
爆弾小僧の光と影(後編)
- Satom
- 2 日前
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更新日:4 時間前
前回は、キッドが故郷イギリスから移り住んだカルガリーを足がかりに、日本での地盤を確固たるものにするまでを振り返った。
今回はレスラー人生の後半生、絶頂から転落までを含む、波乱の軌跡について見ていきたい。
藤波という好敵手を得た僅か一年後、キッドの前に生涯最高の新しい恋人が出現した。言うまでもなく、初代タイガーマスク・佐山サトルである。
1981年4月から83年にかけて、約二年ほどの短いライバル関係であったが、二人がリングの上に散らした閃光は鮮やかな残像となって、今も多くのファンの脳裏に焼き付いているのではないか。
この時期、キッドと初代タイガーが築いた土台の上に、90年代の新日スーパージュニア戦線が確立され、更にはWWF(WWE)、WCWにおける、エディ・ゲレロ、クリス・ベンワー、レイ・ミステリオ・ジュニア、ウルティモ・ドラゴンら軽量級レスラー達の黄金時代が導かれたと言っても大げさではないだろう。



思えばタイガーマスクを筆頭に、マーク・ロコ、ブレット・ハートら、手の合う相手と名勝負を繰り広げていた1980年代初頭の数年間が、シングルプレーヤーとしてのダイナマイト・キッドの絶頂期であった。
しかし、最愛の相手タイガーは1983年夏に突然の引退を宣言、新日マットを舞台とした二人の物語りは唐突に終わりを告げてしまう。
1984年2月、タイガーマスクの離脱により空位となっていたWWFジュニア・ヘビー級王座争奪戦が新日マットで開催され、決勝ではキッド、デイビーボーイ・スミス、ザ・コブラの三人が巴戦を
行いキッドが優勝、日本での初戴冠を果たした。しかし、新日本での戦歴がピークを迎えたこの頃25歳のキッドの身体には、既に相当なダメージが蓄積されていたと言われる。
同年の夏頃、WWFの全米侵攻に伴い、北米大陸に
おけるキッドの主戦場だったスタンピード・レスリングの興行権は、ビンス・マクマホン・ジュニアの手に渡った。オーナーだったスチュ・ハートは、ブレット・ハート、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、ジム・ナイドハートらカルガリー・マット主力をWWFに移籍させることを条件に、売却を了承したという。*1)

夏から秋口にかけてWWFのTVテーピングに顔を出していたキッドとスミスだったが、同年の暮れには新日本のシリーズに来日する予定を土壇場でキャンセル、全日本の最強タッグに乗り換えるというイレギュラーな行動を見せてファンを驚かせた。
この移籍は、新日本は勿論、WWFに対しても背信行為になるはずだが、どのように話しがついたのか、翌1985年には全日本とWWFを往き来する、過酷なロングサーキットがキッドの日常となる。
WWFでは前年からハルク・ホーガンの長期政権が始まり、MTVとの提携によりシンディ・ローパーがMSGに登場するなど、プロレスの枠を超えたファン層に訴求するビンス・マクマホン・ジュニアのビジネス戦略に沿ったストーリーが、リング上で展開されていく。
キッドとスミスは主にタッグ戦線で活躍、ブリティッシュ・ブルドッグスとして、1984年から88年まで、足かけ5年にわたってWWFに在籍した。
主な対戦相手は、カルガリーからの移籍組であるハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)をはじめ、ドリーム・チーム(グレッグ・バレンタイン&ブルータス・ビーフケーキ)、アイアン・シーク&ニコリ・ボルコフ、ビッグ・ジョン・スタッド&キングコング・バンディ、ザ・デモリッション(アックス&スマッシュ)、ホス・ファンク&J.J.ファンクなど多岐に渡った。
日米を問わず、身体を張ったハードな試合を身上とするキッドの肉体は、時にスーパーヘビー級の選手との連戦を通じてダメージを蓄積していく。80年代の半ば以降は、鎧のようなボディを維持するためのステロイドとパーコセット(麻薬成分を含む強力な鎮痛剤)が欠かせなかったキッドに、やがて悪魔が忍び寄る。
