
九州山とは何か
- Satom
- 2025年9月12日
- 読了時間: 10分
日本のプロレス史を紐解く上で、重要な人物、鍵となる人物は数多くいる(いた)。勿論その多くは他界しており、今、その貴重な証言をきくことは叶わない。中には、生前インタビューに応えて興味深いエピソードを披露してくれた例もあるが反対にメディアへの露出が極端に限られていたケースも少なくない。
後者の代表の一人が、九州山ではないだろうか。旧くからの書物などで、度々その姿を見てはいるのだが、意外と本人について書かれた読みものやインタビュー記事に触れた記憶はない。そこで、黎明期の日本プロレス界における氏の立ち位置や役割を自分なりに掘り下げ、その存在の何たるかについて一考したいと思う。
九州山が角界出身であることは、その名前からもオールド・ファンの方は先刻ご承知とは思うが、昭和五年から二十年まで約15年間の力士生活で 最高位は小結。無双の横綱双葉山をはじめ玉錦、羽黒山など歴代の横綱を破る殊勲の星を挙げて いる。
昭和十四年から十六年まで二年にわたり現役生活を中断、陸軍兵士として中国大陸に渡っていたが力士としてまさに最盛期を迎えようという時期のブランクは何とも惜しまれる。ともあれ旧日本軍に所属した経歴は、少年兵として海軍に志願した吉村道明と並び、日本プロレス関係者の中でも異彩を放っていた。

日本プロレス黎明期の核は言うまでもなく力道山であり、この「絶対的ワンマン」との関係性が、組織内のそれぞれの立場、待遇を決定づけていただろうことは容易に想像できる。九州山の場合は力道山より十歳以上年長で、力道山の師匠だった玉ノ海(梅吉)とほぼ同年輩。また現役レスラーとしてリングに上がることもなかったため(東富士や駿河海といった力道山と年の近い先輩とは異なり)感情面における軋轢は比較的少なかったのではないか。 勿論、力道山による鉄拳制裁とも無縁であった。

