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喧嘩番長・独壇場

  • Satom
  • 10月24日
  • 読了時間: 8分

ディック・スレーターが亡くなったのは、2018年10月18日なので、今月で早くも丸七年になる。


脊椎の怪我からくる慢性的な痛みに悩まされた上私生活でのスキャンダル的な事件も重なり、その晩年は華やかさとは無縁だった。結果として訃報が大きく取り上げられることもなく、追悼記事を組んだ紙媒体は皆無だったかもしれない。


しかし、かつて昭和のプロレス黄金期を彩った、重要な登場人物の一人であったことに変わりはない。今回は改めて当時の活躍を振り返り、在りし日の「喧嘩番長」を偲びたいと思う。


日本におけるスレーターと言えば、同い年であるジャンボ・鶴田のライバルという印象が強い。第八回チャンピオン・カーニバル決勝戦で、眼帯を付けて熱戦を繰り広げた姿が記憶に残っているが

ここではジャイアント馬場絡みの二試合を取り上げてみたい。


まずは昭和49年8月29日後楽園ホールで行われた

第二次サマー・アクション・シリーズ最終戦におけるタッグマッチ。キラー・カール・コックスと

組んで馬場、デストロイヤー組と対戦した試合であるが、初来日のスレーターは、大ベテラン三人に囲まれても全く萎縮することなく、さも当然といった感じで、サクサクとセミファイナルの60分三本勝負をこなす。


この日のメインイベントは、鶴田がドリー・ファンク・ジュニアに挑む一戦で、鶴田にとっては初めてシングルでメインを務めた試合であった。


当時はキャリア二年目でメインのシングルマッチに登場した鶴田ばかりが注目されたが、新人離れした非凡さという点ではスレーターの試合ぶりも甲乙つけ難いものがある。

二本目のフィニッシュとなった馬場のジャンピングネックブリーカー・ドロップ。この年の暮れにNWA世界ベルトをジャック・ブリスコから奪取する時の決め技が初来日の若手相手に何気に披露されている
二本目のフィニッシュとなった馬場のジャンピングネックブリーカー・ドロップ。この年の暮れにNWA世界ベルトをジャック・ブリスコから奪取する時の決め技が初来日の若手相手に何気に披露されている

二戦目は、昭和52年3月11日・日大講堂における

シングルマッチ。この日のメインは鶴田とビル・ロビンソンのUNヘビー級タイトルマッチで、再び鶴田の露払いを務めた形となったスレーターだが御大の馬場を相手に、真っ向からケレン味のない好ファイトを展開した。試合時間は十分程度で、これだけ見ると馬場の楽勝にも思えるが、実際の映像では、見応えのある攻防が随所に展開されている。


翌年(昭和53年)にはPWF王座から転落する馬場 だが、昭和50〜52年頃にかけての動きにはまだまだキレと迫力があった。この直後立ち上がったスレーターは、背後から眉間に痛烈なエルボーを落とし、馬場は苦悶の表情を浮かべる。喧嘩番長会心の一撃
翌年(昭和53年)にはPWF王座から転落する馬場 だが、昭和50〜52年頃にかけての動きにはまだまだキレと迫力があった。この直後立ち上がったスレーターは、背後から眉間に痛烈なエルボーを落とし、馬場は苦悶の表情を浮かべる。喧嘩番長会心の一撃

解説席の山田隆氏は、この時のスレーターについて「ハーリー・レイスとテリー・ファンクの良いところを足して2で割ったよう」と形容していたが、当時25歳の若手レスラーに対するとは思えない最大級の賛辞と言えよう。


この山田氏のコメントを裏付けるように、馬場も普段出さないような大技を、次々とスレーターにぶつけていく。それはまるで、前月NWA世界王座にカムバックしたばかりのレイスへの挑戦を意識し、試合運びを調整するが如くであった。


少なくともこの時点で馬場はスレーターのことを

"レイス同様、遠慮なく大技を仕掛けられる相手"

として認めている様子が伝わってくる。


この試合の決め技は馬場のブレーンバスター。翌年マスカラス兄弟の挑戦を受けたインター・タッグ戦では、ドス・カラスをサイド・スープレックスで仕留めているが、本来は非常に珍しいパターンである
この試合の決め技は馬場のブレーンバスター。翌年マスカラス兄弟の挑戦を受けたインター・タッグ戦では、ドス・カラスをサイド・スープレックスで仕留めているが、本来は非常に珍しいパターンである

余談ながら、この時代の米マット界、特にNWA圏では三十代半ば頃のベテランを、一つ下の世代が急追するという面白い局面を迎えていた。前者の代表が、世界チャンピオンに返り咲いたレイスをはじめ、ファンクス、ブリスコら元・前王者達、後者の若手グループにはスレーター、ボブ・バックランド、リック・フレアー、テッド・デビアスらがひしめくという米国版・世代闘争の様相である。


世代闘争というのは、旧世代がまだまだ力がある内に行われてはじめて意味を持つ。進境著しい ヤング・パワーが、現役バリバリの元・前・現のNWAチャンピオン達に挑んでいくというドラマが全米規模で展開されていれば、大きな熱気と渦を巻き起こし結果としてNWAの将来に資するところ大だったのではないか…などとつい想像してしまう。(米マット界の実情やファンの気質・ニーズに疎い一ファンの妄言ではあるが)


実際には、世代交代劇という「ものがたり」を、興行におけるテーマとして位置付けようとしたのは、NWAの総本山だったセントルイスのみであった。具体的には、以下三試合が該当する。


