近くて遠かった!!アントニオ猪木とハーリー・レイス
- Toshiyuki Fujii
- 11 分前
- 読了時間: 10分

これまで対戦が話題になった事は何度かあったが、日本のリングで不思議とシングル戦で相まみえることがなかったアントニオ猪木とハーリー・レイス。
キャリアと実績を積み上げた二人が対戦していればどんな試合になったかは遂に永遠の夢物語となってしまった今、若獅子と美獣と呼ばれた時代には、タッグ戦や6人タッグで対戦していた記録とその当時二人の対決をテレビでみていた私の印象を語ってゆこうと思う。今、思い起こせば本当に貴重な対戦を見れていたものだと感謝するしかない。
海外武者修行中のアントニオ猪木は1964年、最初のアメリカでのサーキット・コースであるミズリー州カンザスシティにおいて2カ月弱の滞在期間において、若きハーリー・レイスと抗争を繰り広げていた記録が残っている。初遭遇(1964年4月30日:カンザスシティ)においては、30分の時間切れ引き分けという熱戦をおこなっている。
その後、アントニオ猪木は凱旋帰国するのだが、日本プロレスでは無く東京プロレスのエースとして活躍したりして少し遠回りはしたが、1967年日本プロレスに復帰しBI砲(ジャイアント馬場&アントニオ猪木)と活躍していた。
そんな中、1968年のダイナミックシリーズ(2月23日、前橋市群馬スポーツセンター~3月23日横須賀市体育館=全12戦)にハーリー・レイスが遂に初来日する。
来日前のレイスは猪木との抗争の後、8月よりラリー・ヘニングの主戦場であるAWA圏に参戦。
"プリティ・ボーイ" ラリー・ヘニングと "ハンサム" ハーリー・レイスのタッグとして活躍し、1965年1月30日には今世紀最大の無法者チームデイック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーからAWAタッグ王座を奪取するまでの大物になっていた。
このシリーズには特別参加として、なんとAWAでの最大のライバルである“生傷男”デイック・ザ・ブルーザーも来日し、日本勢との闘いがスタートする。

このシリーズにおいて、アントニオ猪木との闘いは3度組まれていたが、残念ながらシングル戦は行われてはいない。
最初は2月25日岐阜市・市民センターで6人タッグマッチ(馬場&猪木&吉村対ザ・ブルーザー、バデイ・オースチン、ハーリー・レイス)戦で1-1の引き分け、なんと2戦目はブルーザーと初来日のレイスとのライバル・タッグで馬場と猪木のインター・ナショナル・タッグ王座挑戦という大抜擢。

確かにレイスはAWAにおいてブルーザーと血の抗争を展開してはいたが、大先輩のブルーザーとのタッグにおいてはやはりその補佐役的役割でブルーザーへの遠慮も垣間見てとられ、彼の指示どおり動いていたように思える。タッチワークは良く、外人チームが馬場の左足を徹底的に攻める試合展開だったが、辛うじてBI砲は防衛を果たす。猪木とレイスが殴り合う攻防をテレビで見て新鮮で躍動感があるなあと感心したものだ。

子供心に(当時小学校5年生)ブルーザーが帰国した、名古屋か東京・後楽園ホールあたりで猪木とレイスのシングル戦が実現すればよいのになあと思ったものだ。そして次回の来日に期待しながら再来日を待つことになる。

その機は意外と早めにやってきたのだ。1969年11月開催のNWAシリーズ(11月14日、東京・後楽園ホール~12月14日、東京・足立区体育館=16戦)にハーリー・レイスの名前があがる。このシリーズの参加メンバーは第二期黄金時代においても1位、2位を争うメンバーが揃う。NWAジュニアヘビー級王者のダニー・ホッジ、ベテランのキラー・バデイ・オースチン、ブル・ラモス、エデイ・サリバン、ジョニー・ウオーカー(ミスター・レスリング2号)、さらにNWA世界王者のドリー・ファンク・ジュニアとその父、ドリー・ファンク・シニアが(11月28日~12月5日)まで特別参加するという豪華シリーズである。

