待ち続けた夢の対決!!猪木対ニック戦、その点と線 (秘蔵写真綴るNWAタッグリーグ戦大阪大会:昭和45年11月29日)
- Toshiyuki Fujii
- 10月24日
- 読了時間: 10分

”燃える闘魂”と呼ばれるようになったアントニオ猪木と闘って欲しいレスラーの上位に必ず上がってくるレスラーの一人が“金髪狼”ニック・ボックウインクル”選手であった。
名レスラーであるウォーレン・ボックウインクルの息子で、少年時代から父のレスリング英才教育を受け、16歳でプロレス入り、そのデビュー戦の相手が全盛時のルー・テーズであった事は有名。当初はハワイとカリフォルニア地区を主戦場にしていたが、1970年にAWA圏に転出し、1972年1月20日にレイ・スチーブンスと組みクラッシャー・リソワスキー&レッド・バスチエン組を破りAWA世界タッグ王者となる、その後、1975年11月8日ミネソタ州セントポールでAWAの帝王バーン・ガニアを破り第28代AWA世界チャンピオンになる。

ちょうどこの時期、アントニオ猪木はプロレスファン夢の対決であった“人間風車”ことビル・ロビンソンと初対決、1対1から時間切れ引き分けでNWF世界王座を防衛する。この試合は今でも昭和プロレスファンの語り草になるぐらいの名勝負であった。

そしてこの時、この頃にNWFのタイトルを賭け大会場においてアントニオ猪木とAWA王者ニックの試合が見たいと思った多くのプロレスファンがいたのは間違いなかった。
アントニオ猪木は自らのプロレス理論に良く「風車の理論」を持ち出す、相手の力を8から9まで引き出し自らは10の力で勝つとういうことだ、一方ニックは「相手がワルツを踊れば私もワルツを踊り、ジルバを踊れば私もジルバを踊る」、そう相手のスタイルに合わせてレスリングを行い。相手の持ち味を十分引き出すとういう共通するレスリングのモットーを持ち合わせている二人のレスリングマスターがその防御と攻撃を複雑に駆使した闘いの中には、ファンを喜ばせ納得させるプロ・レスリングをきっと見せてくれるだろうという期待が充満している。
時代をさかのぼり日本プロレスが全盛の頃、そう1970年の秋この二人の対決は実現していたのだ、しかも二人のシングルマッチもタッグマッチもテレビでオンエアーされていた贅沢な時代があったのだ。

日本プロレスは新企画の秋のビッグイベントとして第1回NWAタッグリーグ戦を開催された。ただこのタッグリーグ戦において日本チームのアンバランスさが、リーグ戦の魅力を半減させてしまい観客動員も珍しく厳しいシリーズとなる。ジャイアント馬場、ミツヒライ組、アントニオ猪木、星野勘太郎組、キム・イル(大木金太郎)、山本小鉄組、吉村道明、凱旋帰国したグレート小鹿組の4チームである。ただ、外人チームは豪華で“黒い毒グモ”アーニー・ラッド、“黒い核弾頭”ロッキー・ジョンソン組、AWAの実力者コンビのニック・ボックウインクル、ジョニー・クイーン組、“ミネソタの難破船”ラーズ・アンダーソン、ボブ・ループ組、“テキサスの暴れん坊”フランキー・レイン、バッド・ラテール組の4チームである。

しかし、リーグ戦において外国チームで本命しされたラッドとジョンソン組は、個々の実力はあれどチームワークが悪く脱落、やはりこのシリーズ中において、実力NO.1のニック・ボックウインクルとパワーにテクニックを兼ね備えたジョニー・クイーン組はコンビバランスが素晴らしく決勝へ。
同じく日本側においてはスピードとコンビネーションが良い猪木、星野組が決勝に進むことになる。この間10月21日仙台市・宮城県スポーツセンターで行われた猪木とニックのスペシャル・シングルマッチはテレビ観戦。10月29日、大阪府立体育会館で行われたリーグ戦本番、猪木、星野組対ニック、クイン組の試合は運よく生観戦したがどちらも記憶の中において実に素晴らしい試合であった。