1986年11月、カナダ・オンタリオ州ハミルトンで組まれたタッグマッチ(ボブ・オートン・ジュニア&ドン・ムラコ対 ブリティッシュ・ブルドッグス)でアクシデントは起こった。ロープワークの際、背後から不意に、膝で背中を強打されたキッドは悶絶、脊椎損傷の重症を負い翌年まで戦線を離脱する。
この事故が、結果としてキッドのレスラー生命を大幅に縮めることになり、違法ドラッグやペインキラー(鎮痛剤)への依存度が更に増していく。
そして、負傷と前後してリング内外でのキッドに粗暴な振る舞いが目立つようになった。ジョバー相手に苛烈な攻撃を仕掛けたり、移動中や控室では、仲間のレスラー相手の度を越した悪ふざけや諍いが度々目撃されている。*2)
当時、北米大陸を網羅したWWFのサーキットは、その過酷さで知られていた。連日の長距離移動一つとっても大変な消耗だが、加えて肉体を酷使しての激闘、レスラー同士の誹謗中傷、エージェント相手の駆け引きなど、その「圧」は想像するにあまりある。様々なストレスが嵩じ、時として暴発することも少なからずあっただろう。
精神的・肉体的な負担が高まる中、やり場のない苛立ちをぶつけるはけ口を探していたのはキッドだけではなかった。後年になって、ステロイドや違法ドラッグ、鎮痛剤などの濫用により衝動的な暴力に結びつくケースが指摘されたが、これらのクスリを常用していたのもキッドのみにとどまる話しではない。*3)
キッドを特徴づけていたのは、リング内外を問わず、レスラーは常にタフガイでなければならぬという信条が人一倍強かった、ということだろう。しかし、これも言ってしまえばキッドに限ったことではない。"(同業者に)舐められたら終わり"という意地、矜持は、程度の差こそあれレスラーならば誰もが持ち合わせているはずである。
WWFでキッドを襲った第二の「事故」は、いわばこうした選手同士の意地のぶつかり合いから生じたものであった。1988年10月5日、インディアナ州フォート・ウェインのローカル会場におけるバックステージで、ジャック・ルージョー(ジュニア)に襲われたキッドは、一発のパンチで前歯四本を失い、顔面血だるまとなった。キッドを殴ったジャックの右手には、クォーター(25セント硬貨)のロールが握られていたという。*4)

この一件だけを見ると、キッドが理不尽な暴力の被害者のように映るが、事態はそう単純ではなかった。この事件には前段がある。約一週間前の9月29日マイアミ大会の試合前、キッドが控室でカードゲームをしていたジャックの不意をついて後ろから急襲していたのだ。この時は、脚の負傷で松葉杖をついていた兄レイモンドも巻き添えをくっていた。
そもそもルージョー(ズ)とキッドの確執の原因は何だったのか、複数のレスラーが様々な証言をしているが、おおむね共通しているのは仕掛けていたのがキッドの方だったこと、裏で不仲を煽っていたのが、当時ミスター・パーフェクトとしてWWFに参戦していたカート・ヘニングらしい、ということだった。
虫の好かない相手というのは誰にでもいるものである。モントリオールを地盤とするフレンチ・カナディアンのルージョー兄弟と、イギリスからカルガリーに渡って来たキッドの相性が良くなかったとしても、とりたてて不思議なことではない。
レイモンドは、後年のインタビューでキッドとの軋轢を振り返り、コメントしている。
「一つはっきりしていたのは、やられたままではいられない、ということだった。どちらがキッドに報復するか、ジャックと話しあった。ジャックは自分がやるという。俺たちはその日を待った」
兄弟の父ジャック・ルージョー(シニア)はボクシングでゴールデン・グラブ賞を獲得した猛者でモントリオールのナイトクラブで用心棒をしていた経歴を持つ、いわゆる"揉めてはいけない相手"
であった。長男のレイモンドも物腰はソフトだが父親の血を引く硬骨漢であり、リング内外で自らを護る術を心得ていた、とされる。