◯ ボブ・バックランド- ハーリー・レイス ⚫️

◯ディック・スレーター - ジャック・ブリスコ⚫️

◯リック・フレアー - ドリー・ファンク・JR⚫️


この手の試合を乱発せず、1976年から78年にかけ一年に一回程度に抑えていること、敗れた旧世代のポジションが急速に下降しないように配慮していること、等々ツボを押さえた心憎いマッチマークである。


余談から又脱線したが、上記三試合の内ディックスレーターの(セントルイスにおける)出世試合は、1977年8月12日キール・オーディトリアムにおいて行われた。上述の馬場とのシングル戦から僅か半年足らずで元NWA王者ジャック・ブリスコを破りミズーリ・ヘビー級王座を奪取したスレーターは、以降キールの常連として世界王座戦線に絡むことが期待されたが…


意外にもセントルイスにおけるレイスへの挑戦は一度も実現しないまま、翌78年2月には同世代のテッド・デビアスに敗れ王座を転落する。

デビアスに敗れた際の試合記録がキールに残っていない事から、この試合はWATCのTVスタジオで行われた可能性が高い。


以降スレーターの姿はセントルイス・マットから一切消えてしまう。どう見ても不自然な展開だがスレーターが何らかの理由で同地区のオーナー、かつ、ミスターNWAとして隠然たる勢力を持っていたサム・マソニックの不興を買ったのは明らかであった。


このあたりの事情については、かつて小泉悦次さんが論じておられたが、当時ジョージア、フロリダなど南部の人気テリトリーを掛け持ちしていたスレーターが、セントルイスの定期戦に常時出場できなかった(しなかった)ことも原因の一つと言われている。


1978年1月、スレーターとほぼ入れ替わるようにリック・フレアーがセントルイス初登場を果たしミズーリ・ヘビー級王座はデビアスからマードックに移動、翌79年からはエリック兄弟も参戦し、総本山における次期王者候補群は、彼らを中心に形成されていく。


日本では永く次期NWAチャンピオンの有力候補として称されたスレーターが、実は早々にコースアウトしていたのは意外であったが、さすがにこれらの事実がリアルタイムでファンに伝わることはなかった。


同年夏、スレーターはテリー・ファンクのポリスマン的役割を担って三たび来日を果たす。前年末のオープン・タッグで大爆発したテリー人気は、真夏の日本で突発的に行われたブッチャーとの 二度のシングル・マッチで再燃するが、このシリーズのスレーターは、ある意味テリーを凌ぐ、八面六臂の活躍を見せた。


78年7月21日、旭川市総合体育館において行われたテリー、スレーター組対ブッチャー、ルーファス・ジョーンズ組のタッグマッチで、スレーターが見せた動きは、レスラーの試合ぶりを表すには似つかわしくないかもしれないが、急流を奔放に泳ぎ回る若鮎を彷彿とさせた。


弾かれたようにリング狭しと躍動し、ダウンさせたブッチャーにニードロップとエルボーの複合打撃をお見舞いするスレーター。その動きは群を抜いており、兄貴分のテリーとその仇役であるブッチャーを完全に凌駕していた。"ディッキー"という愛称が 観客席に定着し始めるのは、翌年あたりからである
弾かれたようにリング狭しと躍動し、ダウンさせたブッチャーにニードロップとエルボーの複合打撃をお見舞いするスレーター。その動きは群を抜いており、兄貴分のテリーとその仇役であるブッチャーを完全に凌駕していた。"ディッキー"という愛称が 観客席に定着し始めるのは、翌年あたりからである

「ディック・スレーター独壇場!」と放送席の倉持アナウンサーが絶叫したのはこの一戦であるが

軽快な動きで試合のテンポを上げていく存在感はまさに傑出していた。ガチガチに気負うでもなくごく当たり前、といった風情でこれらのシーンを演出するあたり、その際立ったセンスが如実に示されていた、と言える。


当時27歳だったディック・スレーターはこの段階でプロとして既に完成されていたと言っても過言ではなかった。あとはファンの認知を待つばかりであったが、実際に翌年、翌々年と日本における彼の人気は急上昇していく。


レスラーとしての突出した才能と個性…控室における数々の「武勇伝」に見られるようなタフさも含め、NWAのベルトを腰に巻く資格は十分にあった。リック・フレアーの長期政権は、当時の趨勢からして必然的だったのかも知れないが、たとえ短期にせよ、他のチャンピオン候補達の戴冠も見てみたかったと今でも思う。


「それ以降の」スレーターについては、交通事故を含めて語り尽くされた感があるので、ここでは繰り返さない。晩年には"悲運の"、"運命に敗れた"

存在として総括されがちだったのは致し方ない面もあるにせよ、他人から一方的に押し付けられたイメージは、当の本人にとっては不本意なものだったろう。


いや、存外そのあたりは気に病んでいなかったかもしれない。達観とは又違うが、周囲からの風評をあまり当てにせず、自分軸で生きるスタンスのようなものが、スレーターにはあったようにも思う。時には大物プロモーターの心象を害しても、若い時からその姿勢は変わらなかったのだろう。


思えば「テリーのコピー」と言われながら、心酔した兄貴分の最も「らしい」ところ…八方破れで敵陣に突っ込み、レッドゾーンに針を振り切った挙句、精魂尽き果ててリング内外でダウンする、といったシーンは、スレーターに関してはついぞ見られなかった。


それは、絶対的な人気と支持を誇ったクレージーな兄貴の用心棒、かつ早生の弟分としての一つの自負、矜持であったような気もする。


 
 
 

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