宮城でのシングルマッチは1本目ニックが電撃的なドロップキック3連発を繰り出し、なんと11秒で1本を奪う。奮起した猪木は同じく3連発のドロップキックでやりかえし2本目を22秒で奪い返す。3本目はようやくグランドのレスリングの攻防でスタートし猪木がコブラツイストを仕掛けようとした時に相棒のクインが乱入し26分50秒で猪木の反則勝ちとなる。3本目はまったく飽きのこない技の攻防に見とれてしまい、早く次の闘いを期待するほどの好勝負であった。

大阪でのタッグ戦は時間切れ引き分けに終わるが、星野とクインの技の攻防でスタートし、猪木とニックのドロップキックの応酬(このシリーズよく見られた)、コブラツイストの掛け合い、ニックのアルゼンチン・バックブリーカー、グランドでの猪木とニックの高度な攻防など見どころ満載、さらにお互いのタッグでのタッチプレーも最高でまさにプロレスタッグの醍醐味を体感できたものだ。



そして最終戦の優勝戦は、まさにタッグマッチの教科書的な試合。1本目33分30秒、星野はニックのスープレックで先制フォールされた後もリング上で大の字でのびてしまう。ようやく若手らの手をかりコーナーの戻って来たとき、苦しさのあまり水を飲もうとした星野に猪木は「飲むな!馬鹿」とテレビの音声にも聞こえるぐらい大きな声で怒鳴った。それが奏して時間切れ延長戦になっても星野はスタミナを維持でき、水を飲んだクインはスタミナ切れの為、ニックをフローできず、猪木の卍固めがニックにガッチリ決まり優勝の結びついたといわれた。

本来、このシリーズはダイヤモンドシリーズの枠で例年ならタイトルマッチがメインとなる秋のロングランシリーズゆえ、タッグリーグに変更されなかったら、BI砲のインター・タッグ戦、猪木、吉村とのアジア・タッグ戦に何らかの形でニックは絡んでいたであろう。
悲しい事に,BI(馬場&猪木)全盛時の日本プロレスには、ニックはこのシリーズのみの参加で終わる。その後、猪木は日本プロレスから追われ、新日本プロレスを設立。その時代においてニックとの対戦は無かったが、対戦のチャンスは幾度かチャンスは訪れた。
1970年前半から国際プロレスがまだAWAと提携していた為、ニックを新日本プロレスのリングにあげるのは無理な話であったが、ところが突如、国際プロレスとAWAに亀裂が走った。AWAが要求する高額な提携料が団体を圧迫するほど高騰。遂に1975年2月に提携を解消する事になる。
当時、1976年、新日本プロレスもアントニオ猪木対モハメッド・アリ戦で多額の借金をした返済の為、格闘技世界一決定戦を乱発し始め猪木は本来のプロレスに目が行かなくなっていた頃である。
猪木はアリ戦の頃からWWWFのビンス・マクマホン氏に急接近、秋に行われた”格闘技世界一決定戦”アントニオ猪木対アンドレ・ザ・ジャイアント”戦は、猪木がアリと引き分け、アンドレはニューヨークでプロボクシングのチャック・ウエップナーに勝ち、その二人のプロレスラー同士で決勝戦を行うという案を出してきたのはビンス・マクマホンその人、また、ビンスはNWAのメンバーではあるが、この時期AWAのバーン・ガニアとの親交も深く多くのAWA系レスラーがWWWFのリングに登場していた。
猪木もガニアとは”猪木対アリ戦”が全米でクローズドサーキット方式で公開されたのだが、ガニアは何んと!7か所も権利を買った。そんな中1976年の年末、猪木とガニアの間に新路線が敷かれたと噂され、それを実証するかのように11月の闘魂シリーズにはAWAの元世界タッグ王者ラリー・ヘニングの来日が決まっていた。そして年末、東京・蔵前国技館を2日間も新日本プロレスが押さえ、その1日にAWA世界チャンピオン、ニック・ボックウインクルが来日し猪木とNWF王座を賭けた大勝負をする情報が流れた。
当時のゴング誌も大きく取り上げられているのである。

