
昭和最後の最強タッグ
- Satom
- 2025年12月17日
- 読了時間: 8分
"降る雪や明治も遠くなりにけり"という句が詠まれたのは昭和六年(1931年)の1月。明治最後の年が45年(1912年)なので、その時点で約二十年経っていたことになる。ざっとふた昔なので、間に短い大正を挟み、明治の輪郭も霞がかってきた頃だったのだろう。
その伝でいけば、昭和は64年(1989年)の初頭まで続いたので、もう37年経ったことになる。
つい最近まで割と身近なところにあった気がしていたが、いつの間にかすっかり朧げになってしまっていた。
本ブログの趣旨が昭和プロレス、更に年末ということで、今回は昭和最後の開催となった、88年の世界最強タッグを振り返ってみたい、
前年の87年には、新日から数年ぶりにカムバックしたブッチャーとブロディを加えた全12チームが参加、新旧の役者が揃った豪華版かつ、ハンセンとブロディが別々のチームとして争うなど、今後の展開が楽しみになる大会だった。顔ぶれだけで言えば、最強タッグ史上最高のメンバーだったかもしれない。
しかし僅か一年後の88年、様相は一変していた。
プエルトリコで命を落としたブロディ、オープンタッグ以来の看板だったファンクス、そして優勝候補の一角だった龍原砲も、阿修羅・原の突然の解雇により不参加。毎年暮れの風物詩を楽しみにしていたファンは、一抹どころではない寂しさを味わったのではないか。メンバーは以下の通りで全11チームが参加した。
ジャンボ鶴田、谷津嘉章(前年度優勝)
スタン・ハンセン、テリー・ゴディ
ジャイアント馬場、ラッシャー木村
天龍源一郎、川田利明
輪島大士、グレート・カブキ
タイガーマスク、ジミー・スヌーカ
アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジェット・シン
ディック・スレーター、トミー・リッチ
ジョン・テンタ、高野俊二
ダニー・スパイビー、ジョニー・エース
クラッシャー・ブラックウェル、ヒッカーソン
リアルタイムで見た場合、どうしても前年の豪華絢爛さと比較してしまい、一枚落ちる感じが拭えなかったこの年のリーグ戦。しかし時が流れて、令和の世から虚心に「昭和最後の最強タッグ」をレビューしてみると、端境期特有のオーラが醸し出されていたことに気付く。
リーグ戦を通じて印象的なのが、プロモーター・馬場の当時の心象風景が各チームの戦績に如実に反映されていること。極端な例を挙げると、ディック・スレーター、トミー・リッチ組がまさかの勝ち点ゼロで全日程を終了。僅か数年前までNWAを代表する存在だった二人が、白星配給係に甘んじたというのは、それまでの全日を知るものにとっては「異常事態」としか言いようがない。
かつて大いなる拠り所にしたNWAの権威を、自ら破壊しようとした馬場の真意は何だったのか? この時期、エディ・グラハムは他界し、ジム・バーネットはジョージアの興行権をWWFに売却して離脱しており、NWAはジム・クロケット・ジュニアの個人商店と化していた。かつての偶像を「蹂躙」することは馬場にとっては造作もなかっただろうが、それにしても…この尋常でない仕打ちからは、相当根深いものを感じてしまう。


憂き目を見たのは、スレーター、リッチだけではなかった。フィル・ヒッカーソンとのコンビで参加したクラッシャー・ブラックウェルも同じく勝ち点ゼロのまま帰国。ブロディという生涯最高のパートナーを失ったスヌーカにも、落日感溢れる名優という役回りがあてられていた。


