前説明がなかった由
(当時のディレクター・田島行康氏の証言)
*12)猪木来訪の件について、初耳だった私は
驚いたが、満員の聴衆の何人かは既にご承知
の様子だった。以前から、知る人ぞ知る逸話
だったのだろう
【参考文献】
・日本プロレス70年史「昭和編」/BM社
・The Rikidozan Years / Haruo Yamaguchi
with Koji Miyamoto & Scott Teal (表題写真)
・テレビはプロレスから始まった/福留崇裕
イースト・プレス社
・力道山未亡人/細田昌志 小学館
・馬場戦記/流 智美 BM社
・"東洋の神秘"グレート・カブキ自伝/辰巳出版
・G-Spirits Vol.22 "相撲とプロレス"
・ ----〃---- Vol.31 "特集・日本プロレス"
・ ----〃---- Vol.50 "BI砲時代の日本プロレス"
・. ----〃---- Vol.63 "デイリースポーツから見た
四団体時代の日本マット界"
・----〃---- Vol.64 "火の玉小僧"吉村道明・後編
・----〃---- Vol.67 "佐藤昭雄 BIを語る"
・----〃---- Vol.71 "日本プロレス70周年"
・----〃---- Vol.72 "猪木・日プロ除名事件"
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