その延長戦上に、今後は新日本プロレスのリングで、AWAの帝王バーン・ガニアを筆頭にニック・ボックウインクル、バロン・フォン・ラシクら本格的レスリングができるレスラーが来日し、さらにはタッグではデイック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー組、マッドドッグ・バション&ブッチャー・バションらと猪木、坂口、小林との新鮮な闘いが見れるとファンは湧きたつた。
しかし。その夢ははかなく消え去ってしまい、開けてみれば国技館のリングでは猪木とウイリエム・ルスカ「格闘技世界一決定戦」の再戦が行われた。
時は流れ1979年突如、「プロレス夢のオールスター戦」の開催が発表される。そのメインにおいてBI砲(G馬場&A猪木)が、8年ぶりに復活することになる。その対戦相手がファンの投票で決められる事になり、最終的にはアブドーラ・ザ・ブッチャーとタイガー・ジエット・シン組の史上最凶悪コンビが1位ななるが当時のNWA世界王者ハーリー・レイスとAWA世界王者ニックの世界王者コンビも7位に、さらにAWA王者ニックとWWWF王者ボブ・バックランド組も14位に入るという快挙.やはり玄人好みのファンの投票数が反映していたのだ。
しかし、ここでも残念ながら二人の対決が実現しなかった。
1983年、新日本プロレスは“世界に乱立するプロレスのチャンピオンベルトを統合する、世界一の証”という壮大なスケールの大仕掛けIWGPを発表する。それにニック本人は興味をもったのだが、AWA会長のスタンリー・ブラックバーン、プロモーター兼選手のバーン・ガニアの反対で流れた事もあった。

それから大きく時代は流れてしまう。1990年9月30日新日本プロレスの横浜アリーナにおいてアントニオ猪木30周年メモリアル・フェスティバルが開催される。同時にグレーテスト18クラブ発足が新日本プロレスより発表された。

メンバーはルー・テーズを発起人とした「過去に猪木と闘った」プロレスラー及び格闘家によって構成された。その中にニック・ボックウインクルの名前があつた時は嬉しかった。さらに「グレート18クラブ」が認定する新たなタイトルの制定も発表もされた。そして、次の日の夜、新日本プロレスのリング上で行われた猪木30周年セレモニーにニックの姿があった。さらにメインイベントのアントニオ猪木&タイガー・ジエット・シン対ビッグ・バン・ベイダー&アニマル浜口組のメインレフリーをニックが務めあげ、その後の線上に猪木対ニック戦の実現を大いに期待したものだ。
そして遂にこの年の12月26日,新日本プロレス・浜松アリーナーにおいて猪木対ニック戦のスペシャルマッチが発表されたのだ。
年末の忙しい時期ゆえ、確か仕事終わりに当時の流行りのテレビのあるショットバーに勢い勇んで駆け込んだ思い出が蘇る。

しかし、ロングタイツを履いたニックの対角線上にタイツ姿の猪木は居なかった。
そうイラクでの人質解放の為、現地でプロレスイベントを行い日本人人質の解放に尽力し、政治面で忙しい猪木の体調は優れなく、マサ斎藤に変わっていたのである。
目の前まで実現しようしようとした夢の対決はもろく崩れ去った。本当にこれが最後のチャンスであったかもしれない。

その後猪木とニックはアメリカのプロレス会場等で何度か対面している。
2001年、2004年のカリフラワー・アレイ・クラブでの二人の再会時は、本当にどちら満面の笑みで握手していた場面をみて嬉しく見いってしまった。

あの日本プロレスでの1回だけのシングルマッチでよかったのだ、いやもう一度,新日本プロレスの大会場のリングで二人のタイトルマッチをもう一度見たかったという心の葛藤の中で二人の再会を祝福していた。

追記:日本プロレス☆第1回NWAタッグリーグ戦中に二人の勝敗

★シングルマッチ 1勝(アントニオ猪木)
★タッグマッチ 1勝2引き分け(アントニオ猪木&星野勘太郎)
★6人タッグマッチ 5勝1敗
★タッグを含め、猪木の方が断然勝敗はニックを勝れているが、AWAの王者になってからの老獪なニックと猪木の闘いは夢物語となってしまった。(ファイト写真は昭和45年11月29日撮影)
記:藤井敏之