一時は"外人天国"と呼ばれた全日マットの磁場に
狂いが生じたのはなぜか? その要因は主に三つあったように思う。
一つは、80年代半ばのジャパン・プロレスの全日参戦から撤退、更に天龍革命へと、一貫して日本人レスラーを主役とする流れが続いていたこと。88年の時点でこの渦の中心にいたのは天龍源一郎であり、鶴龍コンビ解消後の鶴田との激戦の数々は、新ステージに移行した全日本を象徴するものだった。
しかし、激しい打撃戦が長時間続く試合スタイルに適応し、客席を沸かせることのできるヘビー級の外国人は、ハンセン、ゴディなどごく一握りに限られ、従来の間合い・ペースにこだわるその他外国人レスラーはいわば「蚊帳の外」状態であった。
二つ目は、当時全日本に来日していた外国人選手の主戦場だったNWAとAWAの様変わりである。WWFの全米侵攻により、NWA/AWAの主要テリトリーの大半が急速に衰退しており「二大世界王座」を擁する老舗団体のイメージは過去のものとなりつつあった。
全日マットの看板選手権が、インター、PWF、UN各王座を統合した「三冠ヘビー」となるのは
年号が平成に移ってからだが、昭和の末の段階でNWA・AWAは既に権威付けの対象ではなくなっていたのである。
三つ目の要因として挙げたいのは佐藤昭雄の不在である。80年代前半には日本テレビの意向を汲んで全日本のブッカー、マッチメーカーとして手腕をふるった佐藤は、若手の育成に加え、馬場から鶴龍への世代交代のお膳立てを担うなど、団体にとっては得がたい存在であった。仕事柄、来日する外国人レスラーとは頻繁に意思の疎通を図り、シリーズのテーマや各レスラーの役割、更に試合作りに関するアドヴァイスも適時行なってきたというから、裏方としての精勤ぶりが窺い知れる。
しかし、団体に対する貢献度と「馬場商店」における待遇・位置付けは異なっていた。80年代後半にマッチメーカーの職を下り、再び拠点を米国に戻した佐藤は、年に1〜2シリーズの頻度で古巣の全日にスポット参戦していたが、90年1月の新春ジャイアント・シリーズを最後にWWFに転身する。
天龍革命効果による試合スタイルの変容、NWA(及びAWA)の形骸化、バックステージの中核的存在の不在、という三つの要因の影響がそろって顕在化したのがこの時期であり、結果として88最強タッグのリングに如実な変化となって現れた、とするのが私の個人的な解釈である。
この「乱れ」に乗じたのか?現在Youtubeなどの動画サイトでリーグ戦を振り返ると、リング上の展開自体は割と野放図、かつ格や「序列」を一旦リセットするような自由さがあって面白い。試合内容もまったりした味と激しい乱打戦が、シリーズを通して同居していた感がある。
試合の流れに直結しないところで、故障していた三沢タイガーの左脚を乱打する川田。優勝チームのハンセン、ゴディをリング内外で思い切り痛めつけたジョン・テンタと高野俊二。一方でスレーターとスヌーカの渋い攻防は、何とも言えない味に満ちていた。上述の佐藤昭雄がいたら、この機会に日本人対決や世代交代、ベテラン名優同士の絡みなど、各所にテーマを設定しつつ、観客席に届くようアピールできたのではないか。
ここで話しが突拍子もないところへ脱線するが、歴代の天皇は、日本列島の四海を統(す)べる、神官としての役目も果たしてきたとされる。その関連で云えば、昭和の最末期だったこの時期に、平将門の怨霊が帝都破壊を目論むという、荒俣宏さんの小説「帝都物語」が数年がかりで発表され88年には初回作が映画化されていたという事実は興味深い。
ものがたり自体は明治から「昭和73年」にかけての長編・大河小説だが、全編を通じて醸し出されているのは「終末感」であり、バブルの絶頂期に向かって地下で蠢くマグマのようなエネルギーの
うねりのようなものが、作品に色濃く反映されていたように思う。何よりも、昭和末期のあの空気感…何か巨きなものが終わろうとしているザワザワとした感覚を当時リアルタイムで経験した方は割と多かったのではないか。後付けのように聞こえるかもしれないが、そんな気がするのである。
この、ある意味でデモーニッシュな空気に感化され、鬼神としての馬場の業が地表に剥き出しになり、昭和最後の最強タッグにおけるリング上の磁力に乱れが生じていたのでは?、という妄想に、ついとらわれてしまう。
この最強タッグの前後から平成初期にかけて、馬場のもとからは多くのレスラーが去っていった。輪島、石川、天龍、谷津、カブキ、テンタ、高野俊二、佐藤昭雄…。そして天龍をはじめ、多くの選手がSWSに移籍した1990年を機に、タイガーのマスクを脱いだ三沢光晴を筆頭にした超世代軍が台頭、以降の数年間に渡って、馬場・全日本は創立以来、真の黄金時代を迎えることになる
そんな前後の流れを踏まえつつ、改めて88年の最強タッグを見返すと、昭和と平成の結節点として
又違う景色が見えてくる。「1Q88」的なその場所に今こそ戻り、ジャイアント・サービスの売店に座る馬場さんの姿を目に焼き付けたあと、当時ならではの空気を満喫しつつ、心おきなく試合が観られたら、と想像するだけで愉しい。
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昨年秋から始めた投稿も、今回で50回を迎えた。
100回を目指すには自身のネタ不足が明らかなので、今回で最終回としたい。
乱文にお付き合い頂いた皆様と、この機会と場を設けて下さった松並様に改めて感謝いたします。ありがとうございました。
Satom





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