次男のジャック・ジュニアは、身長190cmを超え体格的には兄を凌いでいたが、レスラーとしての自分をエンターティナーと称し、性格的にもファイター・タイプではなかった。しかしルージョー一家の一員として、汚名はそそがねばならない。
相手は小柄ながら、業界名うてのタフネスで知られたキッドである。リベンジを果たすその日までジャックは夜も寝られず、食事も満足に喉を通らなかった、と後に告白している。
コインロールを握るようにアドヴァイスしたのは父のジャック・シニアだったという。その日、ジャックの拳は四本の前歯と共に、キッドのレスラーとしての拠り所であるプライドも打ち砕いた
仲裁に入ったマクマホン・ジュニアが後日設けた「手打ち」の席で、双方に対し、これ以上の報復揉めごとは一切認めない旨の通達が出されるが、これを不服としたブルドッグスはWWFを離脱、 その後の活動の場を、一時的に復活していたスタンピード・レスリングと全日本マットに求めた。
元号が平成に変わったばかりの日本で、ファンはキッドの帰還を歓迎した。新春ジャイアント・シリーズ最終戦に後楽園ホールで行われたブルドッグス対マレンコ兄弟のタッグマッチは名勝負となる。全盛期に比べ身体はスリムになったものの、キッドらしさは随所に健在であった。
その三日前、大阪府立体育会館で行われた天龍源一郎、サムソン冬木組とのタッグマッチでも、キッドは剃刀のようなエルボーでコーナーに追い詰めた天龍の顎を切り裂くという、凄みある攻撃を見せた。私は会場でこの試合を観たが、天龍に対するキッドの気迫に、館内が大きくどよめいたことを覚えている。少しやつれた身体から繰り出される妖刀の迫力と切れ味は、浪速のファンを唸らせた。
前月に30歳の誕生日を迎えたばかりのキッドが
醸し出す空気には、どこか黄昏をイメージさせるものが漂っていたが、それはレスラーとしての色気と表裏一体のものであったと今振り返って思う
この当時、レスラー・キッドが発した最後の閃光を目にした日本のファンは、複雑な感情と共に、これまでレスラー生命を削りながら見せてくれた命懸けのパフォーマンスに対して、切ない感謝の念を強くしたのではないか。
1991年の「引退」以降も日本とイギリスにおけるキッドの物語りは続くが、ここに記すのは場違いになるので控える。この平成初期のシーンをもって、稀代のレスラー、ダイナマイト・キッドのエピローグとしたい。
12月5日、キッドの誕生日であると同時に、7回目の命日となった今日、天上の爆弾小僧に想いを馳せようと思う。
*1)カルガリー地区の興行権は、一旦ハート家の手を離れたが、WWFのスポットショーで期待したほどの動員がなかったことから、数年後には次男ブルースがスタンピード・レスリングを再開。
88年末にWWFを離脱したキッドもカルガリーに復帰するが、91年頃には再び閉鎖された。
*2)ミック・フォーリー(カクタス・ジャック)の自伝「Have a nice day」には、1986年の夏、 デビュー二戦目でブルドッグスと当てられた二十歳のフォーリーが、キッドのラリアット(クローズライン)で顎を外された経験が記されている。
サーキット中の悪戯に着いてはキッドの自伝「ピュア・ダイナマイト」にも詳しく記されているが、それ以外にもレスラー仲間の証言によると車を運転中のドライバーの飲み物に麻薬や強い眠り薬を入れたり、試合中のレスラーの私物(服やバッグ)を切り裂いて壁に張りつけたりと冗談の域を越えていたことも頻繁にあったとされる。
*3)後にクリス・ベンワーの無理心中事件においても、ステロイドの副作用による突発的な攻撃衝動の影響が指摘された。(「みんなのプロレス」斉藤文彦 p161-162)又、ディック・スレーターによる私生活上の傷害事件に際しては、鎮痛剤の過剰服用に起因する幻覚作用を本人が主張している
*4)ルージョー兄弟は直後にマクマホン・ジュニアにことの次第を報告、そのまま会場を後にした
スミスに付き添われたキッドも病院に直行したため、この日のカードにはルージョーズ、ブルドッグスのいずれも出場していない。





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