猪野健治氏の著作「興行界の顔役」には、シャープ兄弟を招いての国際試合を成功裡に終えた興行主の永田貞雄がレスラー、関係者を招いて祝宴を開く場面が描かれている。この場に同席した九州山に、ボビー・ブランズがプロレス入りを勧めるシーンがあるので引用したい。
「ミスター九州、プロレスラーにならないか。ユーはミスター木村(政彦)より体がいいから、絶対にいけるヨ」
「もう年をとりすぎてるからダメだし、その気はない」とあわてて否定する九州山(当時41歳)に対し、今度は力道山が声をかける。
「九州関、プロレスラーがいやならぜひレフェリーになって欲しい。これからプロレスは大躍進する。間違いはない。何人もの日本人レフェリーが必要になる」
実際にこのような会話があったのかどうかはさておき、九州山がその祝宴の場にいた背景について同書は簡潔に記している。
「(九州山は)永田とは昭和十二年春、前頭七枚目の時、赤坂(芸者)小梅の紹介で知り合った」
…新田新作に続いて力道山の強力なスポンサーとなった永田貞雄と九州山は、元々長い付き合いがあったのだ。
そもそも新田新作にしてからが、九州山が十代の頃からのタニマチだった間柄。九州山が新田に東富士を紹介し、その東富士が力道山と新田を引き合わせたという経緯を見るにつけ、日本プロレスの創世期を支えた有力後援者との縁は、九州山を抜きにして語れない。
勝負と実業という、縁のない二つのの世界を架橋して興行を成り立たせるためには、両界に通じた
"掟"に通じ、かつ共通言語を操り、意思の疎通や利害の調整を図るリエゾンが必要になる。「境」に立つ者と言っても良い。
力道山が九州山に求めたのはまさにこの一点ではなかったか。大げさに言えば、内と外を結ぶ儀式を、然るべき"作法"に則って取り仕切れる人物として請われたという気がするのである。
そんな九州山の真骨頂が最大限発揮されたのは、奇しくも力道山が没した直後、警察庁による「頂上作戦」が全国規模で挙行された時だった。
「頂上作戦」とは何か。正式には警察庁が昭和三十九年一月に策定した「暴力取締要綱」に基づく
大規模な取締りを指すものだが、その目的は今でいう反社勢力の解体・一掃にあったとされる。
当時は政財界や官僚と裏社会が互いの存在に依存しつつ、表裏一体の様相を呈していた時代。特に昭和三十年代半ば、六十年安保闘争においては、与党内勢力が右翼・博徒を含むアウトロー集団を巻き込み、学生運動を含むデモなど、反対勢力の活動を鎮圧する動きがあった。*1) この試みは全国的に拡大するには至らなかったが、結果として表・裏の権力構造の癒着が常態化、顕在化することに対する懸念の声も高まっていく。
ごくシンプルに総括すると「頂上作戦」とはこうした風潮に対して、国家権力が大きくメスを入れようとした動きだったと言える。*2)
力道山亡き後の日本プロレス協会は、会長、副会長が戦後の著名なフィクサーであったり、全国的勢力を有する反社組織のトップだったりと、いわゆる闇勢力との繋がりが明々白々であったことから、真っ先にターゲットとなる。
これまで日プロの後ろ盾となり、様々な便宜を図ってきた大野伴睦(自民党副総裁、日本プロレスコミッショナー)も、自らが院外団*3)出身だったこともあり、元々裏社会とは深い結びつきがあった。しかし、その大野伴睦が力道山没後半年も経たずして急逝したことから、日プロの屋台骨は大きく揺らいでいく。全国の体育館など公共施設を管理する所管の警察署には、プロレス興行に貸し出しを禁止する旨の通達が出回り、実際に興行を中止せざるを得ないケースも一度ならずあったという。
この時、日プロ関係者として事態の収拾に東奔西走した筆頭が九州山であった。大野の後任として自民党副総裁及び日プロの新コミッショナーに就任した川島正次郎が日本プロレス協会から反社色を一掃した*4)ことを受け、日プロの幹部と手分けして全国各地の警察本部と役所に出向き、組織の刷新を訴えたのである。数ヶ月に渡る粘り強い弁明行脚が奏功し、やがて地方興行も以前のように打てるようになった
…というのが「表」のストーリーだが、この行脚における訪問先は、役所や警察だけに限らなかったろう。当然ながら「その筋」の人達が多く含まれていたはずである。彼らへの挨拶・釈明の出来不出来が、興行会社・日本プロレスの命運を決するような重大な局面だったに違いない。