そんな中でもレイスはドリー・ファンク・ジュニアのポリスマン的存在でもあり上位クラスでの参戦となる。シリーズにおいてタッグ戦で猪木と4回、そのうち1回はドリーとのタッグで猪木&吉村組が保持するアジア・タッグ王座に挑戦、他6人タッグで6回も対戦するがシングル戦はまたお預けとなる。これだけ同年代でこれからのプロレス界を背負って行く二人の対決が無かったのが不思議でしかたない。
特に、11月29日静岡市・駿府会館で行われたファンク親子とレイスが組み猪木、吉村、ヒロ・マツダが組んだ試合とアジア・タッグ戦はテレビでも放送され、見所満載の試合であった。
“美獣”と呼ばれていた頃のレイスのファイトはとにかく攻めも守りもダイナミックであり,しっかりした基本レスリングの上にAWA圏で鍛え上げられたラフ・ファイトも凄まじく、オーソドックスなファイトでもラフでも対応できる器用なタイプで、既にこの頃からNWAの時期チャンピオン候補と叫ばれていた。


特に広島でのアジア・タッグ選手権試合では、1本目はレイスが豪華なブレーン・バスターで吉村からフォールするが、2本目からは反則攻撃で大暴走して敗れるが、レイスらしさが目立った試合であった。当時から既にレイスはドリーの側で彼を観察し、いつかは俺がNWA王者になりたいという野心の塊であり、12月2日、あの伝説のNWA王者ドリー・ファンク・ジュニアにアントニオ猪木が挑戦した試合においてもセコンドにつくが、後年のドリーの手記によると、試合中、コ-ナーにいるレイスの姿をみたが、対戦相手の猪木よりもっと危険で意地悪だ。レイスと闘うなら、猪木と闘うほうがずっと楽だと述懐している。
すでにドリーのアメリカにおいて最も危険なライバル的存在であったレイス。

この時期、若獅子対美獣の試合をまたまた見れなかったのは、まさに日本プロレスの歴史においても宝のカードを失う非常に残念なことであった。
又、次の機会を待つしかないと期待するしかなかった。
1970年の暮れ、馬場と猪木の関係も少しギグシャクしていた頃、ジャイアント馬場の最大のライバルである元NWA世界王者ジン・キニスキーとアントニオ猪木の最大の宿敵ジョニー・バレンタインが揃って来日する事が決定、その先陣隊のエース各としてハリー・レイスの来日が決まる。

インター・チャンピオン・シリーズ(11月13日、東京・後楽園ホール~12月9日、盛岡・岩手県営体育館=14戦)いよいよ猪木とレイスの一騎打ちが見られると待ち焦がれていた。

事前の発表において、レイスは何と3度のアジア・タッグ選手権に絡むことになる。11月29日札幌ではジョニー・バレンタインと、12月2日は名古屋での再戦、そして3度目は12月9日盛岡の最終戦でジン・キニスキーとのタッグでチャレンジするのである。この時代のアジア・タッグ挑戦の外人チームの大物感は晩年のタイトルマッチに比べスケールが大きいと解ってもらえるだろう。

レイスは残念ながら3度のアタックも王座奪還にはならなかったが、そのスケール度は昨年よりレベルアップしているように思えた。それ以外に2試合タッグ戦で猪木と当たってはいるが、やはり猪木とのシングル戦は組まれる事はなかった。事実、このシリーズにおいては地方大会では猪木対レス・ロバーツ、ランデイ・カーチス、ロッキー・モンテロらとのシングル戦は組まれているのである。

敢えてマッチメイキング担当の吉村道明はこのカードを避けていたのか?このあたりご存命であれば一番に聞きたかった質問である。
やはりシリーズの注目は猪木とバレンタインの東京プロレスから続く因縁の決着戦がメインテーマであり、残念ながら二人の対決はこの機会も逃してしまうことになるが、これが永遠の別れとなってしまおうとは夢にも思えなかった。