ここからは時代が数年先に進む。資料が手元にないため記憶を頼りに書くが、グレート小鹿が米国武者修行中、日本から訪れた猪木とLAの料理店で語り明かした一夜を、後年になって述懐したエピソードである。
小鹿に対し日プロの現況を説明する猪木は、当時人気沸騰中だった西野バレエ団が自社ビルを建てた話しを引き合いに出し、わが日本プロレスは、自分達レスラーがリング上で身体を張って頑張っても会社の経営が乱脈でお金がどんどん出ていく始末だ、と嘆く。
これだけ満員のお客さんが入っているのに、立派な会社ビルを持てないのは、役員達が湯水の如くお金を使ったり、仕事もしない古参幹部を優遇しているからだ…この夜、日プロ幹部に向けた猪木の糾弾はエスカレートするばかりだったという。
猪木の不満は昭和四十六年の暮れに会社のクーデターという形で噴出することになるが、この小鹿との会食で「仕事もしない古参幹部」として名指しで批判された一人が九州山だった。これは猪木だけではなく、当時若手だった佐藤昭雄や経理面の実務担当者(三澤正和氏)も後年になって同様の証言をしていることから、当時の日プロ社内における共通の認識だったのだろう。
所属レスラーによる"集団的ルサンチマン"が暴発するが如く始まったクーデターは、一転"会社乗っ取り"を企てた猪木の追放という形で幕を閉じた。
しかしその後の激震はご存知の通り、猪木だけでなく多くのレスラー・関係者の運命を一変させる。新団体に活路を見出したレスラー、社員もいたが、旧日プロ役員の居場所はそこになかった。
日本プロレスの崩壊後、九州山の姿は猪木-大木戦における大木のセコンド、天龍(天竜)断髪式の進行役として、新日、全日のリングで一度ずつ見られたが、その後は昭和のマット史から静かにフェイドアウトしていく。願わくば国際を含めた団体のどこかで、解説席にでも座って欲しかったが「とっくに戦後ではない」昭和五十年代以降の時代において、その際立った玄人感は「一億総ヨカタ」の中で浮いてしまったかもしれない。
日本プロレスの興りから没落まで全てを見届けた九州山が、興行の世界に生きた自分の半生をいかに総括するのか、一度は傾聴してみたかった。 当時G-Spiritsのような媒体があって、その言葉を遺してくれていたら、などと詮無き妄想は尽きない。
まぁ収録した談話の大半は支障により表に出せずお蔵入りしていた可能性が高いが…💦

*1)発端は吉田茂内閣で初代の法務大臣や防衛庁
長官などを歴任した木村篤太郎が、法務総裁
時代に右翼勢力と連携し、赤化防止を目的と
した「反共抜刀隊」構想の実現に動いた事。
吉田首相の反対により構想は頓挫するが、
数年後、岸信介政権下で、時の米国大統領
アイゼンハワーの来日が決定した際には、
政権の依頼を受けた児玉誉士夫の号令一下、
羽田空港から都心までのパレードを護衛すべ
く、警視庁の一団に加え博徒・テキ屋・右翼
関係者など、三万七千名を動員する手筈が
整っていたという。(「深層海流の男・力道
山」/牛島秀彦 p203-208) 結局大統領の
来日は中止となり、安保反対運動の激化に
伴う混乱の責任を取る形で、岸首相は辞意を
表明、内閣は総辞職する
*2)一時岸信介の懐刀的存在だった川島正次郎を
はじめとする官僚出身の政治家達が、党人派
を代表する大野伴睦、及びその一派・残党の
影響力を排除すべく仕掛けた政争(自民党内
の権力闘争)の一環だったとする説も根強い
*3)院外団とは、戦前から戦中にかけて、特定の
政党の用心棒的な役割を果たしていた集団を
指す。選挙の行方を暴動や煽動をもって左右
させることも請け負っていた。大野伴睦は、
若き日に立憲政友会の院外団に所属していた
ことで知られる
*4)力道山の死後、裏社会の有象無象が日本プロ
レス興行(株)に対する権利を主張し始めた
ことから、新社長に就任した敬子未亡人の
後見人的存在だった大野伴睦が、トラブルを
未然に防ぐため、反社大手の実力者を日本
プロレス協会の要職に据えたと言われている
大野亡きあと後任を継いだ川島正次郎はこれ
を逆手にとり、日プロ興行(株)の社長を
敬子未亡人から豊登に交代させ、大義名分を
なくした反社関係者をプロレス協会から放逐
するよう企図したとされる
(以上「力道山未亡人」p194-196より要約)
【参考文献】
・「興行界の顔役」猪野健治
・「君は力道山を見たか」吉村義雄
・「深層海流の男・力道山」牛島秀彦
・「1954 史論-日出ずる国のプロレス」小泉悦次
・「力道山」斉藤文彦
・「力道山未亡人」細田昌志
・ G-Spirits Vol.31 "日本プロレス特集"
・ G-Spirits Vol.50 "BI砲時代の日本プロレス"
・ G-Spirits Vol.72 "A猪木日プロ除名事件"





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