毎年、定期的に1シリーズはやってくるレイスだが、1971年の激動の日本プロレスに来日する事はなかった。そして年度末シリーズにおいて、アントニオ猪木のクーデター事件が発覚しアントニオ猪木は日本プロレスから追放されてしまう。
本来なら、この年猪木はUN王座を奪取し、シングル王座としてフレッド・ブラッシー、ジャック・ブリスコ、フリッツ・フォン・エリック、デイック・マードックらの大物の挑戦を退け12月9日、大阪でドリー・ファンク・ジュニアの保持するNWA王座と自ら保持するUN王座をかけたダブルタイトル戦を行う予定であったがそのリングに猪木の姿は無かった。

その延長戦上にハーリー・レイスがUN王座に挑戦するのを夢みていたのだが・・・翌年、皮肉にも猪木のいない日本プロレスにエース格としてダイナミックシリーズ(2月25日、東京後楽園ホール~3月15日、八戸市体育館=7全12戦)にレイスが来日、宮城県スポーツセンターで新王座の坂口征二のUN王座にチャレンジすることが決まる。

今でも思う、あのアントニオ猪木のクーデターがもう1年遅かったら、UNベルトを賭けた猪木対ハーリー・レイス戦が東北の地で見れたのだ。

倍賞美津子さんと結婚式を挙げ絶頂期だった猪木。年末にはドリー・ファンク・ジュニアへの挑戦が決まっていた猪木、そのシリーズ最終戦(東京都体育館)のカードは未定で、万が一猪木がドリーに勝っていたらその日はリマッチになる予定だった猪木、自らの履歴に元NWA王者と記載されるかもしれなかっ猪木、本当に残念で仕方ない1971年の年末。
その後、猪木は新日本プロレスを設立し、ジャイアント馬場も日本プロレスから
独立して全日本プロレスを設立。ジャイアント馬場は早々NWAのメンバーとなり、続々と超一流の選手が来日し、当然その中にレイスの名前があった。片やアントニオ猪木の新日本プロレスはアメリカのルートは師匠であるカール・ゴッチのルートのみで大物外人は来なくなる。
そう猪木とレイスの接点は全く無くなったといってもよかった。プロレス界の宝のようなカードが実現しないジレンマに昭和のプロレスファンはやきもきし続けてゆく。


予想どうりレイスが1973年カンサスシテイでドリー・ファンク・ジュニアを破り第47代NWAチャンピオンとなったのを手始めに同王座に就くこと計7度という記録を樹立。まさにミスタープロレスと言われた頃は全日本プロレスに幾多とも来日しNWA世界選手権試合をおこなっていた。
そんな中、ジャイアント馬場はNWAメンバーの中でも信用度が強く、昭和54年10月31日名古屋と昭和55年9月4日佐賀大会において2度レイスからNWA王座を奪取する快挙を成している。
その頃から猪木はNWA王座奪取に関心を示さなくなり独自の道・格闘技世界一決定戦を進めてゆく。その流れでWWWFのビンス・マクマホンとの関係も良好となりアメリカ東部の桧舞台であるマシソン・スクエア・ガーデンに上がることも増え、同時期(1978年MSG4大タイトルマッチ、WWWF世界マーシャル・アーツ選手権試合・猪木はテキサス・レッドとレイスはNWA王座を賭けトニー・ガレアと対戦)にNWA王座としてレイスも参戦した時は控室で再会を喜ぶ二人の姿があった。

その後は海外では何度も顔を合わす程度で最後に見たのは、1994年WCW7.17オーランド大会に猪木が参加、そこで猪木はTBS(ターナー・ブロードキャスト・システム)からスポーツ特別功労賞を受け取る。同会場にきていた勝手の盟友、ライバルであったハリー・レイス、テリー・ファンク、ニック・ボックウインクルらが猪木との再会を喜ぶ姿があった。

同じ時代に活躍する偉大なファイター、何度も対決できる関係もあれば、1回で終わることもさらには1度もその対戦機会が無く終わってしまうこともある。
猪木とレイス、若き頃は自然の流れのまま対戦することもあったが、互いに出世してゆく中でプロレス界の政治力という目に見えない力により二人の対決は遮断されたといっても過言ではない。
シングルでの対決は夢物語で終わってしまったが、ファンの想像はお二人が亡くなった今でも続いているのである。それがプロレス浪漫であるのだ。
偉大なお二人に改めてお悔やみ申し上げます。





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